2008年 停職出勤日記.

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10月4日(土)

 あきる野学園は2期制、30日が終業式で全生徒が一堂に会するということで、10月から異動のある教職員の紹介があり、私も参加し、自己紹介をした。4月の時にも感じたことだけれど、1時間の終業式に誰もが楽しそうな表情で参加していて、ここで働けることをうれしく思った。

 1日から出勤し、所属となった相談支援室の仕事に3日間当たった。ここに来るまで、こういう仕事があることさえ知らなかった。都教委は私に、次々に新しい体験と出会いの場を提供してくれたと解釈しておこうか…。他に、週1回は家庭科の授業を担当することになっている。同僚たち誰もが好意的で、働けることの喜びを感じている。

 南大沢学園の元同僚たちから、励ましのメールをいただいた。都教委及び都教委べったりの管理職には、現場の教員たちは皆、批判を持っている。


9月29日(月)

 北海道で風邪を引いてしまい、鶴川二中に朝だけ「出勤」した。Nさんは今日も「社会科の授業」を用意されていた。合唱の朝練習が始まり生徒の登校は早めで、半分くらいの生徒はすでに登校した後のようだったが、私が授業で接した3年生の何人かに最後の挨拶ができたので、よかった。

 帰路、Mさんから「鶴川の私たち、根津さんのこと、自分のことだと思っている。応援しているから。時間ができたら、また来てね」と暖かい電話をいただいた。29日は田中哲朗さんが解雇された日、田中さんの門前闘争に、少しだけ立ち寄った。


9月25日(木)〜27(土)

 北海道教組日高支部の教研集会に招かれて、日高へ。「日の丸・君が代」の強制に反対し、不起立を含む闘いを方針としている原則的な日教組傘下の組合である。土、日に行われる教研集会だというのにほとんどの組合員が参加されることにびっくり。


9月24日(水)

 南大沢最後の「出勤」。私の到着よりも早くに越前谷さんだけでなく、国鉄闘争に勝利する共闘会議四国常駐の中野勇人さんがいらしていた。午後からの裁判に上京された中、時間をやりくりして今回も駆けつけてくださった。永井さん、杉本さん、高木さん、清水さんまでは常連さんだけれど、他に、Nさん、遠藤さん、古庄さん、佐藤さん総計10人が来てくれた。最後だからと。

 元同僚たちも、お別れや激励のことばをかけてくれた。中3の生徒たちには、校門前で何日もかけて作ったマスコットを、教員を通して渡してもらい、心の中でお別れをした。

 今日も初めての保護者と知り合った。入学した学校に卒業まで居させたい、という保護者の当たり前の願いが踏みにじられ、来年度多摩特別支援学校に移転・吸収される。保護者の都教委に対する不信や怒りは消えるものではない。大勢の保護者の気持ちだとおっしゃる。その体験から、都教委が私にした停職処分の不当さも理解される。「がんばってくださいね。できることは何でもしますから」と申し出てくださった。


9月22日(月)

 立川二中へ。今日が最後なので、プラカードには次のように書いた。「10月から仕事に戻ります。自分の頭で考え判断し、主張していきましょうね。お元気で。 ねづきみこ」

激しく降る雨の中をNさんは「社会科の授業」を持っていらした。登校が済み、Nさんが帰られて読書に入ると10分もしないうちに体の熱が奪われていくという感じ。予想最高気温は24℃ということなので、この秋初めて長袖を着て、その上に上下のゴアテックスを着たというのに、寒さで体が硬直してきた。長時間我慢することはできそうにない。Sさんに服を届けてもらった。セーターと真冬の防寒着を着、熱いお茶をもらってほっとした。夕方まで、この衣装。動いている人には奇異に映っただろうな。

 いつも通る人たち、卒業生と挨拶を交わした他には、日中通られた人はわずかだったが、一人の方は、私のことをご存じで「がんばってください」とお辞儀をされて行かれた。もうお一人は、二中の耐震工事の作業にいらしている方。「プラカードを見ても何のことだかわからないので」と聞いて来られ、昼休み時間のかなりの時間、ともに教育を語り、石原都政批判をした。心の暖かそうな方だった。

 卒業生のAさんは下校時、「雨だから無理しないでください」と気遣ってくれる。今日が最後だからと、お別れをした。

 午後、Oさんがお子さんを連れていらした。ただいま育休中とのこと、彼は元来柔らかなタイプだけれど、それがさらに増していた。

 下校時をやや遅れて10人ほどの一団が通りながら、「先生、がんばってくださーい」「応援していまーす」と何人もが元気に言ってくれた。いつもの生徒たちだった。


9月19日(金)

 18時30分から「河原井・根津裁判の勝利をめざす9・19集会――都教委
の悪知恵?「分限」指針はおかしいぞ!」。90人ほどが参加してくださった。


.9月18日(木)

 都庁前でチラシ配り。今朝は自治労、全教の人たちも情宣をされていたので、
挨拶を交わしてから配り始めた。カットが入って読んでみたくなるチラシなのだ
けれど、今日は撒き手が12人と少なかったので、全部ははけなかった。

 チラシまきが終わってから、八王子市の体育館に急いだ。多摩地区の特別支援
学校中学部の陸上記録会を見学するためだ。南大沢の生徒たちのがんばりを応援
し、見せてもらい、心温まるうれしいひとときを過ごした。見学していらっしゃ
る保護者の多くは、挨拶だけでなく、私が来たことにお礼の気持ちを伝えてくだ
さった。「どうしてこういう先生を半年で追い出すんでしょうか」と言われる方
も。

 帰りに体育館を出たところで、あきる野の生徒が私に気づき、挨拶をしてくれ
た。「私のことを覚えてくれたの?」と聞くと、笑顔で頷いてくれた。


9月17日(水)
 南大沢学園に。いつもの永井さん、杉本さんだけでなく、先週の続きをするた
めに、今日もTさん、Sさんもいらした。女4人、針仕事に励んだ。指先に神経
を集中させるために、誰もが無口になる。時間の過ぎるのが早い。Tさんは、
「これを完成させたら帰る」と食事もそこそこに、作業に取り掛かったが、去ら
なければならない時間が来てしまい、後ろ髪をひかれるようにして帰っていった。

下校する高等部の生徒たちが、私たちがつくった物を見て、「あっ、○○だ!」
「こっちは、△△」「ほしいなあ」「ぼくにください」と言う。一人は、戻って
きて「ぼくにトーマスを作ってください。お願いします」と頭を下げる。「作っ
てあげたい気持ちは山々なんだけれど、ほめんね」。

 5歳くらいの女の子がママと通りがかった。ぐずっているかに見えたその女の
子は、私たちが作っている○○を欲しがっていたのだった。「あげたいのだけれ
ど、ごめんね」と詫びて、作り方をママに話した。ママは作らされたかな。

 停職中に、誰でも参加できる野外手芸教室を開けばおもしろかったかも…。


9月16日(火)
 あきる野学園に。午前中しばらくは雨。近藤さんが定時に、長谷川さん、Sさ
んもいらした。しかし私は所用で席(?)を外し、3人が「出勤」を続けてくれ
た。今日は一人の生徒が、「根津先生!」と言ってくれた。多くの保護者が気持
ちよく挨拶をしてくださる。



9月11日(木)

 16:30から04年05年に「君が代」処分を受けた、私を含む東京教組10人の裁判。


9月10日(水)

 南大沢学園特別支援学校に。杉本さんと生徒たちを出迎えていると、Tさんがいらした。生徒の登校が一段落したところで、手芸を始めた。しばらくしてSさんも加わり、子どもたちの出入りの時以外は4人でせっせと針を動かしながらおしゃべりをして過ごした。


9月9日(火)

 あきる野学園に。朝は、半袖では涼しすぎるほど、日中も木陰に入ると暑くはなかった。風が吹くと気持ちがよかった。秋を実感。

 近藤さんと登校する生徒や出勤する人たちに挨拶をしていると、福島さんがいらした。しばらくして、Hさん、Iさん、Nさんがそれぞれにいらした。「遠かった」。IさんからもNさんからも偶然にも、同じ言葉が最初に出た。やっと取れた夏休みや休日を使ってきてくださった。
校外学習で校門を出入りする子どもたちに声をかけながら、その合間に、みんなで交流をした。大勢だったので、1日があっという間に過ぎた。


9月8日(月)

 鶴川二中に、9月最初の「出勤」。日陰になるところがないので、朝から照らされっ放しだった。Nさんが生徒たちに「社会科の授業4、5」を差し出すが、ここでは警戒する生徒が多い。でも中には「ありがとうございます」と言って受け取る生徒もいる。一人の生徒が、「これ前に読みました」と言いながらタイトルを見て、「あ、まだでした」と受け取った。7月にもらった3号までと内容が違うことを一瞬にして分かったということは、よく読んでいて、内容を覚えているということなんだろう。

「もう、来ないのかと思ってたよ」と「出勤」を喜んでくれた生徒もいた。Kさんは、しばらく歩を止めて、「強制に反対なんだよね」と話して行った。

 下校時、7〜8人の生徒が私のプラカードをしばらく読んでいた。「強制は考える力を奪います。強制は人も社会もダメにします。だから私は「君が代」の強制に反対です」と書いた、ただそれだけの文字を。そしてその中の一人が、今度は私の方に向きを変えて「先生がんばってください」とお辞儀をした。他の生徒も同意している様子。聞くと、2年生だと言う。この生徒たちの、社会や生き方を考える題材に私がなれれば、うれしい。

 下校時も日差しはきつかったからだろう。「先生、ずうっといるの?」と聞く生徒もいた。「今日はね」と答えると、「がんばってください」とぴょこんと頭を下げて帰っていった。

 知り合いになったご近所の人たちとも久々に挨拶を交わした。今日は娘さんの家にしばらく滞在していて、明日佐賀に帰られるとおっしゃる年配の女性がプラカードを読まれていたので、事情を説明した。「田舎では処分はないけれど、起立をしなかったら村八分にされ、その学校にいられなくなる。それも怖いです」と、そして、「そうですね、日本の社会は戦争に向かってますね」「強制はダメですね」と何度もおっしゃった。この方は、昭和10年生まれの戦中の教育を受けた方で、「日の丸・君が代」を強制する学校は、戦中の学校のようだともおっしゃった。この年代の方がよく声をかけてくださるが、その多くの方が、やはりこのようにおっしゃる。
 一日中、針仕事をして過ごした。


9月4日(木)

 都庁前で8時からチラシまき。今日は14人の参加。今日のチラシの内容は、片面が石原都政になってからの都教育行政は、いつか来た道を進んでいるというもの。もう片面は「職員会議の挙手・採決禁止通知、都のみ」のタイトルの新聞記事を紹介したもの。

 10時半から07年処分についての裁判、そして夜は、「君が代不起立」の続編「あきらめない」の試写会。


9月3日(水)

 南大沢学園に。杉本さん、永井さんがいらした。今朝も、出勤する人たちに明日都庁で撒くチラシを手渡した。今日も暑かったこと!でも、空は澄んで、深みのある色だった。一人で登校する中3の生徒たちが、私に気づいて遠くから名前を呼んでくれたり、全身で喜んでくれたり、幸せを与えてくれた。

「歩行」の授業に行く生徒たちが、「根津先生も一緒に行こうよー」と誘ってくれる。生徒たちにとっては、半年で突然いなくなり、どうしたことか時々学校の前にいる私を見て、話したり、誘いたくなるのは自然なこと。それを、目を光らせて監視する管理職の姿は、私には異常に映る。

 女性が車から降りて、立てかけたプラカードを指差しながら、「教育委員会は異常ですね。私、先生のこと支持し、応援していますから」とおっしゃった。初めてお会いした方で、尋ねたら、保護者だった。また、しばしば挨拶を交わす一人の保護者は、来年多摩特別支援学校に吸収されることに関して、都教委への不信を話された。都教委が見通しを持たずに行ってきた開校・移転・吸収に保護者が怒るのは当然と思う。この保護者も、「先生、応援しています。がんばって!」と気持ちを伝えてくださった。

 暑かったので、昼食は公園の喫茶室でりんごジュースを注文し、お弁当を広げた。

 帰りがけ、(2000年3月まで在職した石川中学区にある)石川市民センターに会議室の予約に立ち寄った。若い人たちがボールを蹴っていたが、私の知っている石川中卒業生ではないだろう、まだ成人には達していないようだし、などと思いながら通り過ぎ、手続きを済ませて、来た道を歩き始めたらと、先ほどの青年たちが私の顔を見ている。なんと、石川中で最後に担任した生徒やクラスは違っても同じ学年の生徒たちだった。「Nです」「Mです」「Oです」「Tです」。今年22歳。9年ぶりの再会だった。担任した元生徒はともかくも、1年だけの付き合いの3人も、皆、よく覚えていてくれた。

「私、今停職中なの」と言うと、事情を知らないのに、「先生がんばっている!」と一人が言った。「処分というのは、悪いことをした時にされることよ。がんばっているって変じゃない?」と聞き返し、「君が代」処分のことを話すと、具体的にはほぼ初めて聞く話のようだった。でも話を聞いて、処分の不当性はよく理解してくれた。懐かしい話で沸き立った。


9月2日(火)

あきる野学園に。近藤さんの同行「出勤」も始まった(ありがとう!)。朝からかなり暑い。出勤する「同僚」たちが、「暑くなりそうですから気をつけてくださいね」「無理をされないように」と声をかけてくれた。今朝は、4日に都庁で撒く予定のチラシを一足先にここで手渡した。

今日は非常時の引渡し訓練ということで、保護者がかなりいらした。挨拶をするとほとんどの方が返してくださるし、ご自分から挨拶をしてくださる方もかなりいらした。「応援しています」と声をかけてくださった方も何人か。

スクールバスの運転手さんと話すことが時々あるのだけれど、今日は今まで話したことのない方と話した。「ずっと気になっていて。こんなこと聞いていいんだか」と躊躇されながら、「国旗・国歌が嫌いなのかね」と聞かれた。「いいえ、遠慮されないでいくらでも聞いてください」と言ってから、全員に強制することによってものが言えなくなり、異端を許さない社会になることが怖いこと、その強制を教育の場で教員としてすることはできないことを話したら、かなりすんなり理解をしてもらえた。

午後は暑さで頭が回らず、同じところを何度も読み返すような効率の悪い読書をしてしまった。「同僚」に誘ってもらい、休憩時間は外でお茶をともにした。


9月1日(月)

 昨夜降り続いた雨が上がり、立川二中へ。立川は2期制なので、7月の続きがそのまま始まる。着くと、すでにNさんがいらしていた。Nさんは、「『君が代』ってなんだろう」と題して書かれた「社会科の授業5」を用意され、生徒に手渡された。私だけでなく、Nさんについても顔見知りになったようで、生徒の何人もが黙ってではなく、「ありがとうございます」と言ってもらっていった。

 今朝も二中卒業生が数人通りかかり、40日ぶりの挨拶を交わした。うれしいひとときである。出勤途上に伏見さんが立ち寄ってくれた。

 登校が終わり、一人佇んでいると、いつものおじさんが自転車から「がんばるねー」と声を、市議のHさんも、いつものようにクラクションを軽く鳴らして挨拶をくださった。

 今日はニュースの発送作業のため10時半には出ようと思っていたところに、中学生がやってきたので、成り行きで話を聞き、対応した。帰り際に、市議のOさんも訪ねてくださった。

 先週まで連日降り続けた雨があがり、まずはよかった。


7月22日(火)

 今春の「君が代」不起立処分者に対する再発防止研修。対象者は14人。支援・抗議に参加した。

「分限事由に該当する可能性がある教職員に関する対応指針」(通知)を都教委が出した(7月15日)。来春は、これで私を分限免職に追い込むつもりか? 

