2009年 停職出勤日記.

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10月2日

 待ちに待った初出勤の1日、学校の玄関をくぐると、見慣れない背広姿が目に入った。「都教委の方ですか。お名前は」と聞くと、「金子です」。西部学校経営支援センター西支所の指導主事だという。何のためにここにいるかを聞くと、「副校長と話があって」と言う。「話をするのに普通は、玄関ではしないでしょう」と私は言ったが、金子氏は無言であった。
 私は職員室に急ぎ、職員のレターボックスに用意してきた挨拶文を入れた。手伝ってくれる人がいたので、始業前に完了した。朝の職員打ち合わせが始まり、前方を見ると、副校長の隣近くに、今しがた見たばかりの金子サンがいる。これをここで問題にすべきか、考え、今日のところは黙っておいた。
 1日は「都民の日」で学校は休業日、生徒は休み、教員も少ししか出勤していない、寂しい初出勤の日だったけれど、多くの人が労いのことばをかけてくれた。
 2日はいつもの学校、「復帰してよかったですね」「がんばってください」という高等部の生徒、「家庭科の授業ができてうれしい」「授業がとっても楽しみ」と言ってくれたのは、中学部の生徒。高等部や中学部の生徒たちが復帰を喜んでくれたことが何よりうれしい。

 以下は、挨拶文


同僚の皆さまへ

停職が明け、復帰しました。
今日からまた、一緒に仕事をさせていただきます。どうぞよろしくお願いします。
03年以降ほとんど毎年都教委の指示で異動をさせられてきた身としては、再びあきる野学園で働けるのは、この上なくうれしいことです。新学年を迎えた子どものような心境で今日を迎えました。

処分された6ヶ月前と現在とでは、政治情勢が大きく変わりました。政権交替があったからと言って、それでいい政治がされるとはまったく思いません。しかし、有権者がきちんと声を挙げることで政治は変わり得るということを、今回の都議選、衆院選の結果は示しています。
都教委はおかしい! 現場に下ろしてくることは子どもたちのためにならないことばかり!! 「君が代」不起立で処分を受け続ける私だけでなく、教員の多くがそう感じています。三鷹高校をこの春退職された土肥元校長は、それを公表され、裁判に訴えられました。
復帰に当たり、とりわけ新採の方々に向け、都教委の教育行政について一言述べたいと思います。どうぞ、お付き合いください。

1999年石原氏が都知事に就任するや、それまで他県と比べ比較的民主主義が活きていた東京の教育は、破壊の一途を辿らされました。指示命令に考えずに従う、さらには、上の意を汲み取り率先して動く従順な子どもをつくるという明確な目的を持って石原都教委は、憲法も教育基本法も子どもの権利条約も、東京の教育目標から削除し、まずは、教員の管理統制に走りました。従順な子どもをつくるために、教員に従順さを求めていきました。

自己申告書の提出と業績評価・賃金差別、主幹や主任教諭の導入、週案の提出強要、「君が代」不起立・不伴奏での処分、学力テスト・・・・・・。これらを導入したときの表向きの理由を都教委は、「円滑な学校運営」とか、「児童・生徒の学力向上」などとしましたが、本当の狙いが“従順な教員、従順な子ども”づくりにあったことは、明白です。10・23通達についての次の発言・主張は、それを示しています。
「まずは形から入り、形に心を入れればよい。形式的であっても、(教員や生徒が国歌斉唱時に)立てば一歩前進である」(03.11.11指導部長)
「(不起立が)一人の人、あるいは二人の人だからいいじゃないのと言うかもしれませんけれども、・・・何しろ半世紀の間につくられたがん細胞みたいなものですから、・・・少しでも残すと、またすぐ増殖してくるということは目に見えているわけです。徹底的にやる。曖昧さを残さない。」(04・4・9元丸紅会長の鳥海教育委員)
「起立する教職員と、それを拒否する教職員とがいた場合、その指導を受ける児童・生徒としては、国歌斉唱の際に、国旗に向かって起立してもいいし、しなくてもいいと受け取ってしまうのであ」る(07.2.2都教委準備書面)。

 果たして学力テストや週案の提出は“従順な教員”づくりとは関係のないことでしょうか。
学力テストについては、教育の自由を奪い、教員を管理統制するもの、ということで、過去に大きな反対闘争がありました。私は、今も教育行政の狙うところに変わりはないと思います。学力テストが、学力向上に効果がないことは、この間、フィンランドの教育と比較し論じられてきたところです。

教育課程審議会の会長であった三浦朱門氏の次の発言は、文科省が学力など、何も考えていないことだけでなく、国の教育に対する考え方を如実に示していると思います。都教委もしかりです。

「平均学力が下がらないようでは、これからの日本はどうにもならんということです。つまり、できん者はできんままで結構。戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた労力をできる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でもいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです」(斉藤貴男著「機会不平等」)。

 週案も、教育の自由を奪い、教員を管理統制するものです。1969年に東京都教職員組合(都教組)と都教委との間で、「一、『週案』『日案』は、強制的に提出する義務はない。 二、行きすぎの校長については、注意し、指導する」(1969年7月7日付都教組新聞「週案に関する都教組−都教委の確認」)ことが確認されました。これは現在も撤回されていませんが、都教委は事実上それを反故にして、提出しない教員に対して校長が圧力をかけてきます。私が2007年度の業績評価において「学習指導」を「D」とされた理由が、週案を提出しなかったこと(他に服装のこと)でした。
 私も当然毎回、授業案を作って授業に臨みます。週案提出を求められるようになった2001年以来、私は「週案を提出することによって、指導助言がされ、私の力量が上がり、生徒の学力が上がるのならば提出しますが、その保証はありますか。その説明をしてください」と校長・副校長(教頭)に言ってきましたが、その説明は未だに得られていません。そんなあやふやな事に応じてしまったら、私の「説明責任」が問われます。責任を持って仕事をしたいので、提出を見合わせているのです。

私が「君が代」斉唱の際起立の職務命令に従わないのは、「日の丸・君が代」の歴史や意味も知らせず、考えさせずに指示に従わせることが、教育ではなく調教であり洗脳だと考えるからですが、それはまた、石原教育行政が次々に出してきた、上にあげた施策と一体の教育破壊であると考え、沈黙してはいけないと思うからです。

免職にされなければ、私はあと1年半で退職を迎えます。その時期が迫るにつれて、口はばったい言い方を承知で言えば、おかしいことにおかしいと言い続け行動することが、若い人たちに対して私が残せることだと思うようになってきました。本当のことが言えない社会は戦争の時代。このことは、日本の先の戦争を見ても、現在の他国を見ても明らかです。日本はまだ、ものが言える社会です。人々がものを言い続けることが、ものを言えない社会を招かない一番の道です。みんなで声を出していきませんか?

 私の今後について触れます。
 例年通りですと、今月中に再発防止研修なるものに出席させられます。“自己の意に反しても起立すべき”という気持ちに改心させる、思想改造を目的とした「研修」です。これを拒否すると、また処分されるので、拒否できません。この再発防止研修を経て来春の卒業式で起立をしないと、停職6ヶ月にとどまらず、懲戒免職や「分限事由に該当する可能性がある教職員に関する対応指針」(08年7月15日策定)を使って分限免職にされる危険性があります。
指針には、「研修を受講しない、又は研修を受講したものの研修の成果が上がらない」「職務命令に違反する、職務命令を拒否する」「過去に非違行為を行い、懲戒処分を受けたにもかかわらず、再び非違行為を行」う場合は、分限免職にできると明記されているのです。
 どうぞ皆さま、「『君が代』で処分するな。免職にするな」と声を挙げていただけませんか?

