2000年7月27日 第1回日の丸君が代問題を語り合う会 日本世論の会会長 三輪和雄氏
@ 国家や人の集団が強制力を持ち、何らかの強制をすることは社会秩序を保つためにやむを得ない。法律、規則を守ることが求められ「上からの命令」に従うことは当然である。ある程度の「自由への規制」があってもやむを得ない。
A 人の集団にはシンボルとなる旗や歌が必要であり、日本の国旗国歌は日の丸君が代が適切である。
B 反対している人は日の丸君が代が嫌いだから反対しているのであり、シンボルの必要性は認めている。
C 公務員たる者は規則に従わなければならない。だから学校において日の丸君が代に反対したり批判すべきでない。(ただし私的な場における個人としての批判は自由だ)
D 日の丸君が代が現状で「強制」されているとは思えない。罰せられるのは常軌を逸した行動を取った教員だけである。君が代のとき座っているだけで罰せられるのか。
E「強制」に反対するのなら校旗校歌の「強制」にも反対すべきだ。
(会社で社歌を歌うのなら国歌にも立つべきだ個人の家に日の丸立てろと言うのが強制であって、学校内は強制とは言わない)
F 国立のピースリボンの例(意思表示だけで実力行使を伴っていない)も処分を受けて当然である。権力とはそういうものである。
G 子どもたちの歌う自由は保障されなくて良いのか。
H 民主主義は(どの様な場合でも)多数決に従わなければならない。多数決の結果に不満であれば、自分が多数を獲得して決定を覆せばよい。
I 教員は教室においては権力者であり、子どもたちに対して大きな影響力を持っているのであるから、特定のイデオロギーを示す(押しつける)べきではない。
J 日の丸君が代に反対している者は、外国から日本の悪口を言われたら喜ぶような人である。
K 反天皇である人は愛国心を持ち得ない。愛国心はその国の歴史を認めるところから来ており、天皇は日本の歴史そのものである。
(谷沢英一の言った言葉に、世界の左翼は愛国者だが日本の左翼は日本自体が嫌いだというものがある。外国は時代により支配者が違っており、人により歴史のある部分が嫌いだが、日本の歴史はどこまでいっても天皇が出てくる。反天皇だと丸ごとこの国を愛せない。)
@ 国家に権力は必要だが、権力によって人権が抑圧されることがあってはならない。
A 民主主義は、多数決で決めて良いことと、決めるべきではないことがある。思想信条の自由に抵触する事は決めるべきではない。
B 日の丸君が代に反対する事と、その強制に反対することは違う。その違いを理解して欲しい。日の丸君が代の好き嫌いで反対しているのではなく、強制が民主主義に反しているから反対している。「強制」とは、従わないと罰せられるということである。
C 「強制」に反対しているものは全て共産主義者だと思われているが、そうではない。
D 子どもたちが学校の主権者である。社会に出たときに自分たちで考えて決めていくことが出来るよう、学校はその勉強の場である。意識有る教員は思想の対立がある問題を教えるとき、両方の考えを対等に示して子どもたちに考えさせるようにしている。
E 中学生の年齢になれば、日の丸君が代の問題に、意見の対立があるという事ぐらいはある程度は知っている。
全ての情報が示された中で、子どもたちが論議し、子どもたちの論議による決定が尊重されるべきだが、教育委員会、校長は議論をさせることを拒む。
F 意識有る教員は男女の差別とか、障害者を差別するとか、異質なものを排除していく事にも反対だ。人権を尊重するような社会が必要だと教えている。日の丸君が代だけに反対しているのではない。
G 教員組合の原点は戦前の教育を反省し、子どもを再び戦場へ送るなという考えから始まった。そのような信念を持ち発言する教員が校長などから圧力を受け、辞めていったり、黙ってしまう例が多い。
H 日の丸君が代は、指導要領で決められているというが、最初は無かった。変えられて行った。
I職員会議では日の丸君が代を卒業式で使わないと決めたのに、校長だけがそれに反対し、強行する例が多い。
J 国立のピースリボンのように教員が意思表示をしたという理由だけで処分を受ける例がある。
K 職員会議で日の丸君が代に反対の発言をしてもその事では処分は出ていないが、言質を教育委員会がチェックし目を付けられ、昇給を止められるなど差別がある。
L 公務員だから(給料をもらっているのだから)教員は命令に従えと言われるが、給料をもらっているからこそ、責任ある教育を行う意味で強制に反対している。
私の補足
1 私は、日の丸が嫌いだから反対しているのではなく、旗や歌を強制することは民主主義に反すると考えるから反対しています。別の旗でも歌でも強制が有れば反対します。
ただ、それらのシンボルが推進、あるいは「強制」され、それに反対したいと思う人が現れるのは、そのシンボルに何らかの「意味」がある(あるいはあると感じる)からだと思います。
私自身は、日の丸君が代の持つ現在も続く歴史的問題を踏まえた上で、国民的な議論が尽くされ、その上で、それでも国民がこれを受け入れるのであれば、それは良いと思います。その場合でも「強制」はゆるされない。しかし、未だにその議論がなされていないと思います。
2、三輪さんは私からの質問に答えられ「民主主義を認めるからには多数決を認めざるを得ない。民主主義は少数派になった人は我慢するしかしようがない。少数派になった者はその瞬間から多数派になるべく運動をやってゆけば良い。 ということであれば、民主主義は99.99%以上多数決で決めていい。」とおっしゃいました。
これは日の丸君が代問題の根底にある問題だと考えますので、討議の中でも時間を費やしました。再度以下の例を示します。
例1 町内会で地域の神社や寺院の祭礼 に対し寄付を求めたり、協力することを、多数決で決議する。
例2 国会で多数を占めた政党の支持宗教団体の宗教をその国の国教とする。国民にその宗教への帰依を強いる。
民主主義は、多数決で決めて良いことと、決めるべきではないことをわきまえることから始まると考えます。少数派の人権が侵されたり、思想信条の自由に抵触することを多数決で決めるべきではないのです。
多数党でも例2のような法律は作ってはならないのです。
誰が多数、権力をとっても少数が抑圧される事のないシステム、コンセンサスを持つ事、民度の高まりが必要だと思います。
そうでなければ、常に多数の側、権力の側に付いてうまく立ち回る者が良い目を見、社会の理不尽を指摘して改善しようとする者は常に虐げられることになりかねません。
残念ながら、日本の(日本だけではない)「民主主義」の現状は、多数を取ったものが良い目を見る状況だと思います。
議員の多くは国家、社会を良くしようとする姿勢を持たず(公約では美味しいことを言ったとしても)、地域や同業など仲間内の利益代表として立候補し、選挙民は社会全体に取って何が良いか、ではなく、自分に取ってどっちが得かという観点で投票しています。その為に、改めるべき社会問題を改善出来ない状況があると思います。