陳 述 書

一、経歴


 1、私は一九六九年四月沖電気工業株式会社、八王子工場に入社しました。以来一九九二年一月現在まで在籍しています。

 2、入社当時の職場名は標準測定室でした。その後基板製造部、基板検査をへて一九七四年五月二十一日付で信頼性技術部に所属し、現在に至っています。

 3、一九七一年から二年間沖電気労組八王子支部の支部委員を務めました。  

 4、一九七八年の指名解雇には妻が指名解雇され、職場に残った活動家として指名解雇に反対し、争議を積極的に支援しビラの配付等を手伝いました。

二、原告との関係


 1、原告とは同期の入社であり、同じ寮にいた事もあり、良く知っています。


三、指名解雇後の職場の状況

 1、ビラの受け取りについて。   

  争議団が配るビラを受け取らないように上司から脅かされる例は多くありました。 後に私の上司になった新田正敏氏は、彼の友人がビラを配っていた事もあり、上司から受け取るなと言われても、受け取りをなかなか止めなかったのですが、ついには止めてしまいました。やめた後で私の友人に、「これが最後のビラになった」といって、受け取ったビラを見せたそうです。
  また、検査にいた山口という人は係長に言われても受け取りを止めなかったところ、課長、さらには部長からまで呼び出され、ついに止めざるを得なかったという事です。                            
  上司が部下にビラを受け取らないように説得する際、一号館の屋上に取り付けら  れたテレビカメラに、受け取っている姿が写っている事を言っていたそうです。


 2、ラジオ体操について


  私は、一九七九年に始まったラジオ体操について、当時の上司である樹所係長に体操をするよう言わました。
  組合の書記長の経験がある竹内幸一という人は上司から「体操は時間外だから労働基準法違反と言うやつもいるが、これは会社を再建しようと言う事でみんなやっている。それに協力するのかしないのか、と言う事だ。」と言われて体操するように迫られたと言う事です。

 3、一九八〇年の組合役員選挙について


  私はこの選挙で、原告達、指名解雇に反対し、差別選別の労務政策を批判する候補者の運動員として活動しました。この選挙はそれ以前のものと比べて大変異常なものとなりました。特徴として会社の人が職制以外ほぼ全員が会社側候補者の運動員として動員された事であります。私の職場の人がほぼ全員動員された事については、私は原告達の運動員として係わりましたので、その中で会社側の運動員とも顔を合わせますのでそれが分かりました。また職場の人同士が「今日は誰がいくんだ。お前はいつ行ったんだ。」といった会話をしているのをよく見かけましたが、その話の内容からも動員されている事が分かりました。
  私のように、指名解雇に反対する立場をはっきりさせ、すでに差別を受けている者には、はたらきかけはありませんが、そうではない人に取っては、会社側運動員になる事を断れば、ブラックリストに載せられて差別される恐れがある状況でした。

 4、それ以降の沖電気労働組合
  この、一九八〇年に会社派として立候補して当選した労働組合役員は、選挙の経過からも分かるように、会社と対立しても労働者を守るという姿勢は持っておらず、田中さんの配転問題にも、会社の立場から、処理をしたと思っています。

 5、品川から来た人たち。
   一九七九年頃から品川工場などから多くの人が配転されてきました。その中に、唯一最後まで指名解雇に反対をした八王子工場の体質を変える事を任務として、品川工場の体育館でその事をテーマとした壮行会を行ってから来た人もいたという事です。この人たちが、一九八〇年の選挙の時中心的に活動していたのは見ていて分かりました。

四、私に対する差別


 1、一九七九年4月から賃金で差別されました。それまでは標準か、少し低い程度でしたが、この時初めてマイナス100%にされました。
   このときマイナス査定を受けた人が他にもおり、皆争議を支援しているか、会社を批判している人でした。この人達が十人ほど組合会議室に集まって対策の話し合いをしました。あらかじめ、それぞれが上司に理由を聞き、抗議し、その情報を持って集まりました。また、組合を通じても査定の理由を聞いて貰いました。この時はまだ岩沢執行部だったのでそういう事が出来た時代でした。その後も、めじろ台の中華料理屋などに集り、職場の状況を話し合いました。その時は原告の田中さんや組合の元執行委員の山田さんも来ていました。