 長々とお読みくださり、ありがとうございました。
人権が保障され、誰もが希望を持ち安心して暮らせる社会の実現と、そのための教育を目指して、皆さんとご一緒に仕事をさせていただきます。

                          2009年10月1日 
                                               根津公子

9月30日(水)

 停職「出勤」最終日は、南大沢学園に「出勤」した。久しぶりにまとまった雨が降ったのではあるが、最終日は晴天であってほしかった。杉本さん、永井さん、高木さんの4人で元同僚たちや生徒たちを迎えた。

「いよいよ復帰ですね。応援しています。先生がんばってくださいね」と車を止めて言って下さる保護者や、「半年間、お疲れ様でした」「引き続きあきる野で働けることになって、よかったね」と言ってくれる元同僚たちのことばに力を得た最終日であった。

末木さん、清水さん、それに中宮さんも来てくれて、雨の中を行き来する子どもたちと触れ合った。皆さん、忙しい合間を縫ってきてくださり、こうした支援に支えられての停職「出勤」であることを、しみじみ、ありがたく思う。

 「どんぐりに来てください」と今朝も言ってくれた生徒の誘いに乗って、みんなで公園のどんぐり喫茶に行った。ここでも保護者に会って、その方から「先生、がんばってくださいね。いつも応援していますから」と励ましをいただいた。

 「下校」をみんなで見送って、最終日の「出勤」を終えた。



9月18日(金)

 あきる野学園に。私より先に長谷川さんがいらしていた。近藤さんからは、欠席の連絡が入っていた。
今朝は、長袖でも肌寒いほど。いよいよ停職も明けると感慨にふけりながら同僚や生徒を迎えた。同僚たちの中にも、「もうすぐですね。待っています」と言ってくれる人が何人もいた。
 午前中、Dさんが取材に来られた。3時近くに、北海道のYさんが立ち寄ってくださった。明日明後日、都心で行われる集まりに参加するために上京されたのだった。貴重な時間を割いて訪問してくださったこと、ありがたい。


9月17日(木)

鶴川二中へ。Nさんは「社会科の授業・続き(5)」を生徒に手渡した。立川二中でも鶴川二中でも、渡されたから受け取るのではなく、チラシをほしくて、前の人がもらうのを待ち、「ください」「ありがとうございます」と言っていく生徒が少数、存在する。受け取りを拒否する生徒がかなりいる中で、この生徒たちは私たちの存在をどんな風に感じ、考えるのだろうか。受け取るも受け取らないも、生徒たちは自分で決める機会を持つ。同じ教室に受け取った人受け取らなかった人がいる現実から、生徒たちは、人の考えが一つではないことを学ぶだろうか。
今日プラカードを見ていかれた通行人は、3人。そのうち、一人(女性)が、にっこりされ、頭を下げられた。別の女性は、「みんながやることをどうしてできないのか。そんな先生には教えてほしくない」と言い、言いたいことを告げると、「あなたの話を聞いてもしようがない」と言い残して去っていった。

以下に、「社会科の授業・続き(5)」を掲載。

「自分で考える」というのはどういうことだろう

 2007年にユニセフ(国連児童基金)が世界の先進国24カ国の15歳の子供たちを調査したなかに「孤独を感じますか」という質問があります。国別にみると「孤独を感じる」と答えた割合が最も多いのは日本で29.8%です。3人に1人が孤独だと感じていることになります。二番目に多いのはアイスランドで10.3%です。それ以外の国はすべて10%以下です。一番少なかったのはオランダで2.9%でした。こういう数字の解釈は難しい点がありますが、日本だけが突出しているのは何かがあると考えざるをえないのではないでしょうか。

 オランダをみるとほかにも見えてくることがあります。WHO(世界保健機構)が41カ国の13歳の子供についておこなった2005、2006年の調査ではオランダは「親になんでも相談する」という子供の割合が上位3位、「生活に満足している」とこたえた子供の割合が1位、「学校が好き」という割合が4位、逆に「学校の勉強がプレッシャーになっている」は40位と下から2番目です。

 孤独感とは何かということも難しい面がありますが、このようなオランダとの比較から「信頼して話し合える相手がいない、世の中で自分の居場所がないような気がする、自分というものに自信がもてず不安な気がする」といったことが考えられます。

 オランダと北欧諸国とよばれている北ヨーロッパの国々(デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド)(どこにあるか地図で確かめてみてください)は日本に比べて貧富の差がはるかに少ないのが特徴です。

 オランダと北欧の国々は高校から大学まで教育費はほぼ無料でフィンランドの大学以外には入学試験はありません。1人ひとりの違いをみとめて、自分で考える力をそだて、個人が持っている能力や才能を社会で生かしていくことを大切にするので入試で人をふるい落としていくことはしないといわれています。

 そして、これらの国々の教育の特徴のひとつは、小学校や中学校のころから社会的な事柄についてよく話し合うことです。オランダでは小学校の授業で社会で起きていることを取り上げて話し合います。デンマークでは今日本で話題になっている「高速道路の無料化」のようなことが環境教育のテーマとして中学生の授業でとりあげられます。スウェーデンの中学校では選挙になると各政党の政策について生徒たちが討論をします。社会で起きることについて子供のころから友だちや家庭で話しあい自分で考え意見を言う習慣が身についていきます。

 一昨年日本では教育基本法が改正されました。一番影響を受けるのはみなさんなので、デンマークであれば、子供たちの討論がおこなわれ、反対となると大規模なデモが行われます。小学生もデモに参加する光景が見られます。子供のころから社会について考え、社会とつながっていると感じている人たちは社会をつくっていくのは自分たちで、社会を自分たちが暮らしやすいように変えていこうという気持ちになります。
このように自分たちは社会とつながっていて自分たちの前に社会が開かれているという感じを持つと、将来に希望も持てず世の中で孤立し、居場所もないという孤独感におちいることは少ないのではないでしょうか。昨年起きた秋葉原の無差別殺人事件の犯人の青年は「誰でもいいからかまってほしかつた」「どうしておれだけ1人なのだろう」と言っています。

 卒業式も日本のように国旗をかざって君が代を歌うことはしません。たとえばスウェーデンのある公立中学の卒業式の光景です。「中学2年生の代表のあいさつ、みんなで考えた歌、楽器の演奏、女子生徒のダンス、校長先生の卒業生を送るあいさつ、最後はスウェーデンの学校で必ず歌われる讃美歌『今、花の季節がやってくる』を全員で歌う」。(先進国で国旗をかざって国家を歌う国はほとんどありません)。

 これらの国々も教育はその国が持つ価値観を生徒に尊重することを求めていますがそれは抽象的な愛国心ではなく1人ひとりの人間を大切にするという価値観であり、国境をこえた多様な文化の中で生活できる能力を身につけること、そのためにも自分で考え、行動する人格を育てていくことを大切にしています。これらの国々もバラ色の社会ではありません。多くの問題をかかえています。しかし、すくなくとも「自分で考えるというのはどういうことか」をみなさんが考えるヒントをあたえてくれるのではないでしょうか。
 それでは「自分で考えるというのはどういうことか」考えてみてください。

9月15日(火)

 あきる野学園に。7時30分、駐車場に着くと私を呼ぶ声がする。「加藤さん!」。群馬の人がこの時間にどうやってここに?私は、狐につままれたよう。今朝思い立って出てきたのだとおっしゃる。加藤さん、そしていつもの近藤さんと3人で同僚や生徒を出迎えた。
 今日は、校外学習で出入りする学年・クラスが多かったので、子どもたちの笑顔や元気な声をもらい続けた。


9月14日(月)>  2時から河原井・根津の06年「君が代」処分取消訴訟控訴審第1回、4時半からは東京教組10人の04、05年「君が代」処分取消訴訟進行協議。


9月11、12日
 北海道教組帯広支部の教研集会に参加した。


9月10日(木)

 立川二中へ。私が校門前に立つと間なしにNさんが見えた。Nさんが「社会科の授業・続き(4)」を生徒に手渡し始めたところに、地域の挨拶隊(=2005年、私が停職1ヶ月にされて校門前に立つようになった数日後から始まった)の一人がやってきて、私たちのところに立った。第二木曜日の担当と言う60代後半に見える女性だ。私たちが挨拶のことばをかけても、今日も無視するような感じ。女性が立ち始めて2〜3分、ふと見ると、女性の手には、Nさんが生徒に手渡したチラシがある。どういうこと?と思って見ていると、女性の横を、チラシを受け取った一人の生徒が通ろうとしたその時、女性は生徒の前に、手を広げて出した。ことばはなくても生徒は、その手にチラシを置いた。

 生徒が過ぎ去ったところで私は女性に言った。「何の権限、誰の判断でチラシを取り上げるのですか?」。女性は、「勉強に関係ないものだから」「私の判断」「悪気はない。ただのおばさんだから、難しいことはわからない。ボランティアをしているだけ」と逃げの一手。「わからなくて取り上げるわけないでしょ。下手な嘘は止めましょうよ。あなたが読ませたくないと思ったから取り上げたのは明らかじゃないですか」と、生徒がいない時に途切れ途切れに言った。そして、「あなたが取り上げた生徒に返してくるべきでしょう」と迫ると、取り上げた2枚のうちの1枚を、その直後に「登校」してきた別の生徒に渡した。「これでいいでしょ?1枚は、私が読みたいから」と持っている。

 「子どもは、いろんな考えがあることを知ったほうがいいのです。知れば、考え、判断します。それが勉強です。あなたのように、あなたの知らせたくないことは、妨害するなんて、していいことではないでしょう」「あなたの行為は、憲法19条、21条違反ですよ」と話したら、その女性、またまた、「ただのおばさんには難しいことはわからない」と逃げた。

 始業のチャイムがなると、その女性、「さ、終わりでいいかな」と独り言を言い、校舎に向かって歩き出した。玄関の中に姿を消したかと思うと、数秒で出てきた。案の定、入るときには手に持っていたチラシはなかった。数秒でしたことははっきりしている。きっと、女性は、正義の仕事をしたと思っているのだろう。チラシは届けなくたって、インターネット上の「停職『出勤』日記」で読めるのに。