「職務命令に違反する、職務命令を拒否する、独善的に業務を遂行するなどにより、公務の円滑な運営に支障を生じさせる」「過去に非違行為を行い、懲戒処分を受けたにもかかわらず、再び非違行為を行い、都及び教職員に対する信用を著しく失墜させている」など21項目を例に上げ、これらの行為は「分限事由(処分)に該当する可能性」があるとし、「降格し、または休職、免職することができ」るとしている。


7月17日(木)

 都庁前でチラシまき。今回のチラシから、壱花花さんの漫画入り。再発防止研修中止を求めることと、多摩中事件と裁判についてのチラシだ。18人で配った。


7月16日(水)

 南大沢学園も1学期は今日が最後、朝の挨拶だけに「出勤」した。Aさんは「何で学校来ちゃいけないの、変だよ」と今日も私に告げていく。Bさんは、しばらく立ち止まり、優しい気持ちをいっぱいに表現し私に与えてくれる。「さあ、もう、行ってらっしゃい」と後からそっと押して校舎へと歩を促した。「Cくん」と声をかけると、Cんは笑顔で応えてくれたし、Dさん、Eさんは、元気な挨拶をしてくれた。中3の生徒たちと出会って、今日も幸せな気分になる。越前谷さん、永井さん、杉本さんに加え、今日は末木さんがいらした。1、2時間目は重い門扉の向こうで、耐震車に乗って地震体験が行われた。耐震車の中から子どもたちの叫び声が聞こえてきた。門扉の隙間から子どもたちの様子を見学しているところに、何と!国労闘争団の中野勇人さんが現れた。裁判で上京されていて今日帰られるきつい日程の中を、わざわざ足を伸ばしてくださったのだ。20代初めでクビを切られ、それから22年、そして真の解決までこれからも闘わざるを得ない状況にある人だからこその気遣い。本当に勇気づけられる。

 「おはようございます」に続けて「どんぐり喫茶にきてください」と必ず登校時に言ってくれる高等部の生徒に応えたくて、みんなで1学期最後の喫茶室に行った。そしてそのまま、裁判所に。中野さんも一緒に来てくださった。

 多摩中地裁裁判の判決言い渡し。期待はしていなかったけれど、それにしてもあまりにひどい、都教委の代理人かと思うほど都教委の主張をそのまま判決にしたような、都教委への思いやり・肩入れ不当判決だった。


7月15日(火)

 あきる野学園に。今学期最後ということで近藤さんは、チラシ(手紙)を用意してこられた。登下校での挨拶や校外授業の行き帰りでの挨拶だけだけれど、この頃は私たちを覚えてくれたのか、存在を認めてくれるようにかわいい挨拶を返してくれる。かわいい手を差し伸べてくれるしぐさや表情に、今日も温かい気持ちをもらう。今日は催しがあるとのことで、保護者や地域の人たちの出入りが多く、皆さん、気持ちよく挨拶をしてくださった。プラカードを読んで頷かれる人、「こんな強制まったくおかしいですね!」と言って行かれる人が何人もいらした。

近藤さんのチラシ(手紙):進行する教育の統制     2008.7.15

八王子市立第五中学校夜間学級

                                被処分者 近藤順一

     あきる野学園の教職員の皆さま、徒・保護者の皆さま

貴校の根津教諭に対する不当な停職処分も3ヶ月半が執行されました。季節もあの桜咲く春から、早、真夏の太陽が照りつける時となりました。この間、職場から排除された状態でも何とか、皆さまとつながりたい、強制や処分ではなく自由な意見、行動が保持される学校現場を取り戻したいという願いを訴えてきました。私は、同じ被処分者として、微力を尽くしたに過ぎません。

この間、多くの教職員の皆さまの好意、そして、何より児童・生徒の皆さんが力強く生きている姿に励まされてきました。

次々に出される施策

さて、この数ヶ月の間にも、教育をめぐる事態はますます厳しいものとなりました。

06年成立の新教育基本法に基づき、新学習指導要領が提示され、7月には教育振興基本計画が閣議決定されました。両方とも、「我が国と郷土を愛する」方向が打ち出され、国家、行政が「愛国心」を規定し推進することになりました。「国際貢献」を教えるかどうか、問われることとなりました。一方では、教育行政の本来の仕事である教員増など教育条件の整備は、停滞させられました。さらに、私たち教員を直接統制する教員免許更新制が、事実上スタートします。多忙は統制の土壌となっています。

被処分者を圧迫する「再発防止研修」

都教委は7/22に、この春の卒業式・入学式で「日の丸・君が代」強制に反対して処分されたものに対して不当な「研修」なるものを強行しようとしています。違憲、違法な「10.23通達」「職務命令」を受忍せず、教育の自由を保持した被処分者に、何が何でも捏造した「服務事故発生」を認めさせ、思想・良心を放棄させようとしています。

多くの方が、この不当な「再発防止研修」に抗議の声をあげてくださるよう訴えます。


7月14日(月)

 立川で用事があったので、朝だけでもと思って立川二中に「出勤」した。部活動の格好で登校する生徒が少し、しばらくして、代休であると知った。そこで、南門の方に回り、前を通る北多摩高校の生徒たちにプラカードを掲げ挨拶をかけた。永井さんは、ご自分で作られた「社会科の授業」を手渡されたが、反応はよくない。私や私の支援者を知らない高校生にとっては、かかわってはいけない対象だったのだろう。Kさんが訪ねてくださった。


7月10日(木)

 11時半から増田さんの不当免職取り消し裁判を傍聴し、午後は増田さんの意見書を書かれた森正孝さんの講演、4時からは05年「君が代」処分の裁判。

 大分県教委の教員採用での不正問題が発覚した。県教委の一人は「上司の指示で行った」と言った。不正を十分知りながら、「上司の職務上の指示」は絶対だったのだろう。足立区の学力テストでの不正も、不正と誰もが知りながら、「校長の指示」がまかり通ってしまったし、中から声をあげる者はいなかった。これが事実だ。どちらも、例外的なことではない。「上からの指示」にもの申すことができなくなったとき、不正は常態化する。

 「君が代」裁判で、「上司の職務上の命令は正当である」と、命令の中身を吟味することなく頑なに主張する都教委は、発覚した上記2つのことを考察した上で新たに主張してほしいものだ。そうそう、新銀行東京の経営破綻も、異論を排除した経営の中で起こったこと。都の弁護人(代理人)には、このことにも言及してもらわないと。 


7月9日(水)

 大学で「希望は生徒」を課題図書にした授業に参加。


7月8日(火)

 あきる野学園に。明け方まで熟睡ができないほど降っていた雨が、今朝も「出勤」時には小降りになり、授業が始まる頃には上がった。カレンダーより一回り大きい廃棄ポスターをいただいたので、今日はそのポスターの裏をプラカードに使い、大きな字でゆったりと書いて立て掛けた。「みんな自分の心を持っている。わたしの心はわたしのもの。誰にも侵(おか)されてはならない。・・・「君が代」で起立しないで停職(ていしょく)6ヶ月は不当です。 ねづきみこ」 

 今日は近藤さんがお休み、登校・出勤する人たちに一人で挨拶を交わしていると、Hさんがこちらに向かって歩いて来られる。彼も一緒に生徒の登校を迎えてくれた。

 校外学習で出入りする子どもたちはすっかり私の存在を覚えてくれたようで、気持ちいっぱいに元気に挨拶に応えてくれる。あったかい気持ちをもらいながら、誰の命もが等価であることを保障しない、悪くなる一方の日本社会にあって、この子たちの卒業後に思いを馳せる。笑顔で暮らせる社会を作らねば、と思う。「私の『君が代』不起立は、誰の人権・誰の命も奪われてはいけない、そんな社会にしてはいけない、そういう叫びの一つなの」と伝えたいと思う。

 Uさん、Sさん、Mさんが昼食の差し入れを持って来てくれた。2時、「退勤」。


7月7日(月)

 午前中だけ立川二中へ。明け方まで激しく降っていた雨だが、校門前に立つころには小降りになっていた。それでも濡れたり冷えたりしないよう、ゴアテックスの上下を着て、万全の用意で臨んだ。私が挨拶の声をかける前に、元気に挨拶をしてくれる生徒には、とりわけ元気を与えられる。出勤途上のFさんが立ち寄ってくれた。高校に登校する二中卒業生と会うのは、ここでの大きな楽しみの一つ。今朝も、「雨がひどくなったら、無理をしないでくださいね。からだが大事ですから」とAさんは気遣いをしてくれた。

 4月に知り合ったSさんが今朝も「先生がんばってくださいね」と大きな声をかけながら、自転車を走らせて行かれた。市議のHさんはやさしくクラクションを鳴らし、笑顔いっぱいに大きく手を振って通られた。

「1日中雨」の天気予報は外れ、11時前には雨が上がった。今年は雨の降る日が金曜から日曜にかけてとか、夜の時間帯であるとか、「出勤」に影響のない時ばかり。ありがたい。

そろそろ帰り支度をしようかと思いながら、区切りのいいところまで読んでしまおうとしているところに、70代後半と思われる女性が通りかかり、プラカードを読み始められた。

「これは私のことです」と名乗ると、女性はびっくりされた様子。やや間を置いて、

「私は君が代は好きな方です。起立してもいいと思うけれど、それは自分で決めること。停職はひどい。絶対いけない!こんなことで停職とは一体どういうことですか!停職にするんだったら、教育委員会とか、上にいる人が悪いことたーくさんやっているんだから、そういう人たちを停職にすればいい。間違っても君が代で停職や免職にしちゃいけない!」「教員の方たちは、なぜ、黙っているんですか?(あなたを)見捨てるんですか?」「がんばってください」。戦争を体験したこの年代の人たちは、「君が代」に対する愛着度とは関係なく、強制や処分はすべきでないと誰もがおっしゃる。


7月4日(金)

今週1週間をまとめての記録となってしまった。
 30日(月)は鶴川二中に2時まで。Nさんが今週もご自身で作られた『社会科の授業』を持参され、生徒に手渡された。先週立川で配られた「一人の女性の《不起立》がアメリカの歴史をかえた」ともう1枚が「『内村鑑三と教育勅語』を知っていますか?」というタイトルの、歴史の事実を綴ったもの。Nさんが差し出すのに対し、瞬時に判断を迫られるのだろう。受け取る生徒もいれば、受け取らない生徒もいる。それも社会勉強としてよかろうに、Nさんが配り始めて間なしに副校長がやってきて、私たちの隣で生徒に挨拶をかけ始めた。Nさんは副校長にプリントを差し出した。「歴史の事実が書いてあるだけ、心配など無用でしょ?お忙しいでしょうに」と話したけれど、彼にとってはこれが職務になってしまうのだろう。私とおしゃべりしつつ、始業時刻のチャイムがなるまで、「監視」業務にあたっていた。

 登校時間帯が過ぎてすばらくすると、イギリス在住で、一時帰国をされているOさんが訪ねてくださった。短い滞在期間にもかかわらず、訪ねてくださったことに感激しながら、イギリスの反戦運動について話を聞かせていただいた。

 帰り道で、Naさんに出くわした。台東区から私を訪ねてくださったわけで、恐縮だったが、時間が取れなかった。

今日も通りかかった70歳位の女性2人がプラカードを見ていらっしゃるので、話しかけた。「私たちには難しいことはわからないけれど、がんばってくださいね」と言われた。

 7月1日(火)は、あきる野学園に。私が着くと間なしに、Mさんたちカサナグの会のメンバー3人がやってきて、私と一緒に登校・出勤の人たちを迎えた。しばらくして、嘱託不採用裁判原告の福嶋さん、またしばらくして嘱託解雇裁判原告の前川さんがいらした。同僚となる一人が、「応援の方が多くて、心強いですね」と声をかけてくださった。

