沖電気指名解雇事件、その後の職場の変化

  1978年11月、沖電気は「従業員の数が多すぎて企業競争に勝ち残れない。」として、従業員の一割にあたる1500名の首切り合理化を提案した。

 合理化が提案されたとき労働組合は一応これに反対した。しかしすでに半ば御用組合化されていた中央は形ばかりの闘争を行い、けっきょくこれを受け入れた。唯 一私がいた八王子支部だけは最後まで反対して闘った。
 職制が解雇対象者に退職 を同意させようと近ずくと、職場の全員でそれを阻止し、「人が多すぎて会社がやっていけないのなら、まず自分たちがやめろ」と職制追求を行った。構内をデモ行進し、会社がピケを張った場合を想定したピケ破りの練習なども行った。
 しかし、組合中央は八王子支部の闘う姿勢をやめさせようとした。
 組合中央は闘争を半ばで放棄してしまい、1350名の解雇が強行された。
     
 解雇された人のうち70余名がこの解雇を不当として裁判を起こし闘い始めた。組合中央はこれを支援しないばかりか、他組合を回って争議を支援しないように働きかけるなど、この闘いの妨害に回るありさまだった。
 当初、共産党系、新左翼系、社会党系に分かれていた争議団は、「沖電気争議団」を結成し全国の労働者に支援を訴えるとともに、裁判を起こして闘い始めた。
      
   沖電気の職場では、解雇にならなかった人たちも会社のやりかたに憤りを持っていた。しかし、労働組合の会社よりの姿勢や、会社からのアメとムチの締め付けの中で、職場の雰囲気は急激に変化し、争議を支援する人、会社を批判する人が孤立させられた。 
 
 指名解雇を不当とする裁判の中で、従業員の「意識改革」を計ることがこの解雇の目的であったこと、沖電気は人が多すぎるとして解雇を強行しておきながら、同時期にトンネル会社を使って、秘密裏に多数の社員を採用していたことなどが明らかにさた。

   1987年3月、裁判所は半数の35名の職場復帰、解決金12億9千万円和解案を示し、争議団と会社双方はこれを受け入れた。


 しかし、職場はすっかり変貌しており、戻った35名人に対する差別はきびしく、自らせっかく戻った職場から去っていく人もいた。

 それから15年、現在に至ってもこの差別は続いている。 


1980年沖電気労組八王子支部役員選挙

この選挙は2年に一度の、支部委員長、書記長、副委員長、支部委員4名の改選の選挙だった。

前年に指名解雇の責任を取って辞任した委員長を含め、全員指名解雇に反対した人達だった。

(1978年10月品川事業所で行われた臨時組合大会で首切りに反対したのは代議員約200名の内、八王子からの代議員40名と他の事業所全体で2名のみであった。首切りやむなしの理由は、「1割の者の為に9割が犠牲になれない」、だった。)

 会社側は、「八王子の改革」の総仕上げとしてこの選挙を位置づけた。

品川、芝浦事業所などから続々と「八王子を改革」する為の人材が送り込まれた。

門前で就労闘争が行われているとき、この人達は高尾駅で隊列を作り、争議の支援者などを突き飛ばしながら会社の中に入っていった。

 「荒井課長」と呼ばれる人が、この選挙の責任者として八王子に来た。

私は現委員は全員立候補しないとの噂を聞いた。このまま会社側で組合役員が占められると現在の職場での差別やいじめの労務政策を認めたことになる。当選できないとしても、誰かが立候補して、皆が会社の方策を良しとしていない意思を投票で示す受け皿にならねばならないと考えた。

私は当時の書記長、執行委員、旧書記長に立候補を促して回った。(私が部長をしているマンドリンクラブに反執行部の者がいるという理由だと思われるが、彼らと私とはあまり仲が良くなかった。)

当時の書記長談。「2月の会社のスキー旅行で、立候補者が確認され、5月の連休に立川の市民会館で総決起集会がやられたらしい。対立候補が出ても、その得票は二桁に押さえると豪語したらしい。これから会社がもう少し左に寄ってくれと言いたくなるほど右よりの組合になるらしい。われわれも闘うかどうか話し合ったがとうてい勝ち目はない。みんな差別されている。立候補は断念する。田中君が出るのなら頑張って欲しい。」