 今朝も、自転車で学校前を通る、お孫さんが二中に通われているSさん、卒業生のBさんと声を掛け合った。他に、子ども用いすを前後につけた自転車で出勤される女性が、笑顔で頭を下げられ、「がんばってください」と明るい声でおっしゃって行かれた。初めての方だ。

Nさんが帰られ、一人本を読んでいると、市議のHさんが、気づかない私に、今朝もクラクションを軽く鳴らして、挨拶をしてくださった。

 しばらくして、車が止まり、若い男性が私を見ながらこちらにやってきた。サングラスを取ったその顔は、卒業生のKさん。すぐにわかった。高校を卒業した後、専門学校に行っていて、今日は試験なのだという。大急ぎで近況を伝え合い、「先生がんばって」「Kさん、試験、がんばってきて」と別れた。

 午後にも卒業生が声をかけてくれた。現在高校3年生、顔はわかったが、名前が出てこない。「ごめん」と言って、名前を聞いた。3年生になると選択授業が多く、今日は午前授業。学校帰りにおばあちゃんの家に寄ってきたからここを通ったのだという。「先生、まだがんばっているんだ」と感心された。

 今日は、暑い中を、谷島さん、それになっちゃん(八王子時代の生徒)が来てくれた。

 思いがけず、懐かしい出会いあり、訪ねてくれる人ありで、とっても濃密な、短い一日だった。



9月9日(水)

 南大沢学園特別支援学校へ。私が着くと間なしに高木さんが来てくれて、二人で生徒や教職員を出迎えた。一人の生徒は、いつもの二人がいないことが気になったようで、「杉本さん、永井さんは?」と聞いてきた。「永井さんはお仕事で、今日は来れないの。杉本さんはわからないなあ」と言うと、「わかりました。行って来ます」と答えて、中に入っていった。

 しばらくして、杉本さんがいらして、3人、校外学習に行き来する子どもたちと挨拶を交わした。「登校」時に今朝もAさんが、「喫茶室やっているので、来てください」と誘ってくれたので、昼近くに行き、Aさんに「来させてもらいました」と言って注文をした。Aさんは、うれしそうに頷いた。

 通学バスを見送って、「退勤」した。


9月8日(火)

 あきる野学園に。教育実習生の一団が不思議そうにプラカードを見ながら校門をくぐろうとするので、声をかけた。「あなたたち、このこと知っていますか」。一人が「はい」と言うと、他の人は「君が代で停職6ヶ月、ホントですか?」「給料が出ないんでしょう?ひどいじゃないですか」と、それぞれに言う。 

 教員志望だというこの実習生たちに、「東京が最もひどいのだけれど、今の教育は全国的にこういう方向に進んでいるのよ。自分の目先の利益だけでなく、子どもたちのためにどうすべきかを考えて仕事をする教員になってね」と伝えると、「はい」と素直な返事を返し、中に入っていった。

 今朝は、生徒が3人、かなり長い時間、胸の内を吐露し、元気になって「登校」していった。


9月4日(金)

 あきる野学園に。5分遅刻で7時35分、学校横の道を急いでいると、長谷川さんの姿が目に入った。私に同行してくださるためにいらしたのだった。そして間なしに、近藤さんがいらした。近藤さんは、今朝も自作のチラシを皆さんに手渡した。

 

  現場からの意思表示を明確に               2009.9.4 

             八王子市立第五中学校夜間学級           被処分教員 近藤順一

 あきる野学園の教職員の皆さま

 根津教諭の3度目の停職6ヶ月処分執行も、あと1ヶ月足らずとなりました。先生は、4月から今日まで、校門にて「停職出勤」を続けてきました。私も減給6ヶ月処分中、週1回ですがここにおじゃまして共同行動をとってきました。児童・生徒の皆さんや教職員の方々とあいさつを交わし、時には短い交流がもてたことに感謝しています。根津教諭にとっては、停職中における、貴校教員としての最大限の教育実践という合法的で道理ある行動を続けられてきたと思います。そして、自らどうして停職処分を受けているのか、それが不当であることをはっきり示しています。私たちは自分の身分やおかれている状態を決して隠しません。また、どなたとでも、都教委の方とも、「日の丸・君が代」問題をはじめ東京の教育について話し合う用意があり、望んでいます。

 あと1ヶ月、それ以後も「日の丸・君が代」強制、処分をストップさせる取組にご理解、ご協力をお願いいたします。特に根津教諭に対しては、停職処分明け10月に「服務事故再発防止研修」が「科され」、「分限処分」の恫喝がなされる可能性があります。不当極まりない「分限免職」を決して許さないことを強く訴えます。

 都民の皆さま

この夏の都議選、総選挙において、限定的ではありますが都民、国民の意思表示がなされました。これ以上の生活破壊を認めないというものであり、政治の転換を求める強烈で広範な声でしょう。しかし、選挙の結果は現状に対する意思表示ではありますが、物事を転換させるのは現場の取組、運動です。生活や労働の現場で明確に発言し行動することが特に重要になっています。私たちの「日の丸・君が代」強制反対の行動もその一環です。石原都政10年、「10.23通達」から6年、歴史の歯車はきしみながらゆっくり回ろうとしています。多くの方々とつながりながら一歩一歩進んでまいりたいと考えています。

よろしくご批判ご意見をお寄せください。

 *現在発売中の月刊誌『世界9月号』「ルポ夜間中学からの抵抗」に「停職出勤」のことが取り上げられています。読んでいただければ幸いです。


9月2日(水)

 南大沢学園特別支援学校へ。暑かった昨日と打って変わり、今日は霧雨、気温はかなり低い。

 ここでも、教員たちも保護者も「もう少しで復帰ですね」「政治、少しはよくなるでしょうかねえ」「文部行政の見直しが進むでしょうかねえ」と話しかけてこられた。

一人の生徒は、「裁判どうなりましたか」と聞いてきた。「今のところよい結果は出ていません。裁判はまだずっと続きます」と答えると、「がんばってください。応援しているよ」と告げて、中に入っていった。

一昨年担当した生徒たちとも、久しぶりの挨拶を交わした。バスで登校するDさんは、バスの中から私に向かい、しきりにことばを発しているが聞こえない。

雨の中、校外学習に出入りする生徒たちを見送り、迎えた。


9月1日(火)

 今日から2学期、停職「出勤」を再開した。学期の始まりは、子どもの頃から、わくわくしてきたのだけれど、停職「出勤」であってもその残骸は残っている。それに、あと1ヶ月で復帰!という待ち遠しさも手伝って、やはり気持ちは高揚する。

 「あと1ヶ月ですね」「今朝ごはんを食べながら、あと1ヶ月だなあって、思っていたんですよ」ということばとともに、衆議院選挙から2日の今日は、「政権が変わって、まずはよかった」「これで風向きが変わるといいですね」が同僚たちの挨拶代わりだった。数歩通り過ぎて戻り、「飴でもどうぞ」と差し入れてくれた人もいた。

 生徒のAさんは、「2学期が始まって、うれしい?」と聞くと、「うれしいです!」と、Bさんは、「あと1ヶ月したら、中に行くよ。また、一緒にやろうね」と言うと、「うん!」と元気な返事を返してくれた。Cさんは、夏休み中のことをいろいろ報告してくれた。

 バスの運転手さん、乗務員の方々とも久しぶりの歓談。やはり話題の中心は、政権交代について。「あとは、石原都知事を辞めさせたいですね」となる。

 今日は午前中授業なので、私も生徒たちの「下校」を見送って、早々に「退勤」した。


7月21日(火)

今春の「君が代」被処分教員6人(退職者と河原井・根津を除く)に対する再発防止研修=転向強要攻撃が強行され、その抗議と受講該当者の支援行動に参加した。

今回の再発防止研修では、「分限」ということばが何度も使われたそうだ。職務命令違反による懲戒処分だけでなく、分限処分(降格、休職、免職)を使いたい、使うぞ!という都教委の意思の表れであろう。

また、「研修」中に受講者が質問をしたことに対し、同伴した一人の校長が「そんなこと(質問)無視して進行しろ」と不規則発言をし、それに対し、主催者は同意したという。この事態は、再発防止研修が研修ではなく、拷問であることを示す。力でねじ伏せようとしてもそれが不可能なことを都教委は悟れないのか。7月14日(火)

 あきる野学園に。松山大学教員の大内さんがいらして、出勤する職員に手紙を手渡し、私と一緒に生徒たちを迎えた。大内さんの訪問に応えて10数人の人が集まったので、「登校」が終わったところで隣の公園に移って、交流をした。たまたま福岡から裁判で上京された0さん、0さんが帰りの飛行機までの限られた時間を使ってきてくださり、輪に入っていただいた。交流と昼食で瞬く間に時間は過ぎた。