 午後はカルフォルニアへの留学が2日後に迫っているNちゃんと会うために、「退勤」した。

2日(水)は、南大沢学園特別支援学校に朝だけ「出勤」した。いつもの3人がいらしていた。越前谷さんの今日のことばは、「世界に誇れる 憲法9条/日本の恥 10・23通達」。生徒たちの登校が終わったところで、A大学に向かった。

3日(木)は、都庁前でのチラシまき。18人の参加。チラシは片面が、先週行われた河原井さん06年処分の証人尋問で証言台に立った当時の調布養護学校校長の証言を、もう片面は今春の不起立教員(私と河原井さんを除く。私たちは停職が明けてから)に対して7月22日に予定されている「服務事故再発防止研修」への抗議を書いた。

 いま国は、サミット開催に向け「テロ特別警戒」だと称して警察官を大量に動員し、人々の危機意識を煽っているが、都庁にも各県のナンバープレートをつけたワゴン車が駐車し、警察官が何十人といた。「テロ」ということばで危機感を煽り、「警備」という名でデモや集会に不当介入し弾圧する権力の暴力の正当化こそが異常事態。

 チラシまきが終わってから教育情報課に「再発防止研修の中止を求める要請と質問書」をみんなで持っていった。K課長に朝、アポを取ったのに、それが警備担当者に連絡がいっていなかったらしく、私たちが教育情報課の部屋に入ろうとしたら、例のごとく、部屋の前に何人かが立ち塞がり、私たちを入れようとしない。「アポがとってある」という私たちの話を一切信用しないのだ。係長を呼んで説明がされて警備は解かれたが、謝罪はなかった。

回答を待って、きっちり詰めたいと思う。


6月26日(木)

 10時から07年の「不起立」裁判。準備書面(4)を提出した。書面の提出だけなので、裁判は数分で終わり。2日続けての裁判だったので、傍聴にどれだけの人が来てくださるか心配だったけれど、半分くらいの席が埋まった。法廷を出たところに何人もの傍聴者が到着。JRが遅延していたのだそうだ。


6月25日(水)

 南大沢学園特別支援学校へ。越前谷さんの今日のプラカードのことばは、「石原都教委の『日の丸・君が代』/強制は世界の嘲笑の的」。

登校、出勤の波が過ぎた頃、いつものようにAさんの登校してくる姿が見えたので、私の方から駆け寄って迎えに出た。彼はとっても喜んでくれ、喜びをいっぱいに表現してくれる。私は幸せに包まれる。

 今日中学部は鑓水中との交流会で朝から忙しいようで、歩行はないところが多く、したがって、校門前を行き交う生徒たちは少なかった。鑓水中の2年生が元気な声で『こんにちは』と挨拶し、校舎に入っていった。その後にニコニコ顔の人がやってきた。何と、多摩中時代の同僚だった。石原都教委でなければ、私もこうして交流会を引率する八王子の教員だったかもしれない。ふっと、思った。

 午後は、06年「不起立」裁判で、今回は証人尋問の1回目。河原井さんの調布養護学校校長と半澤都教委指導部主任指導主事(ともに当時)。

校長は、10・23通達後「日の丸」を正面に、「君が代」をCDからピアノ伴奏にした、職務命令も明確にしようと思ったと言い、通達以外のやり方はできるとは「思わなかった」と言った。都教委の指導部長を「上司」だとも言った。命令でやらされたことを言外に認めるとも取れる証言のように私には聞こえた。

また、1996年まで校長が勤務した七生養護学校での「君が代」を聞かれて彼は、「ほぼ全員起立していた」と証言したが、その頃は起立どころか、「君が代」それ自体が実施されていなかったのではなかったか?

 半澤氏は、10・23通達以降も各校の独自の工夫も可能だったと言い、その事例を「電動車いすとか、手を引いてとか、校長が下に降りて行ってとか」と挙げた。「工夫」ということばにこのような意味はないはずなのだが。

 傍聴席は満席。みなさん、ありがとうございました。


.6月24日(火)

あきる野学園に。近藤さんが今朝は、今春の「君が代」不起立者に対して都教委が7月22日に強行する、再発防止研修に抗議したご自身作成のチラシ(※)をあきる野学園の職員たちに手渡した。そこに嘱託不採用裁判原告の福島さんが先週に続きいらした。私を録画するためにDさんKさんも見えた。校門前は広い歩道ではあるけれど、5人が佇むと気を引くようで車の中からプラカードを読んでいるのがわかる。

Dさんたちと公園でお弁当を食べていると、Sさんがやってきた。みんなで下校を見送って、少し早くに「退勤」した。

昨日も今日も、雨が降りそうで降らなかった。梅雨だというのに、今年は停職「出勤」の日を避けて雨が降ってくれている。

(※)これはひどい、思想・良心放棄の強要

八王子市立第五中学校夜間学級

                               被処分者 近藤順一

「日の丸・君が代」被処分者に対する服務事故再発防止研修」に抗議する

所属校研修の強制

 都教委は、卒業式、入学式での不起立・不斉唱による被処分者に対して、強制「研修」を実施します。今年は7/22,場所は東京都教職員研修センターです。

 「6/23〜7/13」には各所属校で以下の3点について「所属校研修」せよと言う。しかも校長の署名・捺印付の報告書を出させるのです。

    @受講前報告書作成 Aデータ問題 B法令問題

 つまり、センター研修の事前に「反省」「思想改造」して来なさいと言うこと。その核心は「服務事故を認めさせること」です。次のような指示があります。

*「今回のあなたの服務事故と関連させて所感をそれぞれ書きなさい。」(法令問題)

*「服務事故を起こしたときの気持ちはどのようであったか、その時の気持ちを記述する。」(受講前報告書)

*「起こした服務事故に対して、現在の気持ちや考えを記述する。」(同上)

 また、「体罰」「交通事故」「わいせつ」などと同列にした「件数」を示し

* 「自己の服務態度を見直し、教育公務員としての役割と責任について、あなたの所感を書きなさい。」(データ問題)

このように内心をチェックし、しかもそれを書かせるのです。

審理中、裁判中を無視

 私は、この件について東京都人事委員会に不服審査請求を行い審理中です。自分の不起立・不斉唱を「服務事故」とは考えていません。都教委は不当処分を執行した上に思想改造、屈服強要に乗り出しています。卒業式や入学式での不起立・不斉唱・不伴奏は、教育の自由を保持し“多様な見方、行動が認められるべき”という学習権の基本を生徒に示す校務遂行です。都教委は、不起立・不斉唱を一掃しようとするばかりか、「研修」の名の下に「踏絵」を踏ませ、教育の自由、学習権の保障を追求する者を教育現場から排除しようとしています。

「2.7嘱託不採用裁判地裁中西判決」を踏襲

上記判決は、都教委が「裁量を逸脱、濫用した」として原告(被処分者)に対し「賠償」を認めたものです。しかしその判決には次のくだりがあります。

「職務命令違反は、原告――を除けば、いずれも1回だけである。原告――についても、再雇用不合格時において、2回にとどまる。原告らが指導や処分を繰り返し受けたにもかかわらず、同種行為を何度も繰り返したという事実はないし、弁論の全趣旨によれば、原告らは、本件職務命令違反に関して都教委が再発防止のために必要として設けた研修を済ませていることも認められる。」(判決文)

「1回だけの違反」「再発防止研修済み」は、「考慮」の余地があるというわけです。都教委はこれに基づいて、不起立2回以上の減給・停職被処分者に圧力をかけています。

 今回の「服務事故再発防止研修」なるものは、「戒告」と「減給」という処分においてさえ異なる処置を執っています。一貫して不起立者を敵視し、累積加重処分を課し、被処分者をも分断しようとしています。全ての被処分者が団結し、分断、分裂の攻撃を許してはならないと思います。

    人事委員会審理、裁判への取り組みを強化することはもちろん、広範な教職員、都民の皆さまに事態の重大さを提示し、不当「研修」停止の運動を進めたいと思います。

  あきる野学園の教職員の皆さま

    日々、児童・生徒の個性的発達の可能性を追求している姿に感動しています。今回の都教委が進めようとしている「服務事故再発防止研修」は、学校現場への統制と排除を決定的に深化させています。「教員免許更新制」の先行実施や新学習指導要領と共に、教育の自由を封殺するものです。

    多くの皆さまが、抗議の声をあげてくださるよう訴えます。


6月23日(月)

 4週間ぶりに立川二中へ。「水曜日に都合がつかないから」と永井さんが、登校中の時間帯に立川二中にいらした。生徒に手渡そうと、ご自分でつくられた「社会科の授業(1)」のプリントを持って。プリントは、「一人の女性の《不起立》がアメリカの歴史をかえた」と題し、バスの白人席に座って動かなかった一人の黒人女性の行動について書かれている(※)。勇気を与えられる実話だ。私は数枚もらって、ここを通る二中の卒業生に渡した。

 永井さんが帰られ一人座っていると、自転車の女性に声をかけられた。お孫さんが二中に通う、4月にことばを交わした方だった。「いつも月曜日は、今日はいるかな、と思いながら通るんですよ」「がんばってくださいね」とおっしゃってくださった。

 用事があって数時間「席」を外し、戻ってきたら、ちょうど下校の時間だった。いつも元気な声で「がんばってくださーい」と言ってくれる女の子たちに今朝は会えなかったと思っていたら、帰りに会えて、元気な声をもらった。

(※)社会科の授業(1)                              2008.6.23

一人の女性の《不起立》がアメリカの歴史をかえた。

アメリカでは1863年にリンカン大統領が奴隷解放宣言をしたあとも、長い間、黒人は、特に南部の諸州で、ひどい差別を受けていました。ホテル、レストラン、教会などの施設だけでなく学校もそして公園のベンチや水のみ場さえ「白人専用」と「黒人専用」にわかれていました。バスも前の方が白人専用座席で黒人は後ろの方の黒人専用座席にすわらなければいけません。こうした差別に少しでも抵抗すると容赦ない暴力を受け殺されることも珍しくありませんでした。多くの黒人は差別のために満足な教育を受けられず、貧しい生活を強いられていました。

1955年12月1日のことです。南部アラバマ州の州都モントゴメリーで42才の黒人で裁縫工のローザ・パークスさんが、1日の仕事を終えて帰りのバスに乗っていました。彼女は黒人が座席まで差別されていることに前からどうしても納得できないものを感じていたので、空いていた前の方の白人専用座席にすわりました。そのうちに白人の乗客が乗り込んできました。白人の乗客は空いている座席が無かったので立っていました。すると、それを見た白人のバスの運転手が彼女に立つようにいいました。彼女は立ち上がりませんでした。運転手は警官を呼び、彼女は白人の乗客に席を譲らなかったということで逮捕され投獄されました。

このことをきいた黒人教会の27歳のマーチン・ルーサー・キング牧師が黒人にバス乗車ボイコット運動を呼びかけ、やがてそれは、白人からの暴行を受けながらも白人専用の食堂での座り込み、白人高校への入学などの行動につながっていき、黒人に対する人種差別撤廃を求める「公民権運動」となってアメリカ全土に広がってゆきました。

奴隷解放から100年目の1963年の8月キング牧師たちに率いられた人種差別撤廃を求める人々が首都ワシントンへ向かって行進しはじめ、28日には25万人がワシントンを埋めつくす大行進となりました。そして、ついに翌年1964年7月人種差別撤廃を定めた「公民権法」が成立しました。キング牧師がワシントンで大群衆に向かっておこなった演説“I have a Dream“というすばら
しい演説は有名です。

  おかしいことには従えないという、一人の黒人女性の《不起立》がアメリカの歴史をかえた。               おわり


6月19日(木)

 都庁第二庁舎前でチラシ配り。15人で配った。チラシの内容は、職員会議での挙手・採決禁止の通知撤回を求めた三鷹高校校長の行動についての、同校職員の声(投書)や都教委の対応について。1000枚のチラシを都庁で働く人たちが確実に読んでいることになる。

 チラシ配りを終えて私は上柚木陸上競技場に急いだ。南大沢学園の中学部の陸上記録会を見学するために。会場に着き生徒たちの近くに向かって歩いていると、「あっつ、根津先生だ」「根津先生」と何人かが叫び、手を振って歓迎してくれた。なんとも目ざとい。

生徒たちの走りやボール投げを、どきどきしながら、そして「やった!!」とうれしさいっぱいに見せてもらい、応援した。あったかい気持ちをたっぷりもらったひととき。時間は瞬く間に過ぎてしまった。

数日前の天気予報が外れ、雨が降らずにほんとうによかった。


6月18日(水)

 南大沢学園特別支援学校に。常連となった越前谷さん、永井さん、杉本さんと出勤、登校する人たちを迎えた。

どんぐり喫茶で実習する生徒の一人は、毎週、「どんぐり喫茶に来てください」と誘ってくれる。今朝も誘ってくれた。「今日は残念だけど、行けないの。用事があって、早くに帰らなければならないので。来週また行かせてね」と告げた。高等部のBさんは、私たち一人ひとりの名前を言って挨拶をしてくれた。スクールバス登校のCさんは、私の姿を見つけ、今朝も大きな身振りで何かを告げてくれた。


6月17日(火)

 あきる野学園に、午前中だけ。

同僚となる人たちの出勤や生徒たちの登校を近藤さんと一緒に迎え終わったところに、嘱託不採用を闘っていらっしゃるFさん、「君が代不起立」の上映会がきっかけとなってこの件に関心を持たれたと言う、お若いNさんが見えた。Nさんは今日が3回目の訪問。

校外での学習に出入りする子どもたちに声をかけ、握手を求める子どもに応じるひとときは、うれしい時間。みんなもそれぞれに子どもたちに声をかけていた。


6月16日(月)

 久しぶりの鶴川二中。校門前に着くや、私を見つけて、Aさん(生徒)が挨拶をしに来てくれた。私にメールをくれたので、「私はあなたがわからないので、今度声をかけてくださいね」と返信で頼んでいたのだった。