当時の執行委員(山田氏)談「自分は中途入社でもともと賃金が安かった。それがこのところ残業がまったくさせて貰えない。査定も悪い。去年から買った衣類はこのTシャツ一枚だ。」

 結局、現役員、旧役員経験者はだれも立候補しなかった。

 私は、共産党系、新左翼系、それに昔共産党から分派したと言われるNというセクトに、連合して立候補しようと呼びかけた。

 彼らは、それまで日頃からお互いに対立していた。しかし、私が部長をしていたマンドリンクラブには、共産党系の者も新左翼系の者も所属していた。そこではお互いに話が出来た。また、Nに属するTという者は私の職場の職場委員として「職制追求」の先頭に立った者だった。一定人望もあった。私とも親しかった。そういう事情があって、この選挙の立候補も争議支援も一本化するべきだと呼びかける事ができた。

 呼びかけた私も立候補せざるを得なかった。当初各グループから一人と私の4人が立候補する事になっていた。しかしある日Tが私の家に来て「田中さんは立候補すべきではない。我々も止める。今立候補すれば、必ず会社から報復を受けるのが目に見えている。ただでは済まない。」と言った。

 ただでは済まない事は私も強く感じていた。一瞬止めようかとも思った。しかしここで逃げたら一生後悔することになると思った。(この時逃げていたら私の人生は変わっていたと思う。もちろん悪い方に。)

 剣道部の先輩は私が立候補すると聞いて「おまえは気違いか」と言った。

 政治的な思想とか、労働運動の専門的な考え方とかいうものではなく、現在行われている差別やいじめの労務政策を許してはならないと言うことで訴えようと提案し、受け入れられた。

 結局Tは立候補を取りやめ、3人が立候補した。(私は八王子良心連合と名付けた) 

*会社は差別やいじめの労務政策を改めろ。

*会社は人間の良心を踏みにじるな。

*踏み絵はやめろ、ラジオ体操の強要をやめろ。

と言ったスローガンを決めた

 

 選挙戦が始まると会社側は大量の運動員を動員した。各候補者に7人ずつ、49人を動員出来た。

候補者と、運動員は工場の4カ所の門に並んだ。運動員は候補者の名前を書いた板を持たされた。

 昼休みは彼らは行列を作って職場を回った。これは「大名行列」と呼ばれた。「大名行列」が職場に入ってくると拍手で向かえられた。職場によっては回ってきた候補者に「花束贈呈」が行われた。巨大なだるまがおかれ「目入れ」が行われた。

 候補者、運動員の他に常に彼らについて回る「ディレクター」のような者がいた。技術管理部の船戸、早川という者だった。

 「ディレクター」は我々が職場を回って演説をしようとすると、その職場の人を全員追い出す役目も持っていた。また我々の写真も撮ってくれた。

 私はこれに対し「電撃作戦」を行った。昼休みのチャイムが鳴るや、目標の職場に全力で走っていった。「ディレクター」が来る前に大きな紙メガホンを使って大声で演説を行った。

「我々は仕事に力を尽くすのは当然だ、しかし、会社に人間の良心まで売り渡したわけではない。『あいつと口をきくな』と言われる者が多くの職場で作られているのは知っているはずだ。彼らがいったいどんな悪いことをしたのか。みんな勇気を持って欲しい。おかしいことはおかしいと口に出して言って欲しい。」

 こんどは「ディレクター」が駆けつけても職場の人は出ていかなかった。

職場では根回しが盛んに行われた。係長クラスが中心に「飲み会」が頻繁に行われた。そこで立場の曖昧な者に説得が繰り返された。

 情報収集も盛んに行われ、「誰と誰がどこで何を話していた」ということを逐一総務課はつかんでいるといわれた。マンドリンクラブの部室での会話の内容まで総務課が知っていると言われた。(このことについては真偽は定かではない)電話の盗聴もされたと言われた。工場内にある公衆電話は、交換台に通され、内容が聞かれていると言われた。あるとき出入りの業者が公衆電話で沖電気の悪口を言ったところ、それを聞かれて取引をはずされたと言う。

 緊張した雰囲気が職場にあった。怖がっている者が多かった。私の結婚式にも出席した友人に廊下ですれ違うとき声を掛けた。立ちすくんで顔色が変わるのが分かった。何日かして彼に電話した、「今の会社に対してあれだけガンガン言える人はいない。田中さんの度胸には頭が下がるが、自分は恐くてかかわれない、悪いが声を掛けないで欲しい。」が答えだった。