 みんなが帰った午後は、大内さんと私の二人、校門前に移動し座っていつものように過ごした。


7月17日(金)

 夜中から大雨。その雨も、あきる野学園に「出勤」したころには小降りになり、しばらくしたら上がり、気温は上がらず過ごしやすい一日だった。今日は1学期最後の日、「お疲れ様でした」という気持ちで朝の挨拶を交わした。同僚の一人が「裁判費用にしてください。ボーナスが出ましたから」と、カンパを差し出してくださった。うれしかった!!跳びあがりたいほどうれしかった。

 今日は、近藤さんの他に、Hさん、高校の教員だったFさんが来てくださった。

 夜は渡辺厚子さんの「停職3ヶ月」報告集会に参加した。


7月16日(木)

 1ヶ月ぶりの鶴川二中。今朝も雲一つなく、暑い。

Nさんが来てくれて、「社会科の授業・続き(4)」を生徒に手渡した。「受け取ってはいけない」と言われたのか、あるいは、そう思わされるような状態にあったのか、差し出すチラシを避けて通る生徒が目立った。「先生がいなかったら、もらったのに」と友だちに言いながら通過する生徒もいた。その教員たちと私がにこやかに一言二言おしゃべりしているのにである。もちろん、「ありがとうございます」「ください」と言って受け取っていく生徒もいて、生徒たちはそれぞれに「社会」を体験し、学んでいる。

 一人佇んでいると、バイクがとまった。その女性はプラカードを読まれ、私のほうを向いて、「同じ気持ちです」とおっしゃった。「お気持ちを伝えてくださって、ありがとうございます」と答えると、女性はにっこりされ、アクセルを踏み、去っていかれた。

 またしばらくして、今度は7人乗りワゴン車が私の前で速度を緩めた。顔を上げると、中の人たちが皆プラカードを見ている。中でどんな会話がされたのだろうか、数秒で走り去っていった。

 今日もアスファルトから照り返す熱に耐えることは止め、お昼で切り上げた。


7月15日(水)

 南大沢学園特別支援学校へ。梅雨が明け、真っ青な空。朝からじりじりと日が照りつける。じっとしていても汗が噴出す。くらくらするような感じだ。Nさんと二人、校門から7〜8メートル離れた校舎でできる日影に入り、バスの到着に合わせて校門前に移動し、挨拶を交わした。「暑いですね!」が今日の挨拶。

 「こんにちは。根津さんでしょう?」と声をかけられた。南大沢の駅近くにお住まいで、拙著「希望は生徒」を読んでくださっているとのこと。Tさんを支援されている方だった。今朝のウォーキングはたまたまこちらまで足を伸ばしたのだということだった。

 今朝も私が着いて10数分後には、副校長席の後のカーテンが閉じられた。スクールバスの方が、「先生(根津)が来る日だけ、閉めてるよ。何だかな」とおっしゃっていた。

 午前中、耐震車が来て、学部ごとに体験学習をしている様子。それを校門の外から、興奮した子どもたちの声につられて何度か覗いた。

 「下校」時刻までいようと思っていたが、熱中症になるのを恐れて、午後は早めに切り上げた。やはり、今年一番の暑さだったとか。


7月10日(金)

 朝から蒸し暑い。何人もの同僚たちが挨拶に、「暑いから気をつけて!」とことばを添えてくれた。いつものように、近藤さんと出勤・「登校」する人たちを迎えた。

 近藤さんが帰ってからは、スクールバスの人たちとおしゃべりをしたり、校外学習で出入りする生徒たちを見送り、出迎えていつものように過ごした。

交流学習で来校した地域の小学校の子どもたちに行きも帰りも声をかけたら、帰りには、「楽しかったです」「ありがとうございました」と言ってくれた。一人の子どもは、「何をしているんですか」と私に聞き、しかし、流れを止めるわけには行かず、歩を進めていく。私は、「先生に聞いてみて」と答えた。

 午後、千葉のNさん、群馬のKさんが来てくださった。

 朝は蒸し暑かったが、日中はさほど気温は上がらず、昨日よりずっと過ごしやすかった。


7月9日(木)

 立川二中に。7時40分、私が着くとすでに挨拶隊の女性が立っていられた。挨拶のことばをかけたが、この方は聞こえなかったかのよう。やや遅れてもう一人年配の女性が来られ、この方にも挨拶をしたが、やはり同じく応答なし。4月に「出勤」した時も、この方々はそうだった。そしてこの方々は今朝も、車を止め横断する生徒たちに、「渡りなさい」と指示を発す。4月にはそれを断る生徒が一人いたが、今日は皆応じていた。

 Nさんが「社会科の授業・続き(3)」(先月鶴川で手渡したもの)を生徒たちに手渡した。「受け取ってはいけないもの」と思わされている生徒たちがかなりいる。でも、友だちと読みながら、また、「この前のと違う」と言いながら校舎に向かう生徒もいる。「ありがとうございます」と言って受け取る生徒もいる。社会の縮図を見る思いだ。

 Nさんが帰られ、読書を始めたが日傘1本では暑さから逃れられない。暑さで頭ももうろうとして来る。本を閉じ、ぼーっつと行き来する車を見るでもなく、眺めていた。そんな時に、お子さんの忘れ物を届けに来られた保護者だろうか、そのようなものを手にした方がプラカードをご覧になり、私に丁寧におじぎをして入って行かれた。あわてて、私も挨拶を返した。

 しばらくして、やや速度を落とし、クラクションを軽快に鳴らして車が私の前を通り過ぎた。うん??ああ、あの方だ。時計を見ると、10時。やっぱり、大学で教えるあの方に間違いない。気づいて手を大きく振った。バックミラーから見えただろうか。

 またしばらくして、「邪魔だ、退け、ばかやろう」と怒鳴って、40面の男が自転車で通り過ぎた。「そういう言い方はないでしょう」と感情を抑えて返すと、その男は「うるせえ、ばか」と言いながら去っていった。

 不快さが消えないところに、Nちゃんが来てくれた。留学から帰って、1年ぶりの対面。留学先で撮った写真を見せてもらい、話を聞いた。昼食に持ってきたパンを、Nちゃんと半分ずつ食べたけれど、かえって空腹の胃袋を刺激してしまった状態になった。それに暑くてたまらない。そこで、Sさんに電話をし、パンと冷たいものを差し入れてくれるよう頼んだ。近くに友人が住んでいて、SOSを発することができるのはありがたい。すぐに持ってきてくれた。熱い体に、シャーベットのおいしかったこと!

 今日は最後までいる予定であったが、5時間目が終わったところで、熱射病になったらいけないからと引き上げることにした。片付け始めたところに、生徒たちが「下校」してきた。数人が連れ添って出てきて、一人が「ぼくも『君が代』歌いたくない」と私に向かって言う。「だりい(だるい)」のだという。「君が代」の意味は「知らない」とも。「どんな意味なのか、調べたり、担任の先生に聞いたりしたらいいと思うよ」と返すと、「うん」と言い、帰っていった。今日は2年生の保護者会で、2年生は5時間授業だったのだそうだ。

 最後にしまうつもりで立てかけておいたプラカードを、通りかかった女性がご覧になって、「まったくひどいですね。がんばってください」とおっしゃり、頭を下げていかれた。


7月8日(水)

 朝だけ南大沢学園特別支援校に3週間ぶりの「出勤」。到着した時には寄せてあった副校長席後のカーテンが、5分後には窓1枚分、閉められた。

一緒に仕事をした人たちと、「お久しぶり」と挨拶を交わした。今朝もBさん、Cさん、Dさん、担当した生徒たちとことばを交わして、エネルギーをもらった。

 お孫さんの「登校」に同行して来られる方が帰りがけに、「大変ですね。嫌な世の中になりましたよ」と話しかけてこられた。4月初めにも話し込んでいかれた方だ。「日本人は針が右へ行けば、皆、右に行ってしまう。自分で考えようとしない。それが最も困ったこと。そして、だから石原のような独裁者を好むのだ」とおっしゃる。「まったく、そうだと思います」と私。

 7時半に着いた時から「登校」時間まで、私が気づいただけでも5回、パトカーがゆっくり、何かを偵察するようなゆっくりさで通った。

 今朝もSさんが来てくださった。Mさんが迎えに来てくれて、ニュースの発送作業に向かった。


7月7日(火)

 あきる野学園に。

 これまで挨拶は交わしていたが、それ以上の話しになることはなかった一人のスクールバスの方が、「がんばってくださいよ、がんばって!」と言ってくださった。話はそれだけだったけれど、そう見ていてくださったことがはじめてわかった。

