安部英・元副学長に無罪

安部被告無罪判決後、東京地裁を出て無念の思いを語る川田悦子さん(中央)と龍平さん(左)
 血友病治療などに使われる非加熱血液製剤にエイズウイルス(HIV)が混入し、患者が感染して死亡した薬害エイズ事件で、業務上過失致死罪に問われた元帝京大副学長・安部英(たけし)被告(84)の判決公判が二十八日午前、東京地裁で開かれた。禁固三年の求刑に対し、永井敏雄裁判長は「安部被告には血友病患者がエイズを発症して死亡するという予見可能性はあったが、その程度は低く、過失があったとは言えない」と述べ、無罪を言い渡した。

 薬害史上、医師の刑事責任が初めて問われたが、判決は当時の医療現場では、安全とされたクリオ製剤への転換は治療上、支障があったと判断した。この事件では、大阪地裁が昨年二月、製薬会社の旧ミドリ十字元社長ら三被告に実刑(禁固)を言い渡しており、正反対の結論となった。検察側は控訴する方針。

 死亡したのは一九八五年に非加熱製剤の投与を受けた患者で、公判では、〈1〉非加熱製剤に混入したHIVの危険性の認識時期〈2〉非加熱製剤以外の治療法の有無〈3〉帝京大病院の内科長として安部被告に治療方針を決定する権限があったか――が主な争点となった。

 判決は、安部被告に治療方針の決定権限があったと認定。そのうえで、安部被告が八四年十一月ごろまでにはHIVの高い危険性を認識していたとする検察側に対し、「世界の研究者が当時、公にしていた見解などに照らせば、HIVの性質はなお不明の点が多々存在していた」と指摘。こうした実態を踏まえ、「安部被告が高い危険性を予見していたとする検察側の主張には無理がある」と退けた。

 また、安全とされた国内血しょうを原料としたクリオ製剤の使用についても、「非加熱製剤と比べ、治療に少なからぬ支障を生ずるなどの問題があった」と判断。「クリオを使用すべきだったとする検察側の主張はあまりに便宜的で、当時の血友病治療の現実から乖離(かいり)している」とし、「非加熱製剤の投与を中止しなかった安部被告に、患者のHIV感染を回避する義務はなかった」と結論付けた。

 さらに、検察側証人に立った安部被告の元部下の証言について、「自分への責任追及を緩和するために安易に検察側に迎合した疑いも払しょくできない」と述べた。

 検察側は、帝京大病院の医師を監督する立場にあった安部被告が、非加熱製剤の投与で患者がHIVに感染することを予見したのに、八五年五月から六月にかけて男性患者に投与を続けて感染させ、九一年十二月に死亡させたとして起訴した。

          ◇

 ◆判決の骨子◆

 一、被告には、エイズによる血友病患者の死亡という結果発生の予見可能性はあったが、その程度は低かった。

 二、大多数の専門医が非加熱製剤を投与していた実情に照らせば、被告に、非加熱製剤の投与を中止しなかった結果回避義務違反があったとは評価できない。

 三、結果が悲惨で重大であるからといって、犯罪の成立範囲を広げることはできない。

          ◇

 ◆検察、控訴へ◆

 上田広一・東京地検次席検事の話「検察官は、十分な主張・立証を尽くして有罪を確信していたので、予想外の判決で驚いている。判決理由を検討した上で、控訴の方向で上級庁と協議する」

(3月28日13:56)


薬害エイズ事件の判決要旨(1)

 薬害エイズ事件の判決要旨は次の通り。

 (主文)

 被告人は無罪。

 (理由の骨子)

 1 検討に当たっての基本的視点

 本件は、血友病患者である被害者が大学病院で非加熱濃縮血液凝固因子製剤(非加熱製剤)の投与を受けたところ、同製剤がエイズ原因ウイルス(HIV)に汚染されていたため、やがてエイズを発症して死亡したとして、同病院で科長等の立場にあった被告が業務上過失致死罪に問われている事案である。

 本件当時、血友病につき非加熱製剤によって高い治療効果をあげることと、エイズの予防に万全を期すこととは、容易に両立し難い関係にあった。

 このため、最先端の専門家がウイルス学的な解明をし、これを受けて血友病治療医が具体的な対処方策を模索していた。本件は、未曽有(みぞう)の疾病に直面した人類が先端技術を駆使しながら地球規模でこれに対処するという大きなプロセスの一断面を取り扱うものである。

 その検討に当たっては、全体を見渡すマクロ的な視点が不可欠であるが、それと同時に、時と所が指定されている一つの局面を細密に検討するミクロ的な視点が併せて要請される。

 また、事実認定に当たっては、当時公表されていた論文など確度の高い客観的な資料を重視すべきである。事後になされた供述等については、その信用性を慎重に吟味する必要がある。

 2 業務上過失致死罪の前提となる被告の立場

 (略)