町田教組委員長のKさんが、朝から同行「出勤」してくださった。登校する生徒たちを二人で迎えた。土曜日の道徳公開授業の代休を、これに充ててくれたのだった。昨日は、解雇をさせない会の集いに参加された。「君が代」解雇阻止のために組合として何をするかを追求するKさんの存在は大きく、心強い。

 学校前の道は、いつも人通りが少ないが、今日は特に少なかった。いつものご近所の方々とそれぞれに挨拶。散歩途中の年配のご夫婦は、「ご苦労様です」といつものように挨拶をしてくださった。今年知り合った方である。この人たちのほかには、今日初めて出会ったのは年配の女性。「がんばってください。私も高校の先生たちにささやかですが、カンパしています」とおっしゃって行かれた。

 ゆっくりと時間が流れるような空間で、Kさんとおしゃべりをして過ごした。やや遅いお昼ご飯を済ませ、一人座ったところに、Mさん母子が、しばらくしてTさん母子が訪ねてくれて、校門前は5人の幼児で楽しい空間に変化した。

ちっちゃなお友だちと遊んでいるうちに下校の時間。その「お友だち」と戯れながら、生徒たちに「さようなら」の声をかけた。朝はせわしく校舎に向かうが、下校時はプラカードの文字をじっくり読んでいく生徒あり、話をしていく生徒あり。ちっちゃなお友だちを「先生の孫かと思った」と言う生徒も。私に初めて声をかけてきた生徒が今日もいた。 大学での受講のため、9時半で「出勤」は終えた。


6月15日(日)

 「6.15の集い 解雇は止めた みんなで語ろうこれからを」を新宿農業会館で開催した。120名の参加。紙上参加あり。来春に向け、また、10・23通達撤回に向けて出された参加者からの提案をもとに動きをつくっていきたい。


6月11日(水)

 南大沢学園特別支援学校に。

越前谷さんが掲げたプラカードの今日のことばは、「服従を強いる石原都教委/不服従を貫く正義の先生」。彼はもう1枚のことばを用意していたのだが、使えず仕舞いだった。「都教委の学校支配に抵抗してこそ/信の校長と副校長」と書いてあった。校長に読ませようと7時15分から待っていたのだという。ご近所の杉本さんも私よりも早くにいらしていた。

 2週間ぶりの「出勤」に同僚だった人たちが「先週はどうしたの?」と聞いてくれた。

 今朝も「歩行」に学校から出てきた昨年度担当した生徒たちが、「根津先生!」と歓声を上げ「一緒に行こうよ」と誘ってくれたり、いろいろに気持ちを表現し、伝えてくれた。校長は4月、「生徒にかかわらないでください」と私に告げに来たけれど、さすがに生徒たちにはそれを告げてはいないのだろう。でも、元同僚たちに火の粉が飛んではいけないので、今日も手を引っ張られるままに数メートル先まで一緒に行き、「ここで待っているよ。行ってらっしゃい」と生徒たちを見送った。

 10時過ぎ、Sさんが見えたので、どんぐり喫茶に行き、皆で長い時間お茶を楽しんだ。

 下校時間、バスの中からAさんは私に何かを訴えた。Bちゃんのことかな?と思いながら、私は大きく○を描いて応えた。Cさんも気づいて、背伸びして手を振ってくれた。

 高等部の生徒たちに「さよなら」の挨拶をかけながら、読書を始めたところにSaさんがやってきた。すぐに「退勤」時刻だというのに。


6月10日(火)

 あきる野学園に。

朝から近藤さんのほかにSさんがいらした。私は先週都庁で撒いたチラシを、近藤さんは今春の不起立処分に対し人事委員会に審査請求したとの報告のチラシを手渡しながら、出勤する人や登校する生徒たちを迎えた。バスで登校する子どもたちに手を振ると、何人もがにっこり笑顔で手を振り返してくれた。

 登校が終わったころ、ご近所にお住まいのTさん、葛飾からYさんが訪ねてくれた。

 今日は校外学習で校門前を子どもたちが出入りすることがなく、門前は訪問者たちとの語らいの場になった。所用で午前中のみ。


6月5日(木)

都庁チラシまき。今日の参加は16人。元職員の会も宣伝カーを出しチラシを撒くと言うので、私たちは場所を移して、第一庁舎に行った。いろんなところに、石原都政・石原都教委に怒りを持った人がいる。都教委に対するそれぞれの怒りを大きな力に転化させたいものだ。つくづく思う。

片面は「君が代」不起立で内定していた担任を外されたという高校教員の記事を紹介し、「君が代」起立にしか頭が行かない校長たちについて書いた。その中で、私の昨年度の業績評価「D」と、中でも「学習指導」を「D」とした3つの理由の中に、生徒とのかかわりが一言も出て来ない異常さについても触れた。それが、「学習指導」なのかと。もう片面は、15日の集いへのお誘い。 

 何人かの都職員の方が、ご自分から近寄ってきて声をかけてくださった。


5月30日(金)から5日間、大分県に。

5月27日(火)

 あきる野学園に。

今日も昨日に続き、晴天。近藤さんももちろん「出勤」。

 出勤する同僚たちが「暑いですから気をつけてくださいね」「暑くて、大丈夫ですか」「お疲れ様です」など、気遣ってくれる。昼下がりには、「冷たいお茶はどうか」と言ってくれる人もいた。皆さん、とっても温かい。

 今日も保護者の多くが車の窓越しに挨拶をしてくださった。

 校外での授業で次々に、子どもたちと教員が行き交う。挨拶を交わし、子どもたちと教員との触れ合いを眺めさせてもらう。とってもいい感じで、私まで幸せな気分になる。

 そんなことをしているところに、Iさんという10年前教員をされていたこの地元の方が訪ねてくださった。沖電気不解雇者の田中さんがギターを抱えて、またしばらくしてMさんが昼食を持って訪ねてくれた。

 バスの仕事をされている方と今日も話をした。年配の彼は、「私だって、政治はおかしいといつも思っている。許せないことばかりだ。でも、先生のように行動できない。みんな、長いものに巻かれちゃうけど、先生は違う。なかなかできることじゃない。偉いよ」と、しきりに感心してくださる。


5月26日(月)

 鶴川二中へ。

片側通行の道が渋滞し、学校前到着は8時を過ぎてしまった。もうかなりの生徒が登校していた。元気な一団もすでに登校した後のよう。今朝も初めて声に出して「がんばってください」と言ってくれた生徒や、やはり初めて「おはようございます」と言ってくれた生徒がいた。子どもの頭は柔らかいなあと思う。

 訪ねてくれた虹のたねのMさん、Nちゃんと遊び、その後訪ねてくれたMiさんとおしゃべりをしていたら、午前中はすぐに過ぎてしまった。午後は、別件で立川へ。


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5月24日(土)

 あきる野学園スポーツフェスティバルが行われたので、見学させてもらった。昨夜の予報では「1日雨」だったが、朝起きると太陽がうっすら顔を出していた。新聞の予報を見ると、「午後から雨」。ところが午後も降らずに、陽はささず、最高の「あきスポ」日和だった。

 みんな和気あいあいとした雰囲気の中、それぞれにがんばっている姿を見せていただいた。

ハンドサッカーというスポーツをはじめて知った。障碍の状態に配慮し、誰もが参加できるように上手くルールが決められていて、感心することしきり。それから、その試合で生徒たちが、みんなにボールが行くようお互いに気遣いながらプレイしていたことが印象的だった。温かい気持ちにさせてもらった。

10月を想像しながらの、自主研修でもあった。

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5月22日(木)

 都庁第一庁舎前で情宣、チラシ配り。私と河原井さんのほかに14人が参加してくださった。

チラシの内容は、前回第二庁舎前で配ったものと同じ。片面が2、3月の都教委の対応について私たちが質問したことに対する都教委の当事者責任をまったく感じない「回答」についてであり、もう片面が職員会議での採決を禁じた通知(2006.4)の撤回を求めて立ち上がった現職の三鷹高校校長を報じた毎日新聞の紹介である。

昨日の朝日新聞夕刊も三鷹高校の校長の撤回要求をA4サイズで取り上げた。都教委が学校・教育を壊していることを広く情宣し、石原銀行の問題と絡めて、退陣に追い込みたい。都民のかなりがそう思っているはずだ。朝日新聞には校長のことばが次のように紹介されていた。「都教委は校長主導と言いながら、校長を自らのロボットにしている。民主主義を教える教育の世界で言論の自由がないのは許されない」。

チラシ配りの後、本人開示請求をするために都教委30階に行った。ところがどうだろう。30階は今日も、通路に職員が立ちはだかり、通常の受付の場所まで行けないようにしている。「教育委員会が開催されるから」というのを理由にしていたらしいが、私が訪ねる目的は「傍聴ではない」と言っても部屋の中には入れてくれない。目的を私に言わせてようやく文書係りの職員に話を通した。

都教委職員はあまりに頻繁にこうした対応をしてきたので、失礼な対応であることの意識が薄らいでしまってはいないか。


5月21日(水)

 南大沢学園等別支援学校へ。やや風は強いが、湿度の低いさわやかな青空、気持ちのよい1日だった。

今日は、越前谷さんにSさん、そして調布のNさんが初参加され、計4人で生徒たちを迎えた。今日の越前谷さんのプラカードのことばは、「先生を管理しない/これが教育の本質/学校の在り方」だった。教員だけでなく生徒も何人か、いつもプラカードを読んでいく。生徒も教員も多くが気持ちよく挨拶を交わしてくれる。「今日はお買い物に行くの」と教えてくれたり、「どんぐり(喫茶室)に来てください」と言う生徒、「中に入れないって、変だよね!」と気持ちを共有してくれる生徒もいる。

 校外授業で昨年担当した生徒たちが門から出てきた。「根津先生!」とCさんは叫ぶ。握手するDさん、からだをくっつけるEさん、Fさんは私の帽子をほしがる、などなど。2ヶ月前に重なるこの時間は瞬時と言えども、大切な時間。「行ってらっしゃーい」とみんなを送った。

 用事で来校され、門の外にいる私を怪訝そうに見て挨拶をされる保護者に、また停職にされたことと、おまけに異動もさせられたことを話すと、「それはひどいですね」。やっぱり、そう思われる人のほうがずっと多い。

私たちの方に顔を向けている副校長の姿が、職員室の窓越しに頻繁に見られたのはどうしたことか?


5月20日(火)

 激しい雨の降る中、あきる野学園に。何人もの教職員が私を気遣い、心配して声をかけてくれた。

車でお子さんを送ってこられる保護者の多くが挨拶をしてくださる。PTA広報に校長が私の紹介を寄稿してくれたからかな? それを読んでいらっしゃらなかったという保護者が、プラカードを見てどういうことかと、聞いてこられた。説明をすると、「それはひどい!応援しますよ、がんばってください」と言ってくださった。

 この雨の中を近藤さんは、いつもの時間に「同行出勤」して来た。近藤さん作成のプラカードを持参して。近藤さんが家を出たころは、雨だけでなく風も相当激しかっただろうに、何と律儀な人なのだろう!

 昨日立川二中の前に来られたNさんが今日はここに来られた。 


5月19日(月)

3週間ぶりの立川二中。

 登校時、今日も近寄ってくる生徒や、立ち止まってじっとプラカードを読む生徒が何人もいた。

一人の男子は「君が代?」と私に答えを求めた。「そうよ、君が代で立たなくて、停職6ヶ月、6ヶ月間学校に来るな、給料もやらない、って教育委員会から言われたの」と答えると、「えーっ!」。「ひどいでしょ?」に、「ひどい、ひどい!」。

 別の男子は、近寄って、じっと読んでいた。顔を見ると、なんだか見覚えのある顔だった。「お兄ちゃん、いる?」と聞くと、案の定。

 「ネットで見ました。がんばってください」と言う女子。数人で登校してきた女子が、「がんばってくださ−い」と言ってくれた。聞き覚えのある声だった。そうだ、前回も元気な声でそう言ってくれたっけ。

 他にも何人か立ち止まって読んでいく生徒もいて、地域の挨拶隊の女性は、それに感心されていた。

 今日は、明日台風が来るというほとんどどんよりした空模様であったが、下校時間帯だけは太陽が照りつけ、暑かった。一人の男子が、「暑いですよ。大丈夫ですか?お茶、飲みますか?」と、かばんから水筒を出しながら声をかけてくれた。「ありがとう、気遣ってくれて。私も水筒を持ってきているから、あなたの優しい気持ちだけいただくわ。お気持ち、うれしいわ。ありがとう」と答えた。「暑いから気をつけてください」と言い、ぴょこんと頭を下げて、彼は帰っていった。

 昼過ぎ、北多摩高校に進んだ二中の卒業生Aさん・Bさんが、定期試験中だからと、立ち寄ってくれた。明日の試験勉強があるだろうに、優しい心遣いがとってもうれしい。

 近くにお住まいのという方で、今日初めて出会った方が3人。お一人は日本在住のアメリカ人。かわいいお子さんを連れていらした。「今どき『君が代』を強制するとは時代錯誤もはなはだしい」とおっしゃる。

 72歳とおっしゃる男性は、お兄さんを特攻で亡くされ、戦争は絶対反対。でも、戦後、日本がおかしくなったのは、教育基本法のせい。人権、自由を言い、放任の教育をしてきたから子どもが悪くなった。だから、愛国心も必要なのか。気持ちが揺れるのだとおっしゃる。

「子どもが悪くなった、とマスコミは言うけれど、子どもの犯罪は、昔の方が多かったですよ」と言い、私の教育観を少しだけ聞いていただいた。私がプラカードに書いた「命令で人は育たない」を指して、「その通り!」と語気を強められた。

それで思い出したように、おっしゃった。ある学校を訪ねた時、校長室に「しゃべるな。それが命取り」と書いた紙が張ってあったのだという。「校長先生にその意味を聞くと、保護者にも会議でも意見を言うな。言ったら身が危ないと職員に言っているのだと言われた。今学校は、意見を言ってはいけないのかね?」と。