 立ち会い演説会は組合前の広場で行われた。1000人くらい聴衆がいた。先に会社側の候補者らがしゃべった。「さくら」が配置されていて盛んに拍手や声援を送った。組合事務所で出番を待っているとき「我々の演説の時みんな帰るらしい」と情報が入った。そこまでやるかと言う声があった。私はいまの会社の体質を表していて、かえって面白いと思った。

 はたして、そのとおりになった。聴衆は一斉に帰って行った。

写真

残ったのは数名の我々の支援者だけだった。「ディレクター」が残った者をビデオで写していた。

 投票日は雨が降っていた。私は傘をさして投票所の入り口近くに立った。投票する人達を勇気づけたかったからである。

 結果は三人の候補者がそれぞれ110票あまりを獲得した。八王子の組合員数は千数百人であったからもちろん落選である。我々はそれを承知していた。会社は「対立候補が出たとしても、その得票数を二桁に押さえる」と豪語したという情報が入っていた。我々の目標は二桁を超える事であった。票読みでは40票しか取れないはずであった。だから勝ったと思った。

どこかの職場で係長が「未だに会社に反抗する者が100人以上もいる現実をどう思うのか」と言ったと言う。

 選挙が終わって何日かして社内でのビアガーデンがあった。充分闘ったという誇らしい思いがあった。一緒に選挙を闘った仲間と飲んでいると「荒井課長」がやってきて私に握手を求めた。「君は一方の雄だな」と言った。

(この荒井課長もやがて失脚したと後に聞いた)

さらに何日かして課長に呼ばれた。「なぜ立候補することを事前に相談してくれなかったのか」と言われた。「かえって迷惑をかけると思った」と答えた。課長は「そのとおりだ。予め言っていれば立候補を止めさせることをしなければならなかった」と答えた。

 私に対する仕事の取り上げは厳しくなった。その年の年末一時金の査定はマイナス100%だった。もちろんこんなひどい査定を受けることは初めてであり、選挙に対する会社の報復であることは明らかだった。

そして翌年の配転攻撃から解雇と続く。

 職場ぐるみで会社候補者を応援させる選挙のやり方はその後十数年続くことになり、職場の統制により、「批判票」は減り続けた。

 指名解雇の直後は、会社の行った首切りに対する怒りの声が多かった。沖労組は争議を支援しないばかりか、地域の他労組に対して、「現在地域を回っている沖電気争議団なる者達は、沖電気労組とは無関係の者達であります。」という文章を配布し圧力を加えた。

 しかし、「三井三池以来初めての大量指名解雇を許すな」と連日多くの支援者が門前に詰めかけた。一時期は八王子だけで数百人と言われた。

 争議に対して職場からはカンパが集められ門前で闘う人に届けられた。

 しかし、当初解雇された人達は4つの組織に別れていた。共産党系の「沖電気指名解雇を撤回させる会」、新左翼系の「沖電気指名解雇を撤回させる対象者の会」、社会党系の「沖電気指名解雇撤回闘争支援共闘会議」、新左翼系の「新納、鳥越グループ」。

 当初は、会社の暴挙に対する憤りから争議を支援する空気が強かった職場も変化を見せた。会社からの切り崩しがあったからである。支援から手を引く理由の一つは、解雇撤回闘争が、セクト的な運動になっているということであった。

 カンパもグループごとに集められていた。この状況は職場からの支援を維持するには良くないと考えて、私は八王子にあっの二つのグループに共闘すべきだと働きかけた。        

 私は当時マンドリンクラブの部長だった。メンバーの中で解雇された者がいた。共産党員だった。また新左翼系の「沖電気指名解雇を撤回させる対象者の会」を支援している中心人物は、マンドリンクラブでの私の相棒だった。

 そういう人間関係から、犬猿の仲だった「沖電気指名解雇を撤回させる会」と「沖電気指名解雇を撤回させる対象者の会」の両方に話をする事が出来た。しかし、このとき私の提案は「沖電気指名解雇を撤回させる会」から拒絶された。

 これらのグループが共闘を実現したのは、私が働きかけてから1年たってからであった。

 その時はすでに、職場の中は会社派に制圧され、争議を支援する者は孤立させられ差別を受ける状況だった。