 今朝は生徒の中にも、はじめて尋ねてきた生徒がいた。高等部のAさん、挨拶を交わした後、「根津先生、何しているの?」と言う。ずっと不思議だったのだという。処分について説明をすると、「学校へ来てはいけないって、ひどくない?!」と言う。やり取りの中で、「私は天皇だけが偉いのではなく、誰もが大事にされるべきと思っているの。Aさんも私もね。天皇は偉い人と称える歌は歌いたくない。それも立たない理由なの」と話した。Aさん、「そうか」と言い、続けて「困った時には相談して、私、相談に乗るから」と私を気遣ったことばを出して、中に入っていった。3ヶ月かかって彼女の疑問は解決したのかな。

 犬を連れた男性が通りかかりプラカードをご覧になって、「東京都がしてるんですね」と確認された後、「がんばってください」とおっしゃって通られた。

 朝から校外学習に出ていた小学部低学年の子どもたちが昼近くに戻ってきた。口々に「ただいま」「楽しかった」「あつーい」と挨拶してくれる。ちょっとした会話だけれど、気持ちがほんわかしてくる。


6月25日(金)

あきる野学園に。出勤してくる同僚たちには、昨日都庁前で配ったと同じチラシを手渡した。

 今日は近藤さんとHさんが来てくださった。Hさんは、終日同行してくださった。自転車に乗った女性が自転車を止め、話しかけてこられた。ご近所にお住まいのBさんで、私の発言を以前聞いたとおっしゃる。


6月24日(木)

朝は都庁前でチラシ配り。午後は、多摩中控訴審判決。

都教委の主張をそのまま書き写したごとくの地裁判決を踏襲し、さらに都教さえはっきり主張していないことまで加えた。

「学習指導要領には『家庭や家族の基本的な機能を知り、家族関係をよりよくする方法を考えること』『幼児の生活に関心を持ち、課題をもって幼児の生活に役立つものをつくることができること』などが授業内容とされているものについて、(根津は)男女共生のみ、7時間の授業を行ったものであり、学習指導要領に反するものということができる」と。


6月23日(火)

 あきる野学園に午前中だけ。

 学校に入られようとする女性がプラカードを見て、「どういうことですか」と声をかけてこられた。説明をすると、「私も君が代は嫌いです。強制するなど、おかしいですよね」とおっしゃる。初めて出会った保護者だった。「うちの子どもが起立しなかったら、あるいは、君が代は嫌だと言ったら、校長先生や先生たちは、変な目で見るのかしら?子どもに被害がいくのかしら」ともおっしゃる。私は、東京中の、校長も含め教員たちの多くは起立はしているけれど、「君が代」の強制と処分に反対の気持ちを持っていることを伝えた。そして、「教員がもの言えなくなった学校で、子どもが大事にされないのは必然。だから私は起立しないんですよ」と伝えた。

 しばらくして、再び、その保護者の方は私の前に来られ、福祉切捨ての石原都政や身の回りのことについて話をしていかれた。

 Aさんが、冷えたさくらんぼを差し入れてくださった。口に入れると、甘酸っぱさと冷たさが広がり、とってもおいしかった。今年初めてのさくらんぼだった。


6月22日(月)

 疋田哲也さんの分限免職取消裁判を傍聴した。小平5中当時の校長、教頭、都教委管理主事に対する尋問だった。

疋田さんを小平市教委研修(研修センター)に送ったことについて。校長は、疋田さんが毎日午前午後に送った報告書を「一切見ていない」と言った。その時は、あれっ?いったいどういうこと?と思っていたら、管理主事に裁判長が聞いたことではっきりした。研修成果など、校長たちには関係のないことであったのだ。

裁判長が「研修期間は04年3月までとなっていたのに、分限免職は2月。分限免職を決定するのは、研修結果を見てからでよかったのではないか」「そうしないと研修の意味がなくなってしまうのではないか」「要望書には3月まで教壇に立たせないでほしいとあり、しかし、その要望には反対の保護者もいたのだから、3月で転任という方法もあったのではないか」と聞いたところ、管理主事は、「現場からはずすために研修センターに送ったのだから、成果を見る必要はなかった。分限免職にしてよかった」と言った。

校長・市教委・都教委は、「教壇に立たせないでほしい」という「要望書」を保護者から受け取り、それに沿って疋田さんを研修センターに送ったわけだが、「要望書」を提出した保護者からは事情を一切聞いていないことも明らかになった。

 疋田さんに対し、研修の成果を期待してではなく、分限免職にすることを目的として研修センターに送った。研修センターに送るために、「要望書」が必要だった。保護者の「要望書」は利用の対象でしかなかったのだ。

 疋田さんの分限の理由に体罰もある。疋田さんには、体罰をこれ幸いとばかりに分限の理由とすべく、報告を市教委に挙げたのに、同じ時期、この学校では他にも体罰があり、その生徒は鼓膜損傷したにもかかわらず、その件については報告を挙げていなかった。校長は、「市教委へ報告を挙げるのを忘れた」と見え透いた嘘を言ったが、校長は体罰には鈍感であり、疋田さんの件については、分限の理由にすべく使ったのは明らか。

体罰はあってはならない。「校内暴力」が激しかった頃、「体を張って生徒を抑える」「愛のムチ」ということが中学校では堂々とまかり通っていた。そうした教員と私は激しく対立した記憶がいくつもある。しかし文部省が通知を出し動き出し、体罰が懲戒処分の対象となると、体罰は少なくなっていったが、体罰を使った「指導」について反省を表明した機関や個人はない。疋田さんも体罰を体罰と認識できない環境にあったように思う。研修センターに送られ、研修を受ける中で彼は反省し、現在はDCI「子どもの権利のための国連NGO」の会員だという。

疋田さんが過去のことを消すことのできない事実として、受け止め続けていかなければならない、と私は思う。しかし、だからと言って、分限免職しかたなしとは思わない。体罰を繰り返しておとがめなしに校長や副校長になった人が大勢いる。体罰を指摘した私に口論を吹っかけ、対立したかつての同僚もその例外ではない。そういう人たちがいる一方で、疋田さんにはそれが分限の理由に使われる。恣意的、不公平である。不公平な扱いに黙ってはいけない。それは支援しなければと思うのである。

分限理由とされた体罰を受けたとされる「A君」(処分の理由書に「A君」と記載されているという)が「疋田先生にお世話になった。私が処分の理由にされたと聞いて、今日来た」と傍聴していたことから見ると、「A君」事件は分限の対象から外すべきではないかと思った。

「私物」を理科室・理科準備室に置いたことが分限理由に挙げられていることにも首を傾げるが、その「私物」を何度も写真撮影し、証拠にした教頭(現校長)は、「平成14年15年と変わらず、(今も)疋田さんには反省がない。免職処分は適切だったと思う」と平然と言った。

細かいやり取りについては、事情がわかっていないので、理解できなかったり、聞き逃したりもしているが、3人とも、いくつも嘘を言い、疋田さん代理人から指摘をされ、証拠を突きつけられると、やっと認めるという具合。この人たちには、一人の人間を免職に追い込んだことのためらいは、みじんも持ち合わせないのだろう。「職務」で片付くのだろう。

都教委にとって目障り、消したいと思う人については、どんな手段でも使うことを、私は2001年から1年にわたって受けた多摩中での攻撃で体験済み。「要望書」が使われたのは、私もまったく同じ。やっぱり、と何度も思いながら、3人の悪意に満ち満ちた証言を聞いた。

疋田さんが都教委の計画通り分限免職にされ、私が都教委の読みどおりにならなかったのは、攻撃が始まってすぐさま声を挙げたか挙げなかったかの違いだと思う。声を挙げたことに、大勢の人が応え、動いてくださったから、私は指導力不足等教員にされず、分限免職にされなかったのだと思う。

今からでも大勢の関心が集まることが大事。


6月19日(金)

 あきる野学園に。今朝もAさん、Bさんは、「がんばってください」と言って中に入っていった。悩みを打ち明けるCさんには、適切なアドバイスができず、聞いてあげるだけ。もどかしい。

いつものように近藤さんも「出勤」。近藤さんと入れ替えに、谷口和憲さんがご自身発行の新刊「戦争と性」を持って、来てくださった。

午後、家に立ち寄り、目黒の「あきらめない」の上映会に向かった。


6月18日(木)

鶴川二中へ。Nさんは社会科の授業・続き(3)を生徒に手渡した。手を出し「ありがとうございます」と言って受け取る生徒、周りの様子を見ながら手を出す生徒や出した手を引っ込める生徒など、いろいろ。前2回を読んでいるらしく、「今日のも北朝鮮だ」と叫ぶ生徒もいた。

生徒たちに挨拶をしているところに通りかかった男性が、「停職6ヶ月、いいなあ」と言った。「どうしてですか」と問うと、「クビになって当たり前だよ」とはき捨てるように言い、そのまま去っていった。