私は、「その校長がどういう意味で言われたかはわからないけれど、今の学校が意見を言ってはいけない。黙って、指示に従えっていうところに成り下がっているのは本当です」と答えた。彼は「意見を言わないところはダメだ。根津さんが言うように、命令で人は育たないよ」「応援しているよ」とおっしゃって帰っていかれた。

また、やはり70代はじめと思しき男性が話していかれた。プラカードをじっと見ていられるので、「これは私のことです」と告げると、「君が代で停職?今どき、あってはならんことだ」とおっしゃる。戦争の悲惨さがわかったら、「日の丸・君が代」など、持ち込むことにはならない。石原都知事は、戦争の悲惨さを知っている世代のはずが、ひどいものだ、としばらく話していかれた。「署名があればしたい」とも。

車から、あるいは自転車から挨拶をしてくださった方が、ここで知り合いになった方を含め、今日は4人。

Nさんとおっしゃる方が、訪ねてくださった。多摩市であった映画会に参加されて、そこで私のことを知られたとのこと。それからインターネットで見ていらして、南大沢学園養護学校の卒業式の朝、学校前の行動に参加してくださったのだとおっしゃった。私がキャッチできていない、いろんなところに、力を貸してくださっている方がいらっしゃる。

 


5月14日(水)

南大沢学園特別支援学校へ。寒く、かなり激しい雨。

越前谷さんの今日のプラカードのことばは、「『知事』でなく『私事』で都教委を支配する石原慎太郎こそ即刻『クビ』だ!」。大雨だと言うのに、Sさんも早朝からいらして、みんなで生徒や職員を迎えた。雨の音で声が聞こえにくい。あとは、笑顔で気持ちを伝え合った。

雨で生徒たちもほとんど出てこない中3人、車で来校する方に門扉の開閉をしてあげたり、おしゃべりをして過ごした。Nさんが台東区から、Sさんが海老名市(神奈川)からいらして、高等部の生徒が実習する喫茶室に行った。

ここで越前谷さんは、今春卒業し、パンを売りに来た高等部のBさんに再会した。渡部さんは越前谷さんを見るなり、走りよって、大喜び。越前谷さんの喜ぶ顔がとっても素敵だった。

 下校のバスを見送る時に、バスの中のCさんが私に気づき、赤系の表紙の冊子を見せようと窓越しに盛んに訴えてくれた。私は大きく頷き、両手で○のポーズをし、返事を返した。修学旅行のしおりなのかな?

 昼頃か、校長が二人の人に同行して校門を通過したので、「この間の質問に返事をください」と言ったが、校長は聞こえないかのように中に入っていった。質問とは、ここに立つな、と校長が主張する法的根拠は何か、である。これで3週続けて、「立つな」と言いに来なくはなったけれど、言った責任は取ってもらわなければ。公人としての発言なのだから。 次は、3月に校長が私に出した業績評価である。

業績開示についての面接記録  3月19日(木) 14:10〜 鈴木副校長同席 

校長に業績評価の開示を求めようと話を切り出したら、「そのことでこちらから話がある」と呼び出された。本人から開示請求がなくとも校長が開示をしなければならない対象はD評価の時と定められている。もしや、と思ったら、案の定であった。

「本人開示通知書」を渡され、以下の1〜4を読み上げられた。文書を見て読み上げているので、コピーを要求したが渡してもらえず、一言一句間違えのないように記録した。

 「本人開示通知書」には、「学習指導」が「D」、「生活指導・進路指導」が「C」、「学校運営」が「D」、「特別活動・その他」が「C」で「総合評価」は「D」と記されていた。末尾に校長と副校長の押印があった。

1. 業績評価がDの教職員は 開示と同時に面接をします。

根津先生は業績評価が総合でDです。Dの理由を言います。

評価項目「学習指導」にかかわる内容として、一つ目が週案の提出について繰り返し指導したにもかかわらず、提出しなかったことです。

二つ目が、学習活動中に、不適切なトレーナー・Tシャツを着用しました。再三の注意、及び指導をしたにもかかわらず従わなかったことです。さらに(3点目)、学習指導中に、不適切なトレーナーTシャツを着用しないように職務命令を受けたにもかかわらず、着用を続けたことです。

評価項目「学校運営」についてです。一番目、職員朝会で不規則発言をする、不適切なビラを配布するなど学校運営に支障を来たす行為をしたことです。

二番目、学校経営計画に沿った個人の具体的な目標を設定する自己申告書の提出を拒むとともに、具体的目標設定もしなかったことです。

三番目、目標達成状況を確認あるいは指導する機会である自己申告書に伴う校長面接に応じなかったことです。

2. 昇給が3号級(通常は4号級)になります。

3. 苦情相談制度についてです。

 苦情相談については、評価結果と開示面接の校長の対応について苦情相談ができます。申し出期間は、4/14〜4/25です。相談したことの結果通知は7月の下旬です。苦情相談制度では、プライバシーに配慮します。苦情を出したことで不利益にはなりません。

申し出期間前に退職したら対象になりません。

聞き終わったところで、質問をした。

根津:普段の学習指導を見たことがありますか?

校長:本日はDの理由について説明をしました。

根津:週案や服装など、学習指導に属するものではないでしょう。学習指導の実際について、いつだったら説明して貰えますか?私の学習指導を見ているんですか?(そう私が言うと、「それを書いておいてください」と副校長に促す)。

根津:校長が見ているのに私が見ていないと認識したらまずいので聞いているのです。

 学習指導とは本来私がどう子どもにかかわっているか、なのではないですか。立川の校長も町田の校長も、学習指導について、例えば、「Aに限りなく近いB、若い人を指導してほしい」などと評価しました。同じ教員が、そんなに変わるはずはないでしょう。週案・トレーナーしか尾崎校長は言わない。なぜ学習指導について説明しないのですか?

校長はまったく答えなかった。

「学校運営」が「D」の理由に挙げた「職員朝会で不規則発言をする」も「不適切なビラを配布する」も言いがかりもいいところ。前者は、朝会の司会者に事前に発言を申し出、了解されていたところ、管理職が司会者にやめさせたものであり、後者は勤務時間外にしたことで、言われる筋合いのないものであった。


5月13日(火)

あきる野学園に。登校・出勤の人たちに挨拶を交わし、私は都庁で撒いたチラシを、近藤さんは、ご自分の挨拶の手紙を職員に手渡した。今日も皆さん、気持ちよく挨拶をしてくれる。

 プラカードの前でじっと立ち止まっている生徒に「これは私のことです」と声をかけると、その生徒は、「不当って、どういうことですか」と聞く。私は「君が代」不起立で処分されていること、それは不当だと思うことを話したうえで、プラカードの書いた2つのことを尋ねた。プラカードには、「『君が代』の意味を知っていますか?なぜうたうのか、考えて歌っていますか?」と書いていた。彼は、「意味だけでなく、歌詞もよく知らない。歌詞も意味も習わなかった」「なぜ歌うのかも考えたことなかった」と言い、「みんなに話してみよう」と言っていた。

「よかったら名前を教えて」と言うと、「高○年A」さんと教えてくれた。

 今日は都合で10時に引き上げた。

 近藤さんの手紙は、次のとおり。

「日の丸・君が代」、東京の教育、

   そして生徒のこと 〜考えてみませんか〜

八王子市立第五中学校夜間学級

被処分者 近藤順一

あきる野学園の教職員の皆さま

4月の半ばから、こちらにお伺いしております。私は、この3月卒業式において「日の丸・君が代」不起立、不斉唱により2回目の処分(減給10分の1)を受けました。東京都教育委員会の2003年「10.23通達」以来、都立高校ばかりでなく市区町村の小中学校でも「日の丸・君が代」が強制され、延べ400人以上の処分が強行されました。

私は、自分の不起立・不斉唱を、一人の教員としての職務遂行であると考えています。なぜなら、教育は異なる考え、異なる表現が認められることを前提とするからです。ましてや夜間中学には多くの外国籍生徒も学んでいます。その多くはアジアの諸地域から来た者です。都教委、市教委の「日の丸・君が代」強制は多文化共生に逆行し、一律の形式からはずれる者を処分、排除しています。そして、今進められている学習指導要領の改定、教育振興基本計画の作成、教員免許更新制などによって、一層統制が進行することを危惧しています。

私は、自らの思想・良心の自由を保持し、教育の本来のあり方を取り戻すため、昨年の処分に対しても東京都人事委員会に不服審査請求を行い、今回も同様の措置を執るつもりです。都教委は、被処分者を「服務事故発生者」として「再発防止研修」を課すでしょう。これは事実上の「転向強要」です。

あきる野学園の管理職の皆さま

日ごろの皆さまの教育実践に感服しています。貴校の根津教諭は現在停職6ヶ月の処分を受け、復帰は10月になるでしょうが、それまでにも公式、非公式に話し合いの機会をもっていただけたらと思います。

都教委は、私たちを「校長の職務命令違反」で処分しました。このように学校に分断を持ち込むやり方に強く抗議します。それぞれ考えは異なっても粘り強く話し合い、不一致点は留保していく必要があります。

私は、根津氏を支援するというよりも、一人の教員として、また、被処分者として、共に考え行動していくつもりです。共に考えていきましょう。


5月12日(月)

まずは先週末の補足から。9日に多摩中時代の教え子のTさんから突然のメールをもらった。「覚えていますか?」に始まり、「先生は世間などよりも自分の意思を一番に持ち人としてすごい憧れ、尊敬します」と書いてくれていた。

数えると今年20歳になる。多摩中で、私が攻撃され弾圧されるのを見聞きしてきた生徒の一人が、6年のちにこうして気持ちを伝えてくれる。筆舌に尽くしがたいほどきつかった多摩中での攻撃と弾圧に、屈せずにいてよかった!と、回想にふけり、喜びに浸った。成長した生徒に認めてもらえることほど、力を与えてくれるものはない。私には最高のプレゼント。教員だから体験できる幸せをかみしめた。

さて、今日は久しぶりの鶴川二中。今日もうれしいことがあった。登校する生徒たちの波が消えた時、門の影から、「根津先生、おめでとうございます」とぴょこんと男子生徒が飛び出てきた。続いて4〜5人の生徒が出てきて、口々に「おめでとうございます」と言う。私が授業を担当した3年生たちだった。その一人は、少し前に私と挨拶を交わし、校舎に向かった生徒であった。

「まあ、ありがとうございます!あなたたち、私がクビにならなかったことを知っていたのね」と言うと、「ユーチューブ見ました」。そして、「先生、今の心境はどうですか」と。「クビにさせなかったことはすごいこと!たたかって、勝ち取りました。だから、とってもうれしいです」と答えると、歓声を上げてくれた。

私が立てかけたプラカードの文字を読み、「三鷹高校の校長先生がどうしたの?」と一人が聞くので、簡単に説明し、「都の教育委員会のやっていること、間違っていると、とうとう校長先生が発言したのよ」と話した。そこにまた別のグループが合流し、盛り上がった。

始業時刻が迫り、中に入っていくその3年生たちを見送りながら、幸せに浸った。ドキュメントの動画の威力はすごい。

生徒たちが校門の裏側から出てくる前のしばらくの間、門の裏側かなり近くに生徒たちの声が聞こえてはいた。でも、まさか、こういう展開になるとは!言い出しっぺがいて、相談した結果の行動だったのだろう。大人には真似のできない柔軟さだ。

今日はプラカードの下半分を三鷹高校の校長の発言を紹介したのだが、この生徒たちの他にも質問してきた生徒がいた。

また、今朝は、「何で停職になったのですか」「停職って何ですか」と聞いてきた1年生が複数いたり、立ち止まってじっくり文字を読んでいく生徒が何人もいた。質問をするという行為を実行に移すのに、先に観察期間が必要だったのだろう。

昼間の間、虹のたねの皆さんと交流し、下校時再び、校門前に立った。帰りにはいつもの3年生男子が6〜7人でやってきて、しばらく遊んでいった。「君が代についてはよくわかんないけれど、大勢に嫌がられても、自分を貫き通すのはできることじゃない。何でそこまでできるのか、それを知りたい」と言う。一人は、何度もそれを繰り返す。

「何でそこまでするのかって?―私を観察したり、『君が代』について調べ、考えていったらいいと思うよ。急ぐことはないよ」と言い、「私は間違っていると思えば、やらない。正しいと思えば、一人でも行動する。みんながやるからやる、ということはしないの」と答えると、別の一人が「先生、KYって知っている?空気読めないの?」。私は、「読めないではなくて、私は読まないの」と答えた。生徒たちは「根津先生、屈するな!根津先生、屈するな!」とシュプレヒコールのように小さくこぶしをあげて叫び、帰り、あるいは部活動に行った。

2006年、私がここに異動させられた停職中から、根津は「ルールを守らない教員」「教員を辞めろ」と地域に徹底して宣伝がされ、バッシングが行われ、生徒たちはその動きに乗せられた。私はめげそうになる気持ちを整理して生徒からのバッシングと対峙し、前に進もうとしてきた。それから中1年が経ち、この春には私たち「君が代」被処分者の声を届ける報道やインターネットでの動画配信があり、中学生にも正確な情報を得る機会ができた。そういう中で、こうした生徒たちが出現した。生徒たちに柔らかい頭で考えていってもらえるなら、私への弾圧も意味があったというものだ。

帰るまでのしばらくの間、感慨にふけりながら、学校周りの道でトレーニングする生徒たちを眺めて過ごした。一人の3年生は、「先生、制服のボタン、自分でつけています」と報告してくれた。1年生の授業でやったことを活かしてくれているんだ。


5月8日(木)

