これまで何度か新聞や週刊誌、ルポルタージュなどの取材を受けた。
普通ライターは私に質問をしてメモを取り、それを元に記事を書く。
しかし、どうしてもライターには先入観などがあり、事実関係や事実のニュアンスなど違った内容になってしまう。
そこでなるべく原稿のチェックをさせて貰っている。
結果として、具体性や説得力が増し、より優れた記事になっていると思う。
今回も3往復、原稿をやりとりした。
青字の部分を削除し、赤字の部分を私が追加させてもらった。
最終的には記者が文の前後を入れ替えた。
タイトルも記者が入れた。
1999年朝日新聞の「この人を読みたい」も同様に校正させてもらった。
朝八時、東京都八王子市の沖電気八王子事業所の正門前に、ギターを手にした中年男性が現れた。
出勤の人波は目をそらしながら門の中へと流れ込む
指先に穴を開けた軍手でギターを抱えて叫ぶ
生きてくれ生きてくれ人間として
見えているものから目をそむけないで
(曲名『日差し』)
この時期、早朝は氷点下近くにまで冷え込む。ポケットには三つの使い捨てカイロをしのばせ、歌と歌の合間にかじかんだ指先を押し当てた。しかし立ち止まって聞いてくれる人はいない。それでもギターの主、田中哲朗(57)は訴え続けている。二十四年前から−。
一九八一年六月二十九日、勤務先の沖電気から解雇された。職場復帰を求め門前の抗議行動を始めたのは翌日。自称人呼んで「シンガーソングファイター」の誕生だ。
エンジニアとして八王子事業所で働いていた田中の運命を一変させたのは、七八年に同社が実施した千三百五十人の大量解雇だった。撤回を求める労働組合が会社側の切り崩しの前に急速に力を失う中、被解雇者を支援する社員は次第に孤立させられていく。田中はその渦中にいた。
翌年初め、職場で始業時間前のラジオ体操が始まる。「体操に参加することで職場が会社に協力していることを示そう」と言う上司の言葉から、それが「踏み絵」であることは明らかだった。フロアに二百人くらいいた社員の中で不参加は田中だけ。「一人ポツンと席に座っていたので、正直な話、最初はドキドキした」と明かす。だが「意志を貫き通したことで自信にもなった」。
そのころからエンジニアとしての仕事から外され、任されるのは補助的仕事ばかりになっていく。
大人げないいじめもあった。多くの職場で始まった。
私はマンドリンクラブのリーダーだった
みんなで楽しく合奏していたのに
課長から言われたとまた一人メンバーがやめていく
(曲名『いじめ』)
曲中の「私」とは田中自身のことだ。
活動を始めたころは解雇争議の当初は約二千人の従業員のほとんどがビラを受け取ってくれた。それが瞬く間にひとケタ台に激減した。
「これだけ大量の人間が、これだけ短期間に、これだけ急激に変わってしまうのかこれと同じ事が社会のレベルで起きたらどうなるのかと愕然とした。それが活動の原点にある」
八〇年六月、労組役員選挙に立候補した。「ここで立候補したら、ただでは済まさ
れないことは分かっていた。しかしもう後には引けなかったしかし逃げ出せば一生後悔すると思った」
八一年六月、畑違いの営業職への配転という「最後通告」を突きつけられ拒否。予想どおり解雇された。
主義主張は貫いたものの、すぐに新たな問題が起こる。妻と子供たちをどう養うかという家庭人としての現実的な問題だ。
妻と子供たちをどう養うかはしっかり考えた。
マンションを買ってまだ二年ほどしか立っておらず、多額のローンを抱えていた。子供は四歳、二歳とまだ小さい。
「家族の幸せも守れずに、何が労働運動社会正義だという思いがあった」。
当時手元にあった四十万円の貯金に手をつけるようになったら、マンションを売りに出し、減らすようなことになったら、マンションを手放す覚悟を決め、トラック運転手になることも考えた。
解雇五カ月後に開いたギター教室には、少しずつだが生徒が集まってきた。保育士の妻かほる(51)にも定収があった。
あるとき、かほるは幼い息子から「お父さんは何をやっているの?」と聞かれた。
沖電気の前に立つ父の姿を見せ、「会社の怪獣と戦っているのよ」と教えたという。
「若気の至りだったかもしれないが、会社をクビになってでも戦うという夫に、『もっと頑張ってほしい』という気持ちをもっていた。彼の選択が間違いだと思ったことはない」と妻は言い切る。