 3 本件被害者のエイズ発症・死亡原因

 本件被害者がHIVに感染した時期は、1985年5月10日ころから同年7月8日ころまでの間であったと推認される。そして、本件被害者は、この期間中に、同年5月12日、同年6月6日及び同月7日の3回にわたり、帝京大学病院第一内科において、手首関節内出血の止血治療のため、外国由来の非加熱第8因子製剤であるクリオブリンを投与されたことが認められる一方、本件投与行為以外の原因によりHIVに感染した証跡はない。本件被害者は投与行為によりHIVに感染したものと推認するのが相当である。

 4 エイズ研究班当時までの事実関係の概要

 (略)

 5 エイズ研究班以後の結果予見可能性に関する事実関係

 ギャロ博士、モンタニエ博士らのウイルス学的研究等により、本件当時、エイズの解明は、目覚ましく進展しつつあった。しかし、両博士を含む世界の研究者がそのころ公にしていた見解等に照らせば、本件当時、HIVの性質やその抗体陽性の意味については、なお不明の点が多々存在していたものであって、検察官が主張するほど明確な認識が浸透していたとはいえない。検察官の主張に沿う証拠は本件当時から十数年を経過した後に得られた関係者の供述が多いが、本件当時における供述者自身の発言や記述と対比すると看過し難い矛盾があり、あるいは供述者自身に対する責任追及を緩和するため検察官に迎合したのではないかとの疑いを払しょくし難いなどの問題があり、信用性に欠ける点がある。

 結局、本件における被告の結果予見可能性については、起訴事実をそのまま認めることはできない。帝京大学病院には、ギャロ博士の抗体検査結果やエイズが疑われる二症例など同病院に固有の情報が存在したが、これらを考慮しても、非加熱製剤の投与によって、血友病患者をHIVに感染させる危険性は予見しえたと言えるが、それが「高い確率」であったとは認めがたい。HIV感染者について「その多く」がエイズを発症するということは、現在の知見においてはそのように認められようが、本件当時においてそのような結果を予見することが可能であったとは認められない。

 しかし、他方において、こうした「高い」、「多く」といったことを別にすれば、本件当時においても、外国由来の非加熱製剤の投与によって、血友病患者を「HIVに感染させた上、エイズを発症させてこれを死亡させうる」ことは予見し得たといえるし、被告自身が現実にそのような危険性の認識は有していたと認められる。換言すれば、本件において、被告は、結果発生の危険がないと判断したわけではなく、結果発生の危険はあるが、その可能性は低いと判断したものと認められる。

 なお、「エイズの生涯発症率を10%程度と推測していた」という被告の供述は、自らに不利益な事実を任意に供述したものであることを考えても、余りに不自然である。被告が本件当時において真実そう考えていたというのではなく、その後、エイズ発症率を10%前後とする文献に接したりして、自らの記憶を再構成するに至ったのではないかという疑問を禁じえない。 従って本件においては、関係証拠により認められる結果予見可能性の程度を前提として、なお被告に結果回避義務が認められるかどうかが、過失責任の成否を決定することになると考えられる。

(3月28日15:43)


薬害エイズ裁判、司法は「過失の範囲」厳格解釈

 薬害史上初めて、医師の治療方針の妥当性が問われた裁判で、司法が出した結論は「無罪」だった。検察側は、専門医の治療方針という「医の聖域」に切り込んだが、判決は「事件の結果は誠に悲惨で重大だが、被告を処罰してほしいという要請を考慮するあまり、犯罪の構成要件の範囲を広げてはならない」として、過失の成立範囲を厳格に解釈した。

 無罪を決めた最大の要因は、非加熱製剤に混入したエイズウイルスの危険認識の時期だ。

 判決は、検察側が立証の根拠にすえた当時の学術論文も詳細に検証している。その上で、学術論文を見ても、検察側主張に沿った見解は推論できないとして、当時の医師や研究者の間には「明確な危険認識が浸透していたとは言えない」と断定。検察側の立証を根底から覆した。

 そして、結果回避義務の判断にあたっては比較衡量の立場を取り、血友病専門医であれば、安部被告でなくとも「非加熱製剤の投与を控えることはなかった」と認定。安全とされたクリオ製剤を使用すべきとした検察側の主張を、「合理的疑いが残る」と退けた。

 五百人を超す犠牲者を出した薬害エイズ事件は、「産・官・医」三者の過失によって起きた「人災」というのが検察側の描いた構図だ。

 非加熱製剤を出荷した旧ミドリ十字については、八六年一月に安全な加熱製剤の販売を開始した後も危険な非加熱製剤を販売し続けた「過失」を問われ、歴代三社長に実刑判決(控訴中)が言い渡されている。

 一方、旧厚生省元課長の松村明仁被告は、安部被告同様、八四年当時の危険認識を争っているが、旧ミドリ十字の継続販売の責任も問われており、今回と同じ三人の裁判官が担当する松村被告の判決の行方は微妙だ。

 安部被告の刑事責任を否定した判決は、司法の限界を示した。しかし、安部被告をはじめ、当時の血友病専門医らは、なぜ感染拡大を防止できなかったのか、自身で問いなおす必要があろう。

 この日の無罪判決は一方で、行政や専門家に薬害を防止する責務をより強く求めているとも言える。(社会部 吉池 亮)

(3月28日14:05)



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