 8時から都庁前でチラシ撒き。私と河原井さんのほかに15人が参加してくださった。

今日のチラシは、片面が4月8日に提出した質問書への都教委の回答ならぬ「回答」を、もう片面は、三鷹高校の土肥校長が都教委に「職員会議での裁決禁止」の通知撤回を求めたことを報じた毎日新聞記事を載せた。

 土肥校長は記事の中で、「教職員が『何を言っても意味がない」と思うようになり、活発な議論がされなくなった。教員の意見が反映しにくくなった」「教育現場で言論の自由が失われている」と言う。校長も教職員も誰もが感じてきたことである。

 やっと、本当のことを言う校長が現れた。良心を持ち続け、立ち上がった校長がいらしたのだ!とっても心強い。土肥校長の行動に触発され、自己の良心を呼び覚ます校長がもっと出てきてほしい。まだ、いらっしゃるでしょう?そういう校長たちと私たち一緒になって、子どもたちの教育を取り戻したい。今が実現の時。そう思いながら、教育庁や都庁で働く職員の方々にマイクで訴えた。


.5月7日(水)


南大沢学園特別支援学校に。


 今朝も越前谷さん、学校近くにお住まいのSさんが来てくださった。今日の越前谷さんのプラカードのことばは、「10・23通達の / 撤回なくして / 真の教育の場は/ あり得ない」。日替わりの越前谷さんのプラカードのことばに、何人もの教員が、「今日は?」と期待を寄せている。今朝も私が到着する前に、そう声をかけてきた人がいたそうだ。

 私のプラカードは、「わたしは、どんなにおどされても、まちがっていると思うことには、したがいません」。

 「迷惑なので、お帰りください。本校の教育活動には関わらないでください」と、校長が小中学部の副校長を伴い告げに来るのは、今朝はいつ?と待っていたのに、とうとう来なかった。

 先週は、校門前に10人近くいたので来なかったのかと思っていたけれど、今日も来なかったのを見ると、理由は別にあったのか?「迷惑」が解決したのか?あきらめたのか? 一方的に言うだけ言うと帰ってしまい、私の質問(=私に指示する法的根拠は?)には答えない校長に、今度は言いに来なくなった理由を聞きたい。そうしてくれないと、校長の行為が一貫性のないものに私には思えてしまうのだけれど・・・。

 「ご苦労様です」「お疲れ様です」「熱いから気をつけて」等々、声をかけてくれる元同僚たち、そして元気な声で挨拶をしてくれたり、おしゃべりをしていく、あるいは、駆け寄ってきて全身で受け入れてくれる生徒たちからたっぷり優しさと元気をもらう。3月最後の授業から1ヵ月半が過ぎたのに、生徒たちは私のことを忘れないでいてくれる。今朝も一人の生徒は、「先生、ちゃんと仕事しているのに、(教育委員会は)ひどいよね」と、一緒に怒ってくれた。

 午後遅くなって、来客。カナダに移住された日本人で、「9条世界会議」参加のために帰国されたKさん。短い時間だったけれど、ちょうど下校時だったので、校門前の雰囲気は感じ取ってもらえたと思う。

日差しの強い1日だった。


4月30日(水)

南大沢学園へ。

4月の最終日、ということは、あの3月31日から1月が経ったのだ。なんだか、やっぱり感慨深い。あの日は、真冬に逆戻りしたような寒さとおまけに雨だった。1ヵ月後の今日は、日差しが強く、汗ばむほどの陽気。こんな風にひと月を感じることって、滅多にないだろう。

 越前谷さんは、今日も私よりも早くにいらしていた。登校する生徒たちを挨拶で迎えているところに、土井さんが学生さん4人といらした。Sさん、Tさんもいらして、総勢9人となった。

 登校時や校外学習の行き来に子どもたちとことばや表情で挨拶を交わすのが、私にはとってもうれしい時間だ。

時間になっても今朝は、校長が副校長同伴で「ここに立つのは迷惑です。生徒に関わらないでください」と言いに来なかった。今日は大勢だから来ないのか。それとも、もう言わないことにしたのか?う、うん??

 今日特筆すべき、おぞましいこと。

校門前にいた私は、生徒の安全にかかわることで元同僚から伝言を頼まれた。近くに職員がいないのだから、私に頼んだのだ。私はその伝言を引き受け、伝言先の体育館に向かおうと校舎に入った。

しかし、その途中で、職員室から出てきた副校長は、いきなり、「出て行きなさい。出て行きなさい。出て行け!」と怒鳴る。まるで、私を犯罪者扱い。「頼まれたことがあってきました」と言っても、かき消すほどの声で「出て行きなさい」を繰り返す。「生徒のことで伝言を頼まれたんですよ」と言っても、前に立ちはだかる。しかし、やっと理由がわかったよう。相変わらずの命令口調で、「ここで言いなさい」と強要する。何の権限があって私を怒鳴るのだ。この人に告げたら、私に伝言を頼んだ人がいじめられるだろうから、言いたくなかった。けれども副校長は、怒鳴り続ける。生徒に関わることなので、伝言を優先するしかなく、この副校長に伝言内容を告げた。

告げ終わるとまた、「出て行きなさい。出て行きなさい」と連呼した。「ありがとうございます、でしょう。そうは言えないのですか」と言っても、「出て行きなさい」。情けないこと、極まりない。無性に腹は立ったが、怒る気にもならない。

 人間性のひとかけらもない、私への対応。この副校長が私に敵意をむき出しにするのは、都教委に報告を求められるからなのか。それとも、都教委にもの申す根津を、徹底して弾圧する対象と思い込んでいるからなのか。

 副校長が怒鳴っている時に、1ヶ月前まで私と関わった生徒が通りかかり、私の手を握ってきたのだけれど、それでも副校長は、怒鳴ることをやめなかった。今回に限ったことではないが。

 このような管理職の対応を都教委はよしとするのだろうか?聞かせてほしい。

 皆で公園の喫茶室に行き、お茶を楽しみ、交流した。


4月28日(月)

立川二中へ。

登校時、女子のグループが「根津さーん、がんばって下さーい」と飛び切り元気な声をかけてくれた。

「2年生かな?」――「はい、そうです」  「去年も私がこうしていたのを、覚えているのね?」――「はい、覚えていまーす」

昨年先輩から説明を受けたのだろうか?元気に門の中に入っていった。

 北多摩高校に進んだ卒業生たちと挨拶を交わす。みんないつも、あったかい気持ちをプレゼントしてくれる。出勤途上の伏見さんが立ち寄ってくれた。

 今朝も80歳のOさんが自転車を止めて話して行かれた。そこに、通りかかった60歳代の女性が歩を止められた。二中にお孫さんが通っているとおっしゃる。プラカードを指して説明をすると、「お金もったいないじゃないの」と。でも続けて、「勇気あって偉いね。雨の日もあるから身体壊さないでね」とおっしゃって、仕事に向かわれた。

 登校・出勤が済み、座って仕事をしていると、軽くクラクションが鳴った。きっと、と思って音のする方に目をやると、やはりそうだった。市議さんが笑顔で手を振ってくださった。半年振りの出会いだ。

 Yさんが訪ねてくださった。今日はこの後裁判の打ち合わせのため、11時半で終了した。


4月23日(水)

 南大沢学園特別支援学校へ。

越前谷さんは、私より30分も前にいらしていた。ご近所にお住まいのSさんもいらした。4月になっても体調が回復しないのかなと気になっていたところに現れて、再会を喜び合い、ほっとした。

 8時20分頃だろうか、校長と副校長が連れ立って出てきた。私の前で目も合わせずに、校長は「迷惑ですので、立たないでください。生徒に関わらないでください」と先週と同じことを言い、すぐさま、180度向きを変えて校舎方向に向かった。

「それはどの法令のどこを根拠におっしゃっていますか」と追いかけ、聞いたが、副校長は私の声を掻き消す大きな声で、「触るな」「出て行きなさい」と怒鳴り、門扉を閉めた。私はその門扉に挟まれた。

 質問に答えるくらいの度量は持っていてほしいものだ。私のいることが生徒へのマイナス、と思うならば、私を真面目に説得すればいいのだ。そこからしか、始まらない。しかし、尾崎校長及び鈴木副校長の対応には、威圧しかない。威圧で人の心を変えることなどできはしない。それがわからない人に、教育を語る資格はない。私はそう思う。

 高等部のCさんから、「先生、離任式にどうして来なかったんですか?」と聞かれた。「ぼくの周りの人も、『根津先生どうして来ないのかな』って、言ってる人がいたよ」とも。

 「参加したかったんだけれど、校長先生が呼んでくれなかったの」と答えると彼は、「校長先生は、『根津公子先生は今日は都合で来られません』って、言ってたよ」と。

「ううん、私は都合悪くなかったよ。すっごく、離任式に出たかったのに、出してもらえなかったんだよ」と私。彼は、「校長先生、いつもは優しいのに、どうしてかな」と首をかしげる。「どうしてなのかな?校長先生に、聞いてみるといいかもね」と答えた。

 生徒たちに、嘘をついたことを謝り、「誰の都合か」をきちんと説明しなさい。そう、尾崎校長に言いたい。

 朝の活動で公園に行く生徒たちを見送り、あるいは迎える時間はうれしい時間。自然と笑顔になる。その時、門の中では、副校長が今日も私の見張りをしていた。

 SRさんは海老名から、Nさんはバイクで台東区から訪問された。


4月22日(火)

 あきる野学園に。

近藤さんは今朝も早くから一緒に校門前「出勤」をされた。近藤さんも南大沢に来られる越前谷さんも、根津支援の範ちゅうを超え、ご自分の問題として「出勤」をされている。私としては、とっても心強い。

 職員や生徒たちを挨拶で迎えると、皆さん、気持ちよく挨拶を返してくださる。「ご苦労様です」などと、ねぎらいのことばを返してくださる人もかなりいらっしゃる。

日中は校外学習に出かける子どもたちに声をかけ、一人ひとりの表情を見て、にっこりして過ごした。

 夜は、南大沢の学年の歓送迎会。指折り数えて楽しみにしていた。校長・副校長が私に対してすさまじく非人間的な対応をした中で、学年の同僚たちは皆快く、私を受け入れてくれ、気持ちよく仕事をさせていただいたことにお礼を言いたいと思っていた。

 楽しい語らいは瞬く間に過ぎた。生徒たちに囲まれた、幸せいっぱいの写真、同僚たちと撮った写真、それらを貼り、生徒や同僚たちのことばを添えたアルバムをつくり、プレゼントしてくださった。生徒たちのことばも同僚たちのことばも、とってもうれしい。

未経験で戸惑うことが多くてごめんね、と思いながら、うれしくいただいた。最高のプレゼント!最高に幸せ!!帰りの車中は、ずっと、私の宝物となったアルバムに目をやり、余韻に浸った。

 教員生活、最後の何年かを養護学校に回してくれて、都教委よ、ありがとう、です。在職6ヶ月の後半は、そんな気持ちだった。だって、生徒とも同僚ともいい出会いができて、貴重な体験をたくさんさせてもらったから。


4月21日(月)

 立川二中、初回の「出勤」。

もう私の知っている生徒は誰もいないと思いながら、校門前に立った。ところが、かなりの生徒が見覚えのある顔だ、という表情をする。私も「ああ」と自然に口をついてくる。2、3年生は昨年の記憶がよみがえったようだ。

北多摩高校に進んだ、立川二中の卒業生が「がんばってください、先生」と元気な声をかけてくれたり、立ち話をしていってくれた。

 登校の波が過ぎたところで、書きものを始めたところに、「奥さんよお、(東京)新聞見たよ」と頭の上で声がした。80歳になられる“おじさん”だった。半年ぶりの対面に、おじさんはお医者さんの予約時刻があるというのに、長時間おしゃべりをされていった。

 再び書きものを始めたら「先生!」と、青年の声。二中の卒業生だった。この時刻に?と聞くと、選択教科の関係で登校時刻がずれるのだという。

信号待ちの車の女性がプラカードを読まれ、私ににっこりとおじぎをされた。また、自転車の中年男性は、プラカードを読まれて、「ああ、がんばってくださいね!」と言いながら、走り去って行かれた。

 下校時、部活動がない何組もの1年生がプラカードと私をちらちら見ていく。「何してるんですか」と聞く生徒もいる。「君が代、歌わないんですか」と聞いてきた生徒に、「そうよ、私はね」と答えた上で、「あなたはなぜ歌うの?」と聞き返すと、「国歌だから」と、1+1=2であることと同じような答えを返してくる。今度は私が、「国歌だから歌いたいんだ、君は」と返すと、「ううん」との返事。この生徒たちは次回、私に何を聞いてくるだろう。

 1年生とおしゃべりをしていてふっと、この生徒見たことある、と思った。

「あなたは、お兄ちゃんが高校○年生でしょ?高校を卒業したお兄ちゃんもいるでしょ。名前は、・・・」と私。「Aです」「やっぱり」

別の生徒が、「ぼくは誰だか、わかる?」と聞く。その生徒の兄弟関係も、私は正解。1年生にとっては私は見ず知らずのおばさんなのだけれど、その垣根を急に低くし、しばしおしゃべりをしていった。

 都心で会議があるので、早めに帰り仕度をしていると、携帯電話が鳴った。北多摩高校に進んだ卒業生のBさんだった。部活動が始まるまでのわずかな時間をやりくりして、わざわざ私に会ってくれた。心遣いがとってもうれしく、心に沁みる。

 卒業生からの応援を立川の初日からたくさんもらって、最高に幸せ! 