立て続けに保護者らしき人が数人、学校の中に入っていかれたので、PTAの会議なのかなと勝手に想像しながら挨拶のことばをかけた。挨拶しても無視する人、顔をそむける人がいる。また、保護者の方から先に声をかけてくれる人もいる。こちらもいろいろ。でも、プラカードを立てて座っている私が何者かは、皆さん、ご存じのようだった。

 今日もお二人の方と出会った。お一人は、バイクを止めてプラカードを見ていられるので、「これは私です」と声をかけた。私と同年代の女性。「同じです、思いは。がんばってください」とにっこりされた。

もうお一人は、犬を連れたたぶん40代の女性が「どういうことですか」と聞いてこられた。起立をしない私の気持ちを話すと、「その気持ちは理解できます」「でも、愛国心を持つことによって、他の国の人たちにやさしくできるのではないでしょうか」とおっしゃる。海外生活が長かったとのこと。

「私も生まれた日本が好き。でも、『愛国心』と叫ぶ時、用心しなければいけないと思う。為政者が『愛国心』を強調する時は、戦争に向かい、ある国を憎ませるときではないのか、『愛国心』を叫ぶ為政者を愛せよということで、国民を大事にするのではないのではないのか」と言うと、「そういう見方があるんですね。それもわかります」とおっしゃる。

「どんな子どもに育てたいか」と聞かれ、「日本の子どもは、小学校に入学した時から、『先生、これやっていい』『これはやってはいけないの』と聞く。指示を仰ぐことを幼い頃から身に付けてしまっている。あるいは、『みんな一緒』と同じことを強制される。指示や強制で動かされるのは、不幸だと思います。自分の頭で考え、行動できる人になってほしいと思います。また、社会がそうなることも、食い止めたいと思います。『日の丸・君が代』の強制に反対する大きな理由がここにあります」と言うと、

「日本の学校がみんな同じことをさせるのは、私もおかしいと思います。うちの子どもが、休み時間にみんなで一緒にボール遊びをしないというので、先生から注意を受けたことがあります。変ですよね」と言われ、不起立することの意味をかなり理解してくださった。こういう出会いがとってもうれしい。

 学区にお住まいのMさんからは、「行くつもりでいたのに、用事ができてしまって。心の中での応援だけれど」と電話があり、Kさんは、用事を済ませた足で立ち寄ってくださった。

 午後は、多摩中事件控訴審が突如延期になり、傍聴してくださる方にその連絡が届けきれず、裁判所に行った。時間が許したので、「君が代」不起立に伴う嘱託不採用の裁判を傍聴し、まだ、時間もあったので、wam「女たちの戦争と平和資料館」を訪ねた。

Nさんが生徒たちに手渡した「社会科の授業・続き(3)」は、以下の通り。

社会科の授業・続き(3) 

核兵器の廃絶について考えよう

4月5日アメリカのオバマ(Obama)大統領が世界から核兵器(nuclear weapons)をなくすことに取り組むと宣言したのを知っていますか。一方、世界には、核兵器があるからお互いに怖くて戦争を起こさないのだ。核兵器は戦争の「抑止力」(抑える力)になっているから必要なのだという考えがあります。日本政府もこの考えに立っています。2006年に北朝鮮が核実験を行ってから、日本の国会議員のなかに日本は独自に核兵器の開発をすることも検討すべきだと口にするような人たちがでてきています。「一人ひとりの命はかけがえのないものだ」と誰もが言います。それなのに一度に10万人以上を殺すことができる兵器を開発しようという政治家たちの発言をあなたはどう思いますか。

 核兵器開発の歴史は、アメリカがまず原爆を開発、投下し、対抗してソ連も原爆を開発、あとはお互いに相手から悪意を読み取り、脅威を誇大に言いふらし威嚇(いかく)しあい、「抑止力」を口実に軍部と兵器産業が主導して際限のない核兵器開発競争を繰り広げてきたのが実態です。現在アメリカとロシアが保有している核兵器だけで地球上のすべての人を十回以上も殺せるといわれています。わたくしたちは「抑止力」どころか、誤った情報や誤作動による核弾頭ミサイルの発射がひきおこす核戦争の恐怖にさらされているのです。

核の「抑止力」が戦争を防いできたという証拠はなにもありません。第二次世界大戦終了から現在までアメリカとロシア(ソ連)の間で戦争が起きなかったのは、軍部が核兵器の使用を主張したことは何度かありましたが、現実に相手を攻撃しなければならないほどの対立までにはならなかったこと、世界中に核兵器反対運動が広がったこと、そして両国の指導者の対話も継続されたことなどによるものです。

ところで、日中戦争のさなか1939年から43年にかけて日本軍は中国・四川省(シセンショウ)の都市、重慶(ジュウケイ)に大爆撃をおこないました。つづいてヨーロッパで第二次世界大戦が激しくなると、アメリカ、イギリス空軍がドイツの都市を無差別爆撃しはじめました。ドイツの「京都」といわれるドレスデンは東部戦線からの避難民であふれていましたが米英空軍の徹底した爆撃で破壊しつくされました。

もともとはアメリカの戦争指導者のあいだには民間人を殺すことに強い抵抗感があったのですが、戦争が激しくなるとそういう人間的な感情は失われていきました。戦争は「徹底した破壊そのもの」が目的となっていったのです。さらに1945年アメリカ軍は日本の都市に、焼夷弾(しょういだん)を使った無差別爆撃をはじめました。3月10日の東京大空襲については、皆さん知っての通り、東京は焼け野原になりました。ドレスデンと東京大空襲の際のアメリカ陸軍航空隊の司令官カーチス・ルメイ少将は次のように語っています「日本には民間人などいない。いるのは敵だけだ」。 

女性も子供も老人もいるのは「敵」だけで、「破壊そのもの」が目的となったとき、行き着いた先が「原爆」。人間がこえてはいけない「一線」をこえたのです。

人間を「敵と味方」にしか区分しない考えは差別や偏見を生みだし、やがて戦争を引き起こします。こうも言えます。「愛国心」を持ち、敵をにくむことが、戦争をするために必要なことであると。それは、どの時代、どの国でも同じです。

最後に、昨年中国の四川省で起きた大地震で日本政府が自衛隊機で援助物資を輸送しようとしたことを知っていますか?中国側から翼に「日の丸」のついた自衛隊機は受け入れられないと断られました。日本軍が侵略し、殺した中国の人たちのことを日本政府は忘れたのでしょうか。重慶大爆撃の被害者たちが日本政府に補償をもとめていま東京で裁判を起こしています。

核兵器のない社会はこれから生きていくみなさん自身が考えて作っていくものです。


6月17日(水)

南大沢学園に。南大沢に行く水曜日は、今日も一時にわか雨が降ったものの、予報が外れて晴れ。保護者のお二人から、「暑いですから、気をつけてくださいね」と声をかけられた。朝はSさん、Nさんが、午後からはSiさん”、Niさんが来てくださった。

 一人でいた時間、持参したニュースレター類を読んでいると、掃除用具を持った高等部の生徒が、「暑くて大変ですね」と声をかけてくれた。「あなたたちも暑いのに、お疲れ様です」と言うと、「大丈夫です。体力あるから」。「そうよね、若いものね!」と言うと、「はい!!」。

その時読んだものの中に、「登校・下校ということばは、登城、下城の類。学校が『お上』のものであった」ことから生まれたことば、とあった(「たみがよ通信」第7号)。納得。知った以上は使いたくない。何ということばを使ったらいいんだろう。中学生の頃私は朝校門までの坂を上りながら、学校はたいてい小高いところにあるから登校・下校というのかと、思っていた。そんなことを、ふと思い出した。

朝、「喫茶に来てください」と必ずアピールしていく生徒に、行く約束をしていたので、10時過ぎ一人で行き、屋根の下で涼み、アイスコーヒーでのどを潤した。


6月13日(土)

解雇をさせない会の2009総会と講演「抵抗の灯は消せない! 新たな『皇民化教育』にどう立ち向かうか?」を開催。講演は、山田昭次さんの「関東大震災時の朝鮮人虐殺と秋田雨雀」。自警団に参加し、朝鮮人虐殺に加わっていった当時の人たちの、進んで国家のために身を捧げるように手なづけられた国民意識について指摘した秋田について。

「お前のやったすべてのことはおまえの身になって帰ってくるのを知らないのか?/お前の敵はお前の迷信の中に巣くっているのを知らないのか? 