   会社は査定を付ける際、学校の通知表のように五段階評価をしていると説明していますが、査定を行う単位の一つの課の中で、五段階評価の1から5までを割り振れるほど、同じクラスの人の人数があるところはほとんどありませんので、かなり主観的なものだと思います。また、私は支部委員をしている時にマイナス査定をされた経験もあり、賃金の査定については、他の人のものについても注意を払っておりましたが、指名解雇以前にはマイナス100%という査定を付けられた人の存在は、欠勤でもしない限り見られませんでした。

 2、仕事差別を受けました。1980年の組合役員選挙までは仕事がありましたがそれ以降仕事が少なくなり残業も少なくなりました。
  それまでやっていたインターバルの長い仕事を後輩に回されて、データー取りといった短期間で終わってしまう仕事しかさせてもらえなくなりました。さらに仕事とは直接関係がなく、それほど重要とも急務とも思えない、英語の文献を訳す仕事をさせられるようになりました。その状態は現在も続いています。
  英語の文献の訳をさせられる形で仕事の取り上げをされた人は他にも何人かいます。

    
 3、私は、一九八三年一月に、ビラを配って会社を誹謗したという理由で信頼性技術部の親睦会から除名されました。この時、私を除名する事に同意する事を書いた署名が、部課長を除く二十三人全員から集められました。それまでは、みんなで一緒に酒を飲んで、話もできましたが、これを境にそれも出来なくなりました。署名が踏み絵として強制されたのだと思います。

 4、ACE運動の参加に関する差別。


  ACE運動の一期は半年です。第五期までは私も入っていましたが、第六期から外されて現在に至っています。理由を言われないまま連絡が来なくり、ACE運動の書類がまわって来なくなりました。全員参加のはずだと主張し、ACE運動に参加させるよう係長課長に要求しましたが断られました。課長から、自主活動だから運営をみんなにまかせている、サークルだから気の合った者同志でやっている、と言われました。
   実際にはACEサークルは係ごと、全員で組織していましたし、活動は仕事中にも行っており、内容は明らかに業務でした。それから理由もなく外すというのは差別としか思えません。

五、甲号書証について。


 1、甲13・1〜13・4、M100運動、ACE運動について
  これは会社から配付された物で私が提供した物です。 


 2、甲34規律遵守の徹底について

 これは会社が配付したものを私が入手し、提供したものです。

 3、甲35〜38、M100運動について

  これは会社が配付した物で私が提供した資料です。

六、係長より年上の係員の例について


  会社は、原告を配転しなければならなかった理由の一つとして原告の年齢が係長より上だった事を挙げているようですが、係員が係長より年長である例は当時他にもありました。原告と共に組合役員選挙に立候補した橋本さんは、やはり差別を受けていましたが、二年後輩の谷口という人が橋本さんを追い越した形で橋本さんの係長になりました。他にも信頼性技術部技術第三課の山田さんや応用技術の若林さんも上司より年長でした。また途中入社の人の場合はそのような例は珍しくなかったと思います。

七、田中さんに対する配転の見解、本当のねらいについて


  指名解雇とその後の選別、差別の労務政策に反対して組合役員選挙に立候補した 田中さんに対する報復と見せしめであり、現在も続いている差別選別の労務政策を実現する為に行ったものだと思います。田中さんは長い間マンドリンクラブの部長として活動しており、他の人に対する一定の影響力、説得力があったと思います。そういう人が会社を批判する事を会社は許せなかったのだと思います。

八、以上私がここに記した事は間違いない事を述べると共に、許されますならば、法廷で、証人として証言する事を希望します。

一九九二年一月   日

住  所

生年月日

氏  名     K                  印