陳  述  書  

一、経歴


 1、私は一九七一年沖電気工業株式会社に入社し、一九八一年一月に同社を退社しました。


 2、職場名はLSI開発部メモリーLSI課であったと思います。


 3、私は指名解雇反対運動の支援者としてビラの配付を行いました。


 4、一九八〇年の組合役員選挙において、原告とともに立候補しました。


二、職場の状況


 1、指名解雇後の職制との関係は当初半年ほどはそれほど悪くありませんでした。  一九七八年の年末はボーナス後という事もあって、退職者が相次ぎ、送別会が頻繁に行われました。その会場や二次会などで、部長などの管理職の方から私に話しかけて来る事もあり、話が出来る状態でした。


 2、一九七九年の四月頃からはっきり変わって来ました。

三、私に対する差別


 1、一九七九年四月、それまで部下二人と共に、私が中心になって進めてきていた  ICの開発の業務から外されました。その業務はあと二か月ほどで完了する状況  であったにもかかわらず、外されました。部下二人が通信用LSI課に移され、  仕事も一緒に移して、リーダーの私だけが取り残されました。


 2、その後私に与えられた業務は世間では殆ど時代遅れとなりつつあった物でした  。これを一人でやるように言われました。この仕事を一年ほど行い、ICのパタ  ーンの設計まで行いましたが、それをICとして開発せよとの指示もなく、レポ  ートと図面を残しただけで終わりました。当時主任クラスだったので、自分で考  え、やるとすれば、こうすべきだろうという仕事を、自習の形でやったようなも  のだと思います。当然の事ながら上司より仕事の進み具合を聞かれる事もありま  せんでした。


 3、そのころの八王子工場長は、私と同じ大学出身で、その御母堂が亡くなった時、香典集めを同窓会組織で行っており、新卒早々の職場幹事に声をかけられ、香典を渡しましたが、しばらくたって戻されてきました。


 4、その当時、朝のミーティングで、一人ずつ交替に、短時間仕事の事や読んだ本  の事などを話す事になっており、席順から私の番と思われるとき、飛ばして指名  され、私の発言の日は来ませんでした。


 5、1979年の夏の頃だと思いますが、そのころ住宅購入用資金を会社に借りる  よう手続きしましたが、いつまでも認可が下りず、住宅貸付係の人も不思議がっ  ていました。組合に頼んで働きかけてもらい、ようやく借りる事が出来ました。

四、田中さんの配転、解雇について思う事。


 1、どんな時代、どんな状況であっても、指名解雇は許されない、とは思いませんが、沖電気の争議の頃、および現在でも、大企業における指名解雇は一種の社会的ルール違反であると思います。争議の頃、会社が傾くまで放置した会社上層部が責任を取ったという話は全く聞きませんでした。利害一点張りのやり方で、不都合な人はすべて排除するというやり方でした。田中さんの配転、解雇もその考えに立って行った事だと思います。

一九九二年 三月   日

住  所

生年月日

氏  名      今 井 正 晴                      印