市民よ!/制服と屈従と野蛮と無反省を美徳として教えたのは誰だ

市民よ!/お前の敵は果たして誰かよく見よ!/お前は何を血迷っているのだ?」

自身の中に巣くう迷信あるいは世間と向き合うこと、これは今日的問題、今の私たちの問題だ。

 続いて、昨年、今年の「君が代」不起立教員であるDさん、Eさん、近藤順一さんが思いを語られた。Dさんは生徒との関係性の中で、「生徒に嘘はつけない」とおっしゃる。Eさんは、不起立は団塊の世代がいなくなってからと先延ばしにしてきたが、今年「主任教諭」が導入され、学校がいよいよめちゃめちゃにされる中、処分を受ける不起立を選択されたとおっしゃる。お二人の話を伺うのは、初めて。とっても共感した。

 名古屋の小野政美さんから、当地で集会をするので「気持ちで参加。気持ちは参加」と電話があり、メッセージをいただいた。私(たち)を支えてくれる。

以下、一部割愛して掲載する。

ひるまず、あきらめず、しなやかに

〜「河原井さん根津さんらの「君が代」解雇をさせない会」2009総会へのアピール〜

2009.6.13 小野 政美(愛知・小学校・「再任用」教員)

思想・信条・良心の自由を蹂躙する「日の丸・君が代」強制に反対する人々がいる

「日の丸・君が代」で処分された全国の人々がいる

そして、日本社会で自由と平等の抑圧に抵抗する人々がいる

それらの人々をつなぎ、さまざまな場で、

あきらめず、ひるまず、しなやかに、多彩に闘い続ける人々がいる

それらの多くの人々に、闘う勇気と確信を送るかけがえのない闘いがある。

それが、根津さん河原井さんを解雇させないという闘い。

合い言葉は、二人の著書。

河原井純子『学校は雑木林』

根津公子『希望は生徒』

2008年3月31日の雨の朝、

東京・八王子・南大沢学園養護学校前の光景を僕は忘れない

「やったぞ〜!」「勝ったぞ〜!」「この雨は天のうれし涙だあ!」

予想に反しての都教委の処分内容に、思わず泣き叫んでいた僕たち。

誰彼と言わず泣きじゃくり、抱き合って喜び合ったあの雨の朝の南大沢学園養護学校校門前。

そして、1年後、

2009年3月31日、水道橋、東京都研修センター前での処分発令の日のこと。

2008年3月31日の雨の朝、

僕は、マイクで叫んでいた。

「全国の人々に伝えます。

都教委は、根津さんを免職にすることが出来ませんでした。

根津さんは、都教委に勝ちました。

『君が代』不服従・不起立の闘いは、今日から新しい段階に入りました。

『勝って兜の緒を締めよ』の言葉通り、

気を許さず、粘り強く闘い続けていきましょう」

「君が代」斉唱時の不起立での6か月停職は、決して喜ぶべきことではない。

都教委が宣言予告していたように、誰もがそう思いこんでいたように、

根津さんへの停職6か月処分の次に来るのは免職しかない、

僕もまた、そう思いこんでいた。

だが、根津さんだけを他の処分者と分離し、

勤務先養護学校に出向いて処分発令するという姑息な手段を弄した都教委をしてもなお、根津さんを「みせしめ免職」にできなかった。

なぜ都教委は根津さんを免職に出来なかったのか。

それは、何よりも、「君が代」不起立で、

子どもたちの人権と教員の教育の自由・思想良心の自由を守り抜くために、

「不起立」という表現手段で抵抗する教員を免職する根拠がどこにもないことである。

同時に、全国各地で、そして、幾つかの外国から、

根津さんへの「君が代」免職を許すな!と、

電話・FAX・メール・署名という方法で、

あるいは、僕も何回か同行した、都教委への出向いての連日の要請で、

あるいは、集会や学習会で、

あるいは、裁判の傍聴で、

あるいは、「『君が代』不起立」や「あきらめない」の映画会で、

新聞への意見広告で・・・、

根津さん河原井さんの不服従・抵抗・闘いに連帯・支援する、

文字通り草の根からの多くの良心的な人びとによる、

多様で多彩な活動があったからに違いない。

もしも、

根津さんが、河原井さんが、

子どもたちとともに生きる現場で、

自分の生きている存在のすべてを賭けた不屈の抵抗・闘いを続けなかったとしたら・・・、根津さん河原井さんの抵抗・闘いに、誰も連帯・支援の行動を起こさなかったとしたら・・・、もしも、連帯・支援の行動が、大きなうねりのように広がらなかったら・・・、

大方の予想通り、都教委の処分は、

根津さん免職しかなかったであろう。

「(03年)10.23通達」以来、

423名の処分(2009.5.29現在)を発令し続けてきた都教委をして、

根津さん河原井さんを免職解雇することは出来なかった。

小学校現場勤務31年間、

ささやかに、「君が代・日の丸」不服従の抵抗を続けて来た。

根津さん河原井さんの不服従・不起立に連帯することはもちろんとして、

僕の出来る、僕が当然しなければならない、

支援というより、根津さんとの連帯のささやかな行動。

根津さんの笑顔を見ながら記憶の底から甦ってきたことがある。

数年前から、僕が、幾度となく語ったり、アピールしてきたことでもあるが、

根津さんの不服従の戦いの中で、

旧日本軍性奴隷(旧日本軍「慰安婦」)にされた韓国のハルモニたちの戦いが

想起されるということである。

1990年、日本政府の「『慰安婦』はいなかった」という発言に対して、

韓国の金学順(キムハクスン)ハルモニが、韓国挺対協の呼び掛けに応えて、

「私は、旧日本軍の『慰安婦』だった」と勇気ある名乗りを挙げた。

そして、1991年、いまは亡き姜徳景(カンドッキョン)ハルモニ、金順徳(キムスンドク)ハルモニ、いまも戦い続ける李ヨンスハルモニ・・・と続いた。

日本政府の公式謝罪と個人賠償を命を賭けて戦い続けたそのハルモニたち被害女性の多くが既に亡くなり、

韓国では生存者は93名、台湾では18名しか残っていない。

91年以来、ささやかな支援の運動の中で、

韓国で、日本で、『ナヌムの家』で、

姜徳景ハルモニや金順徳ハルモニたちに息子のように、僕は、優しくしてもらった。

もしも、彼女たちの辛く厳しい戦いが無かったとしたら、

女性への暴力を許さない戦いは、これほどの高揚を迎えることは無かったに違いない。

しかし、ハルモニたちは、韓国でも、日本でも、運動の中でさえ、

孤立した厳しい戦いをするしかなかった時が幾度となくあった。

彼女たちと長年にわたって同行する機会があった僕には、ただ、

一緒に涙し、辛い時間を過ごすしかなかったときが何度もあったことだけは確かである。

根津公子さん河原井純子さんの戦いは、

まさに、日本における、「良心の自由」の戦いのなかで、

女性への性暴力との戦いにおけるハルモニたちの戦いを想起させるものである

と言っても過言ではないだろう。

少なくとも僕はそう思って、

長い間、根津さん河原井さんと戦いの戦列をともにしてきたつもりである。

そして、もうひとつ、2008年3月31日の朝、

予期せぬ、根津さんの、2度目ながらも、

6か月停職という「勝利」への満面の笑顔を見ながら、

私は、10か月前、2007年5月27日に京都で開催された全国集会のことを思い出していた。

実行委員会・事務局として、集会アピールの準備が出来ていなかったので、

前日、根津さん河原井さんとも相談し、

集会当日の実行委員会会議で、集会アピールを行うことを提案し、

その会議で、実行委員会と呼びかけ人の名において、

急遽、僕が原稿なし、文案なしで、「5.27全国集会アピール」を行うことになった。

  (中略:「5.27全国集会アピール」について)

根津さん、河原井さんたちに繋がる連帯・支援の戦いの列に加わる

多くの仲間たちとともに、

僕の好きな二人の不服従の思想家、

魯迅とベンヤミンの言葉を噛みしめたい。

「思うに希望とは、もともとあるともいえぬし、ないともいえない。

それは地上の道のようなものである。

もともと地上に道はない。

歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」     

魯迅『故郷』(1921.5)<竹内好訳>  

「夜の闇のなかを歩みとおすとき、

助けになるのは、

橋でも、翼でもなく、友の足音だ」

ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミンの生涯』(野村修訳・平凡社)


6月12日(金)

あきる野学園に。近藤さんももちろん「出勤」。校門前の桜の木がつけていたさくらんぼが熟れた色合いになった。4月終わりからずっと目をつけていた。長身のCさんに取ってもらって食味した。渋味や苦味が強いが、甘さはあった。確かにさくらんぼの味がした。登校して来た何人かの生徒にも見せすすめたが、食用ではないと知って彼らは遠慮した。

午前中の少しの間、校外学習の子どもたちを見送り、出迎え、所用のため10時「退勤」した。


6月11日(木)