Sさんが訪ねてくれた。


4月19日(金)

 日中はこの2ヶ月の間に溜まりにたまった仕事に宛てた。夜はあきる野学園の職員親睦会の歓送迎会に参加した。同じ時間に、南大沢のそれが行われているのだから、ここは笑うしかない。南大沢では、1年前に私が書類の身分上は着任となった時にも、尾崎校長は、「呼ぶな」と職員に告げたと言う。

 それはさておき、同僚となる人たちと気持ちよく交流ができ、「10月よ、早く来い」と思う。

4月17日(木)

 都庁前で8時からでチラシ撒き。9人の参加。定年で再雇用になったWさんは、何と、木曜日が休みだというので、それに感謝した。

今日のチラシは、表面に、署名や要請書が処分を決定する教育委員に届けられなかったこと、そして、金井任用係長が私たちへの対応を指して「からかって来るか」と発言したことに対し、5点からなる質問状を出したことを、裏面には改訂が決まった学習指導要領についての解説を載せた。

 10時半からは07年度「君が代」裁判、16時からは05年の「君が代」裁判。裁判所の前では、国労闘争団が座り込み行動をしていたので、少しだけ参加した。


4月16日(水)

 南大沢学園(特別支援学校)に。今日も私より先にEさんと近藤さんがいらしていた。近藤さんは、校長や職員に渡す手紙を用意されていた。

 私は、「わたしはどんなにおどされても、まちがっていると思うことにはしたがいません」と書いたプラカードを立てて、生徒や元同僚を迎えた。立ち止まってプラカードを読む一人の生徒は、「間違ったことはしてはいけない。うん。根津先生がんばってください」と言って、門の中に入っていった。また、一人の生徒は、私のことをテレビで見たと言う。「がんばってください」「(「日の丸・君が代」は)戦争に使ったんでしょう。○○先生も反対だって、言っていたよ」としばらく話をしていった。

 8時15分、校長と小中学部の副校長が連れ立って現れた。「迷惑なので、お帰りください。本校の教育活動には関わらないでください」と目を合わせずに言うと、私の返事は聞かずに、門の中に引き上げた。私と会話になることは避ける。対応の仕方は、法令上私とは、何の関係もなくなった今も相変わらずだ。もしもこの発言を校長の職務、生徒のため、と本気で思うなら、校長は私を説得しようとするだろうに、その気配は微塵もない。

副校長は、と言えば、職務時間中に職員室の自席から真後ろを向き、私の方をまるで監視しているような様子。到底、机に向かって仕事をしているとは思えない。

今週末に離任式が予定されているのだけれど、それに根津を呼ばないことを職員に告げたと言う。その理由を校長は、「転出先のあきる野学園の校長から出張命令が出ないから」と言ったそうだ。停職中に出張命令が出せるはずはない。そんなことは誰も承知のこと。それを承知で、生徒との関係を考えて、立川でも鶴川でも、出席させてくれた。それが、人として当たり前の行為であり、校長の裁量というものだ。こんな差別的なこと、いじめをすればするほど、職員の気持ちが校長から離れていくことが、この人にはわからないのだろうか。

隣の公園に行く生徒たちに「言ってらっしゃい」「お帰りなさい」と声をかけ、その反応に温かい気持ちをもらった。

午後は、都教委の今日の暴走を予期させることになった、多摩中事件の結審。最終の意見陳述をした。

 以下は、近藤さんの手紙。

          私達は、教える機械じゃありません
                               八王子市立第五中学校夜間学級
                               被処分者 近藤順一

(連絡先が書かれている)
                              
     都立南大沢学園養護学校、学校長及び都教委の皆さん、
  新年度を迎えお忙しい毎日かと察します。この3月の卒業式でも「日の丸・君が代」強制、処分が強行されました。とりわけ3月まで貴校に在職していた根津公子氏には停職6ヶ月という重い処分が課されました。私は、自分に課せられた処分と共に、これに強く抗議します。根津氏は「教育に反することには加担しない。理不尽なことには服従しない。それが教員としての職務と思うから私は着席します。」(『希
望は生徒』)と述べています。

私も3回目の不起立、2回目の処分を受ける中で、自らの思想・良心の自由を保持すると共に、生徒に対し、多様な考え、行動があることを示す必要を感じます。学校現場での職務遂行としての不起立の意義を考えています。今回、現職解雇という遮断ではなく、対話の道を選択した皆さんが、これ以上の強制、処分を停止することを強く要求します。
  
   教職員の皆さま、生徒・保護者の皆さま、地域の市民の皆さま
 私達は、現職解雇を危惧していました。停職6ヶ月という重い処分ではありましたが、解雇を免れました。その背景には、皆さまの力強い声と行動があったと確信しています。この間の皆さまの取り組みに敬意と感謝の意を表します。

   私達は引き続き訴え行動します
 不服従を貫く教員を「ガン細胞」と称し、「不適格者」として嘱託解雇・不採用にする、ましてや「現職解雇」さえ危惧され、強制異動(配置転換)によって物か機械のようにあつかわれる。これは、新教育基本法、新学習指導要領、教員免許更新制による近い将来に「一般化」される「排除の事態」ではないでしょうか。そして、現在、労働現場で先行、普遍化している日雇い派遣、ポイント派遣、臨時雇用など、人を人とも考えない事態と重なるのではないでしょうか。それが、私達の先輩教員が手を染めた「教え子を戦場に送った」道に通じることを21世紀の今、現実問題と考えています。

 昨日、根津氏の新たな職場である都立あきる野学園を訪れました。都教委の皆さんにただ一つ感謝すべきは、すばらしき自然に囲まれ「山笑う」季節に、正に奥多摩の山々に迎えられたことです。
 私達は、今後とも苦難の境遇に呻吟する若者をはじめ各界各層の皆さまと共鳴し、自らの信じる道を歩みたいと思います。  (2008.4.16)


4月15日(火)

あきる野学園に初の停職「出勤」。7時半、車で自宅を出て12分後には学校着。車は、学校の斜向かいに1日200円で駐車できる。停職が明けたら、1時間に1本のバスと、1時間に3本の電車で不便になるが、停職中は、らくらく「出勤」だ。

7日に校長から紹介はしてもらっていたが、なぜ停職?といぶかしく思っている同僚となる人もいらっしゃるだろう。そう思って、自己紹介がてら、私が起立しない気持ちを綴った手紙を出勤する同僚たちに手渡した。それを始めたところに、近藤順一さん(八王子五中夜間部)が現れ、手紙渡しを手伝ってくださった。川崎のご自宅から2時間はかかるであろうに。昨年の停職出勤の時には、南大沢学園養護学校に毎週来てくれて、登校・出勤時の挨拶に加わってくださったのだった。

同僚となる人たちの対応の多くに、温かさを感じた。一人の生徒が、プラカードを読んで尋ねてくれたので、説明をすると、彼女は「自殺をした校長先生もいますよね」と言った。そして、手を差し出し、「それをください」と言う。「これは、大人向けの手紙なのよ」と答えると、「お母さんに渡しますから」と。彼女は、帰宅してどんな報告をしたのだろう。考えるきっかけになったなら、うれしい。

あきる野学園はずっと門扉が開け放されている。通りがかりの人も私も中を眺めることができる。中の人が私に声をかけてもくれる。学校に出入りする業者や道行く人何人とも、初日から話をした。やはり、ニュースを見ていられる人が多かった。

池田小事件をきっかけに学校の門扉が閉められた。その門扉は、学校が人を固く閉ざすような雰囲気を与える。しかし、ここあきる野学園は、終日閉められていない。とっても開放的な、温かい印象を受けた。

 次は、手渡した手紙。

あきる野学園の教職員の皆さま

 おはようございます。

私は7日の職員朝会で校長から紹介いただきました根津公子と申します。心が温かくなる始業式に参加させていただき、10月の到来を首を長くして待っています。

紹介の折に「10月から出勤」と聞かれて、どういうこと?と思われたでしょうし、また、今朝は何?と思われるでしょうから、自己紹介をさせていただきます。

都教委がいわゆる10・23通達を出して以来、全都で延べ404人の教職員が処分を受け、今年も20人が処分を受けたのは、ご存じのことでしょう。私もその一人です。3週間前の南大沢学園養護学校の卒業式での「君が代」斉唱の際起立をしなかったことで、3月31日に処分が発令され、4月1日から6ヶ月間、停職とされました。

停職期間中は、抗議・要請や都庁職員へのアピールのために都庁に行くほかは、10・23通達による処分を受けた学校と、着任したここ、あきる野学園の門前に来ます。私は教員として間違ったことはしていないし、仕事をする意思は十分あります。だから出勤したいのですが、中には入れてもらえないので、校門前にいるのです。道行く人がここは少ないのかもしれませんが、その人たちにも、都教委のしていることを知ってもらいたいと思っています。皆さまも、お忙しいでしょうが、休憩時間にどうぞお立ち寄りください。

さて、私の経歴です。71年、家庭科担当として江東区立大島中学校に着任。子どもの喘息で八王子市に転居したのに伴って、市内の小学校に4年、中学校2校に20年、そして多摩市の中学校に3年いましたが、03年以降、「校長の人事構想にない教員は1年で異動させることができる」とした、米長元教育委員が絶賛した異動要綱を使って、ほぼ毎年、1年で異動をさせられています。特に昨年は、中学校から養護学校に校種替えをされました。

異動攻撃を受ける理由は明らかです。「君が代」不起立処分に象徴されるように、私が「職務命令だから従う」とはしない教員だからです。

私は「君が代」不起立で、04年(=04年は、産経新聞によると、私がいた「調布市では明確な職務命令が出ていなかった」ということで処分なし)以外、毎年処分を受けています。

「君が代」が国民主権の憲法に抵触し、歴史的清算も終わっていないことだと、私は考えます。しかし、だから、起立の職務命令に従わないのではありません。

起立をしないのは、都教委が進める「日の丸・君が代」が教育行為に反し、教育を破壊することだと考えるからです。知識や資料をもとに考え合うのが教育です。「日の丸・君が代」について生徒が考え意見形成できるような資料も機会も提供せず、いや奪い、起立・斉唱を指示し従わせるのは、調教に他なりません。1947年制定の教育基本法が否定した、戦前戦中の教育と同じです。

都教委は、「君が代」不起立・不伴奏処分について、教員の「内心は問わない」と言い、また、「起立する教員と起立しない教員がいると、児童・生徒は起立してもいいし、しなくてもいいと受け取ってしまう」からと言います。私たちも子どもたちも何と見くびられたことでしょう。

教員が黙することによって、子どもたちを被害者にしてしまう関係に私たち教員は置かれています。70年前だけでなく、今。子どもたちに「上からの命令には考えずに従え」「長いものには巻かれよ」と教え、子どもたちを時の政権担当者の好みの色に染め上げることは許されません。

子どもたちが何の疑問も持たずに起立斉唱するように、教職員は内心に反してでも起立せよ、という職務命令が正当な職務命令ではないことは、発出している校長たちの多くが承知しているはずです。子どもが人として成長するその助けをするはずの学校で私たちが大事にしなければいけないことは、道理や徹底した話し合いによる民主主義、そして違いを認め合う思想とそれに基づく教育活動だと思います。

私は常々生徒たちに、「みんながやるから、ではなく、自分の頭で考え、判断して行動しよう。おかしいと思う時には、たとえ一人であっても、おかしい、と言おう」と言ってきました。今までに私と出会った生徒たちへの責任から、また、これからも教員であり続けたいとの思いから、理不尽な職務命令や「校長としてのお願い」は拒否します。

これを読まれる皆さんのかなりの方が、都教委は間違っている、と感じていらっしゃると思います。いや、そうはお感じにならない方とも、ご一緒に考え合っていけたらうれしいです。

                                   2008年4月15日

根津公子


4月14日(月)

 鶴川二中に今年度初めての停職「出勤」。鶴川に予定した日は、一昨年も昨年も雨の日が極端に多かった。台風直撃や雷雨で退散することもあったのだが、何と初日の今日も雨。

 登校してくる生徒一人ひとりに「おはようございます」と声をかけた。授業を担当した生徒は3年生だけになった。「何で来るんですか。来ないで」という生徒もいれば、やっと顔がわかるくらいの距離から歓迎の声をあげてくれる生徒もいる。反応はさまざまだ。2年生と思しき生徒は、昨年のことを思い出し、ああ、といった感じだ。休み時間には、「根津先生がんばってー」と数人の男子生徒が何度も叫び、手を振ってくれた。私も手を振って応えた。また、別の休み時間には、別の場所から「君が代」を歌う声が聞こえてきた。「根津帰れ」とも。

 下校時には、「ユーチューブで動画を見た」「テレビでも見たよ」「根津先生、カッコいい!」「明日は、記者を連れてきて」などと言っていく生徒もいた。

 生徒たちには、私の抵抗する姿を見て大いに揺れ、考えてほしいと願う。

 半年ぶりにお会いするご近所の方々が、「新聞で見ましたよ」「テレビで笑顔を見ましたよ」「クビにならなくて本当によかったですね」と声をかけてくださった。

プラカードをちらちら見ながら通る人には、「これは、私です」と近寄って行って自己紹介を始めると、多くの方が思い出したように「ああ」と合点をされた。そして、ねぎらいや応援のことばをかけてくださった。昨年に比べ、圧倒的に好意的の感じがする。「君が代を知らない人が多い。教えてくださいよ」と捨て台詞を吐いていったのは、たったの一人。3月31日の、私たちに好意的な報道の効果だろうか。それは世論操作と紙一重であって、怖いことでもあるのだけれど。

 昨年ここで知り合った、我が子ほどの若いお母さんたちが、お子さん連れで訪ねてくださったり、「考え方は私とは違うけど、あんたは筋が通っていて立派だよ」と評価する年配のおじさんが来られたりして、1日の短かったこと!