地方に出掛けるなど物理的に不可能な場合を除き、門前の抗議行動は二十四年間皆勤だ。週末と祝日は自由な時間に来て、祈りをささげる。「在職中に死亡した元同僚たちを追悼し、私をクビにし、今は天国にいる元社長に『あの世から会社のことをよく考えてくださいよ』とお願いするために」
「世界が平和であるように。私の解雇後死亡した歴代の社長に『あの世から職場の差別やいじめをやめさせてほしい』」と。
「解雇二十年特別座り込み」と銘打った〇一年六月には、当時自民党政務調査会長だった亀井静香衆院議員も座り込みに参加した。
労働運動に詳しいルポライターの鎌田慧は、「田中さんは大量解雇が行われた当時はまだ頭角を現してはおらず、むしろ一段落ついてから執拗に解雇の不当性を追及し続けたという『遅れてきた青年』。同僚の解雇に義憤を感じて運動を始め、現代のサラリーマン像を描き出した歌を武器に訴え続けるスタイルは、新しい労働運動の文化をつくった」と話す。
田中自身が沖電気を相手取って解雇撤回を求めた訴訟は、すでに九五年に最高裁で敗訴が確定している。このほか株主として出席している沖電気の株主総会で強制排除されたことをめぐり、会社と警察を相手に損害賠償を求めるなど数件の訴訟を起こしているがこれまでに勝訴は一件もない。「誇り高き連敗敗訴記録」(本人の弁)を更新しながら、なぜ裁判を続けるのか。
「こういう戦いがあったことを記録として後世にのこしておきたいからだ。今、裁判に勝てなくても、将来評価されるかもしれない。戦う姿勢が世の中に知られれば、いつか強大な敵を追いつめ、実質的な勝利を得ることもあり得る」
田中の解雇以降、沖電気で配転問題は一件もないという。これも「戦いの成果」とひそかに自負している。
それだけに、戦おうとする相手が逃げを決め込むのには我慢がならない。
「今の裁判所は、権力や企業に偏った姿勢をとっている。裁判で私の主張がどのように退けられたかを、記録として後世にのこしておきたい。将来その記録がきっと裁判所をよくするのに役立つ」
沖電気は〇三年、大分県湯布院町発注の公共事業に絡み、町長らに賄賂を贈ったとして社員二人が逮捕されたが、田中はこの経緯を調べる過程で、二千ページに及ぶ事件の供述調書を入手し沖電気をはじめ大手通信機器メーカー数社が談合を行っていた事実を把握。〇四年九月、警視庁に告発状を提出したが、「時効が完成している」と受理されなかった。「問題は時効が成立していたかどうかではなく、警察が談合の事実を知りながら捜査しようともしなかったことだ。マスコミもそれが分かっていない」。「警察が企業と癒着し、その裏返しとして労働運動、市民運動に敵対している。マスコミにも資料を送ったが反応がない」と憤る。
最高裁で敗訴が確定した今も、「職場に戻るという形で会社に非を認めさせるまで、体力が続く限りここに来る」という決意は揺らがない。
門前でギターを鳴らしていると、面白半分につきまとってくる小学生に手を焼くこともある。
ギターを弾き、厳しい抗議の演説や呼びかけを行うが、
しかし沖電気の社員から罵声を浴びせられたことなどは一度もない。
「私は自分をクビにした会社の理不尽なやり方会社の理不尽な人権侵害に対する怒りから抗議行動をしてきた。しかし会社のだれかを憎んでいるわけではない。それが理解されているからこそ、私も憎まれていないと思う。それが理解されているのだと思う。
怒りに基づく戦いは理不尽への怒りは人々の苦しみを変えようとする。憎しみに基づく行動は相手を不幸にし、一時的には力を持つがやがて自分をも破滅させる。怒りと憎しみは別のものだ」
◆
1948年福岡県生まれ。69年沖電気入社。大量解雇の撤回を求める中で、被解雇者の支援をする中で会社から賃金差別や嫌がらせを受け、81年営業職への配転を拒否したため解雇された。2005年12月多田謡子反権力人権賞受賞。
現在、ギター教室を開くほか各地でライブ活動を行う。ホームページのアドレスはhttp://www.okidentt.com
(了)
以下は私は追加しようとしたが「煩雑で一般の人が理解する限界を超えている」として却下された部分。
このことを警察と企業の癒着の例として裁判の中で指摘すると、東京高裁の判決は刑事訴訟法に関して「告発人に自己の利益のため犯人の処罰を求める個人的権利を付与したものではない」とした。「告発人の利益があろうが無かろうが、犯罪が発覚すれば警察は捜査しなければならないはずだ。
裁判所の姿勢が社会通念から逸脱している。今、弾劾裁判所への訴追を考えている。