4月9日(水)

 南大沢学園に停職「出勤」。私が到着する前に、2月途中から3月25日まで毎朝、校門前に立ってくださったEさんがすでに到着しておられた。学校名が「養護学校」から、流行の「特別支援学校」に変わっていたが、ぴんと来ない。31日の処分発令の日に居合わせなかったたくさんの元(になってしまった)同僚が、「おめでとう!免職じゃなくて、本当によかった」「31日にいなくてごめんね」と言ってくれた。8時過ぎ、「フランス21」と言う局が取材に来られ、応じた。

 半月ぶりに見る生徒たち。とっても懐かしい。根津とわかると、歓迎してくれた。

 午後は、裁判の進行協議。


4月8日(火)

 すでに予定を変えることもできず、大雨の中、都庁前でチラシ撒き・情宣をした。こんな大雨にもかかわらず、9人が参加してくださった。

 9時過ぎ、先週金井任用係長に伝えておいた質問への回答を得るため、そして、停職処分に対する抗議分を渡すために職員課を訪ねた。しかし今日も、通常の受付はシャットアウトされ、ロープと人間バリケードの「受付」が用意されていた。このような「非都民」の扱いに、異を唱える職員はいないのだろうか、と思う。

 案の定、金井任用係長には、質問について回答をする意思は見られない。「からかってくるか」発言に及ぶと、激昂する。

 私たちが用意していった抗議文と質問書を読み上げると、読んでいる途中で金井係長は姿を消してしまった。しばらくすると、替わりに、T教育情報課係長が「私が受け付けます」と言って、やってきた。「都民からの要望・要請等の受付窓口は、教育情報課」にしたいとする、つまらない執念を感じる。「教育情報課の関与のもと」、しかし、「原則として担当する課が」受付ると、要綱には書かれているのだから、担当所管の職員課が対応すれば何の問題もないはずなのに。

 質問は、次のとおり。

@当会はじめたくさんの個人・団体が提出した署名や請願(書)はどのような検討の下、教育委員に届けないと決定したのか、明らかにしてください。

 ・検討に携わった役職(個人名) ・検討の結果、これらを教育委員に届けないとした理由 ・これらが、現時点でどのような扱いを受けているか 

A署名や請願(書)は、懲戒分限審査会のメンバーには届けたのでしょうか。

 届けないとしたら、その理由をお聞かせください。

B請願書を届けないとなると、憲法16条に抵触します。当会が3月14日に提出した請願書は、28日の教育委員会定例会までに、教育委員の方々に届けられたのでしょうか。

C2月以来、「君が代」処分をしないよう要請をしようとする私たちに対して、都教育委員会がしたことは、阻止線を張り、警備員や職員を配置して、それを阻止するという、常軌を逸した対応でした。賢い政治家や行政が、批判する民衆の声にこそ耳を傾け、施策に活かすものであることは、説明するまでもないことですが、都教育委員会は、なぜ、批判を聞こうとしないのですか。

D27階の人事部職員課に要請に行こうとすると、阻止線に「責任者」として対応したのは、金井任用係長でした。同係長の対応は終始、「組織として」「上司の指示で」「責任と誇りを持って」、「回答しないが回答です」、「所管課の判断で適正に処理します」というものでしたが、しかし、それだけではなく、3月28日に30階で抗議をする私たちのことを指して、「これから30階に行って、からかってくるか」との言辞を吐きました。金井係長は、4月2日に私たちがそのことをただすと、烈火のごとく怒りましたが、「言った」とも「言っていない」とも言いませんでした。

同係長がその言辞を発した時、すぐ近くに、スーツ姿の見覚えのない人がいたはずです。そしてまた、エレベーターホールに居合わせた職員と警備員は、同係長の発言を聞いたはずです。同係長の発言に呼応して一人が、「このエレベーターではまずいのでは」と言っているのも、スーツ姿の彼は、聞いています。

  その時間帯に警備に当たっていた職員と警備員の記録はあるはずですし、今なら各人の記憶もはっきりしています。

  直ちに、事実を明らかにし、謝罪することを求めます。


4月7日(月)

 あきる野学園の始業式に行ってきた。校長は、私をもしっかり紹介してくれた。コの字型に向き合って、堅苦しさのない、心温まる始業の会に感激。気づけば、今日は1日その余韻に浸っていた。

 早く学校の中に入って、仕事をしたい!


4月2日(水)

朝8時から都庁前でチラシ撒き・情宣を行った。都庁で働く人たちに、「ご一緒に考えてください」「都民のための行政、教育行政にさせるよう、ともに声をあげましょう」と連日訴えてきたので、お礼を兼ねて報告をしたいと思ったからだった。

激励やねぎらいのことばや笑顔がたくさんの人から寄せられ、チラシ撒きに参加した人たちでまたも喜び合った。

チラシまきを終えた足で私たちは、28日に生じた質問2つを持って、人事部職員課の金井任用係長を訪ねた。2つとは、

@竹花教育委員が教育委員会定例会で発言したこと(注)からすると、私たちや全国の人たちの提出した要請や署名は、処分を決定・承認する教育委員の人たちに届いていない、としか思えないが、どうなのか 

A「これから30階に行って、からかってくるか」と、私たちへの対応について金井さんは言ったが、どういうことなのか。

(注)「日本経済新聞のコラム欄に載っていた『開かれた・・』を、たまたま読んだ。マスメディアの記事で見逃しているものもあると思う。こういう関係のマスメディアの記事を定期的に教育委員会の場に、報告はいいですが、紹介してほしい。おそらく教育行政について教育委員会宛てに、都民の声が寄せられていることがあるんじゃないかと思う。東京の教育行政にとって参考になるもの、それが含まれているものを、耳の痛い話も含めて、教育委員会の我々に紹介していただくことはできないか。参考にもなるし、できるだけ僕らも耳を傾けていきたいので、ご協力をお願いしたい」

27階に着くと、いつもの阻止線にロープを出し、職員数人が部屋から飛び出してきたばかりという様子が取ってわかった。職員が次々に部屋から出てきて、あっという間に私たちの前に3重の職員バリケードができあがった。今日は、警備員の配置ができなかったようだ。

用件を告げても、「責任者」である金井係長は出てこない。20分経ってようやく、出てきた彼は、「お待たせしました」と言うべきところ、「根津さん、今日はどういう服務できたのですか」と言った。「どういう服務って、学校に行け、ということですか」と聞いたけれど、「私の考えはありますが、答えません」と金井係長。私は、「脅しのつもりか知りませんが、私たちは、28日に起きた2つのことで、どうしても聞いておかなければなりません」と告げ、来週には答えを用意してくれるよう要請してきた。


3月31日

28日の教育委員会定例会で処分が決定され、該当者には処分発令の出張命令が出されたというのに、私だけはそれがされなかった。とすれば、免職間違いなし、と思わざるを得ない。いよいよ明日が処分発令の日という30日の夜、私は、免職以外の可能性は全くないと踏んで抗議声明を書いた(打った)。免職にさせないために、この2ヶ月やれることはすべてやった、後悔はない、明日の処分発令を新たな闘いの出発にしよう、そう思いながら書いた。普段より早くに布団に入ったけれど、余り眠ることができずに朝を迎えた。

 31日は7時30分、学校に到着。冷たい雨が降る中を、すでに何人もの友人たちが校門前に来てくれていた。荷物を職員室に置いた後、支援に来てくれた人たちとともに、都教委職員(役人)の登場を待った。

報道関係者も多数見え、取材に応じた。8時25分の始業に合わせて、私は2階の職員室に戻った。窓ガラス越しに、みんなの顔が見え、訴える声が聞こえてくる。出勤している職員は少なかったので、遠慮気味に窓を開けて、みんなの話しに耳を傾け、一人ひとりの顔を追った。

泣き声で途切れ途切れになりながらマイクで訴える友人、知人たち。2006年度在職した鶴川二中学区のお母さんたち、子どもたち。小学生のTさんの笑顔が私の目に飛び込んだ途端、私の中で強力なパワーが駆け巡った。

大分の益永さん、北海道、大阪、愛知、広島、福岡、長野からも、このために来てくださって感激。死刑台に上らされる私を見守り、校長や都教委に抗議しようと、駆けつけてくださったたくさんの方々(90人に近い、と聞かされた)に、支えられていることに感謝した。

部屋の中にいても寒いほど花冷えのする、おまけに雨が降りしきる中で、時間ばかりが経っていく。皆さん、予想もしない寒さに、大丈夫だろうか。都教委はここには来ないのか、どこかに私を呼び出すのだろうか。いろんなことが頭を去来する。

「都教委が来た!」と誰かが叫ぶ声に、下を見ると、一人は見覚えのある顔であった。都教委の役人だ。間違いない!と思った。時計を見ると針は、9時27分を指していた。

10時頃、鈴木副校長が私を呼びに来た。「根津さん、お伝えすることがあるので、校長室に来てください」。校長も来て、「10時30分までに来なければ、受領拒否と見なします」と居丈高に言う。同僚の一人が、「私たちにできること、何かある?」と聞いてくれた。「付き添ってもらえたら、とってもうれしい」と言うと、すぐに声を掛け合い、5(4?)人の同僚が同行してくれた。春季休業中なので、出勤していた人は少なかった。もう、これで十分心強い。うれしかった。

 10時20分、校長室に同僚たちと行き、私が引き戸を開け、一歩中に入ると、即座に副校長がやってきて、「戸を閉めてください」と私に、「手で押さえて、戸を閉めさせません」とあちら側の人に言った。都教委の役人は、個人情報だから戸を閉めるよう、私に告げた。「この場で受け取ります。そこまで行かなくとも、ここは(あなたたちが指定した)校長室です。個人情報が知られて私には困ることはありません。いえ、皆に知ってほしいですから、そちらがここに来てください。」と私は言うが、彼らは、「受領拒否」に仕立て上げればいいだけのこと。

処分書を受け取るために、仕方なく、都教委の役人の近くまで進んだ。補佐役は、三田村管理主事、処分書を読み上げたのは、江藤職員課長。

この2ヶ月間私たちが都教委人事部職員課に要請をした際に、対応を求めても出てこなかった課長がここにいる。課長は、何かを考える暇も与えずに、処分書・処分理由書を立て続けに読んだ。「停職6月」と聞こえた。まさか、間違いじゃないよね?!一刻も早く、廊下で待つ同僚たちに処分書を見てもらいたい、とじりじりする思いで長い処分理由書を読み上げるのを待った。

処分書渡しが終わると、校長は転任校を告げた。「あきる野学園養護学校」と言った。

10月に復帰して南大沢学園での仕事に就き、校長は私の仕事ぶりを見ることなく、11月14日、「来年度の人事構想にあなたは入っていない。」と告げた。それは、尾崎校長の判断ではなく、都教委のシナリオに沿い、都教委の指示通りに、何の躊躇も考えもなく、校長職の尾崎氏がなした行為であることは疑うべくもない。そして、この運び。

都教委は私に対し、要綱等を駆使して可能な限りの嫌がらせを行って来たので、いまさらの感あり。

この話の時には、もう私は出口の前にいたのだが、副校長は私と引き戸との間のわずか数十cmのところに、ついたてを入れた。何のための目隠し?といぶかしく思っていたら、廊下に出て、その理由がわかった。同僚たちは、引き戸1枚を隔ててガラス越しに、そしてついたてのわずかな隙間から中をうかがっていたのだとのこと。喜劇だ。

 処分書を持って廊下に出ると、まずは皆に処分量定の記載を確かめてもらった。「免職じゃないよね?」「うん、違う。停職6月、と書いてある」「やったー」「やったー」みんなで喜び合った。免職ではなかったうれしさと、同僚たちが気持ちを共有してくれたうれしさ。なんという幸せ!

都教委の役人や校長たちは同僚たちの喜ぶ声をどんなふうに聞いたのだろうか?いや、それは、指示された職務外のこと、意に介さず、なのか?

 外の皆に報せなくちゃ、と職員室に駆け上がり、私はまずは年休処理簿に1時間の年休申請をした。その間に同僚が外の皆に、笑顔でサインを送ってくれていた。年休申請を済ませた私は、窓から皆に向かって、叫んだ。「みんな聞いて!都教委は、私をクビにすることはできなかった!!」(と、言ったそうだ)。

そして、転げるように外に走った。歓声と泣き声で迎えてくれた皆と、抱き合い、喜び合った。

処分理由書には、卒業式での不起立のほかに、「OBJECTION HINOMARU KIMIGAYO」のロゴの入ったトレーナーについての、職務専念義務違反、職務命令違反が加えられていて、なおかつ、停職6ヶ月。とすると、昨年の君が代「不起立」での停職6ヶ月処分よりも薄まったとも言える。一段ごとに死刑台への階段を上らされる累積加重処分に、風穴を開けることになったのだ。

「君が代」処分自体が間違いであり、半年間も仕事を奪い、収入を途絶えさせる停職6ヶ月処分は、許しがたいことではあるけれど、連日集まり行動してくださった人たち、都教委にいろいろな形で声を寄せてくれた全国の、いや、世界各国の人たち、そういう人たちの力によって、勝ち取ることができたものだ。

また、トレーナー処分発動か?!という2月から3月末までにいくつもの新聞社がした報道は、どれも、「都教委よ、余りにひどいじゃないか」といった論調だった。そうしたことすべてが、都教委の判断に影響したことは明白だ。私一人がどんなに動いても、追放は食い止められなかっただろう。大勢の人が見える形で動いたことが、都教委の暴走にブレーキをかけたのだ。私たちみんなの勝利だ!

都教委は、不起立・処分発令対象者から私を分離して、学校で密かに処分発令をしてしまおうと考えたのだろうけれど、結果は彼らの目論見からすれば、裏目に出てしまった。

お昼のニュース(TBS・TV)が、学校前で喜び合う私たちの姿を放映し、翌日の毎日新聞は、そのシーンを伝える写真を大きく掲載した。東京新聞の報道も、私の声を大きく伝えていた。

午後は、不起立・被処分者20人の、私と退職者以外の人たちへの処分発令が水道橋の教職員センターで行われた。河原井純子さんは、私の昨年と同様に、停職6月。早くその場に合流したかったけれど、年休の残が2時間しかなく、15時10分、その年休を使って、集会と記者会見を行っている会場に向かった。