立川二中へ。昨夜からの雨が昼近くまで続く。今日入梅宣言したとのこと。

Nさんは「社会科の授業・続き(2)」(先月鶴川二中で配られたベルリンオリンピックでの孫選手の日章旗抹殺について)を生徒たちに手渡された。「ありがとうございます」という生徒も、手を出さない生徒も、いろいろ。地域の挨拶隊の方は、今朝はお一人。

 今朝も卒業生のBさんが自転車で通り、挨拶を交わした。Kさんが仕事の前に立ち寄ってくださった。今日ここで新しくことばを交わした方は、学校に入って行かれた業者の方お一人のみ。プラカードをご覧になって、「大変ですね」と言ってこられた。

 午後は増田都子さん分限免職の地裁判決を傍聴した。傍聴席50の倍の方がいらしている中、厚かましくも傍聴させてもらった。普段はよくしゃべる渡邉弘裁判長は、姿を現し礼をすると、増田さんの顔も何も見ずに判決をほとんど聞き取れない声で読み上げ、そそくさと姿を消した。「棄却する」だけがわかったこと。

研修所に送り込んでも彼女を指導力不足等教員と認定できず、裁判では当時の校長が原告側証人として出廷し、彼女がいい授業をしていたこと、服務にも何の問題もなかったことを証言されたのだから、免職は処分権の濫用と認定するのではないかとかすかな期待をしていたが、判決は、都教委の主張をそのまま認めたもの。

「原告には、中立・公正に教育を行う教育公務員としての自覚と責任が欠如する」「研修期間中や勤務時間外の原告の言動を適格性欠如の徴表事実の一つとして勘案することになんら問題はない」から、分限免職は妥当だと言う。「公正・中立」の中身を検討した形跡はない。都教委の出先機関のごとくの東京地裁を、今日も更新してしまった。

 都教委は今日の判決を楽観して待っていたのではないはず。このお墨付きの判決に勢いを得、昨年策定した「分限対応指針」の「職務命令を拒否する」等を使った、もの言う教職員への分限免職を開始するであろう。「分限対応指針」をつくった都教委の最大の狙いはここにあるのだから。分限免職を執行させない取り組みをしなければ。


6月10日(水)

 南大沢学園特別支援学校に。今年は南大沢に「出勤」すると、必ず晴れて暑くなる。今日も一日中曇りという予報だったのに、途中から晴れてきて、蒸し暑い。校外学習に行き来する子どもたちの中には、湯気を出している子もいた。

 今朝、高等部の一人の生徒が、プラカードを見てしばらく歩を止めていた。「お話しするの初めてよね。これ、私のことって、知っていた?」と話しかけると、「それは知っていたけれど、どういうことかはわからなかった。どういうことかなと思って」。そこで少しばかり説明をした。「わかりました。がんばってください」と言い、頭をぴょこんと下げて、中に入っていった。

 お子さんを送ってこられたAさんのお母さんが、「まだまだ解決はできないんですか」と声をかけてくださった。「あの都知事では、まず無理でしょうね」と答えると、「石原都知事は、福祉も切り捨てするし、早く辞めていただきたいですね」とおっしゃる。早朝から来てくださった御近所のSさんと、「私たちの周りに石原都知事を支持する人はいないよね。どこに支持する人がいるんだろうか」という話になった。

 Sさんが帰られ、一人読書をしていると、頭の上で声がした。昨年知り合ったご近所の女性だった。しばらく、話し込んで行かれた。

Saさんも来てくれた。


6月9日(火)

 あきる野学園に。3回続けてあきる野学園の「出勤」日に雨だったので、2週間前に都庁前で配ったチラシを今朝やっと同僚たちに配った。今日は一日中曇りの非常に過ごしやすい気候だった。

 ご近所にお住まいとおっしゃる60代と思われる男性と出会った。プラカードの前で立ち止まり、「いつのことですか」と聞いてこられた。「今はマスコミで取り上げていないから」とこの件は過去のことと思われていらした。土肥校長の提訴のニュースから「君が代」処分まで、今まさしく「戦前」の学校の現状を説明した。「停職6ヶ月はひどいよね。生活厳しいでしょう。がんばってください」。優しい声だった。

 今日も校外学習の子どもたちを見送り出迎え、スクールバスの方と話をし、ゆったりした時を過ごした。


6月5日(金)

 あきる野学園に。近藤さんとライターのNさんがいらした。

近藤さんは同僚たちにチラシを手渡した。私も都庁チラシを配る予定でいたが、今日も雨だったので、持ってこなかったのだが、近藤さんのご自宅・川崎は雨ではなかったという。ここから遠いことを再確認した。夜遅い帰宅なのに、毎週金曜日には早朝から「出勤」に同行してくださる。ご自身のこととしてされているのだから、「くださる」のではないか?でも、私にはとっても大きな励ましである。ありがたい。

学校公開日ということで、大勢の方が出入りされた。プラカードを見て頭を下げられる方がいたり、訊かれて私が案内役となったり、何人かの保護者とは立ち話をしたり。校外学習の子どもたちに声をかけ、スクールバスの方ともおしゃべりをしていたら、時間は瞬く間に過ぎていった。

〈近藤さんが手渡したチラシ〉

  「日の丸・君が代」被処分通信    経過報告 四七  2009.5.23

八王子市立第五中学校夜間学級         被処分者 近藤順一

「日の丸・君が代」強制・不当処分に対する公正な人事委員会裁決を望む

〜報告:07.08処分の人事委員会 口頭審理(5/21)〜

 まず、傍聴にきていただき、3時間20分という長丁場を耐えた皆さまに心からお礼申し上げます。私の処分発令時などにいつも駆けつけてくださっている方々を背に、心強く証言できました。そして、初めてこのような場に来られた方々にもお会いして身の引き締まる思いです。 証人尋問は、07.08年卒業式における不起立、被処分時の校長、八王子市教委指導室長、そして私の順に行われました。

 校長・指導室長は、あくまでも自らの意志で職務命令や市教委通達を発したことを述べました。都教委の2003年「10.23通達」は参考としたと言い張ります。毎年の職員会議で卒業式実施要項(案)が審議されるとき、必ず「10.23通達」と市教委通達が全教員に配布されます。そして式次第から「国歌斉唱」を削除することを提案しても最後には校長の判断で通過し、職務命令が発せられます。都教委は「日の丸・君が代」強制を隠して、直接的には職務命令違反で私を処分し続けています。ここにこの問題のポイントがあります。学校現場が行政によって教育内容にまで介入されたとき、それが校内問題として処理されるのです。逆に言えば、徹底した教職員の議論、保護者や地域住民をも含めた方々との話し合いが不足しています。

 証言内容について校長が「外国からきた生徒にも国旗・国歌を尊重してもらう」といったときには思わず声が出そうになりました。教育的想像力なくしては、強制も尊重も区別がつかなくなるのでしょうか。 

 私の証人尋問では、以下の諸点を述べました。

@ 都教委の「10.23通達」が発せられてから、その強制を受け入れてしまうのかどうか、教育の自由を奪われ強制を受忍しても生徒の前に立てるのかという激しい内心の葛藤があったこと。

A 都教委による強制は一過性のものではなく、処分もエスカレートしているので、現場での持続的な抵抗がなにより必要なこと。都教委の強制を白日の下に明らかにすること。

B 「日の丸・君が代」強制は、象徴天皇制を利用して強行されていること。その強制のメカニズムは、屈服、諦め、迎合を伴う戦前の相似的反復であること。

 都教委側代理弁護士による尋問で、私の06年不起立(市教委指導措置)について、「処分を望んだのか」などと見当違いの問いを発していたが笑止千万。さらに、「生徒の前で不起立したのは、あなたの考えの表現か」と聞いてきました。私は「教育はその場や今日・明日の効果ではなく5年、10年の影響をもつもの」と応えました。都教委は、不起立・不斉唱が何か教育とは別のものの表現と印象づけようとしています。

 さて、これまでの前例では、人事委員会の裁決は都教委に追随、迎合した厳しいものとなっています。私は、現場の教職員の皆さまをはじめこの問題に関心のある方、そして広く都民の皆さまにも訴え続けてまいります。07・08処分に対する口頭審理は今回のみで終了とされましたが、東京都人事委員会が、公正な審理、裁決を行うことを要求していきます。皆さまもぜひ下記まで声を寄せていただければ幸いです。

 東京都人事委員会事務局任用公平部審査室       〒163-8001 東京都新宿区西新宿二丁目8番1号

         第一本庁舎北塔38階 電話 (03)5320-6946 FAX (03)5388-1755


6月4日(木)

若い人たちに話をする機会が与えられ、出かけた。


6月3日(水)

 南大沢学園特別支援学校に。雨が落ちそうで落ちない過ごしやすい一日だった。

今朝は大幅な遅刻、すでにNさんはいらしていた。ちょうどそこにSさんもいらして、3人で登校・出勤する人たちを迎えた。かつての同僚たちには、「この新聞記事面白いから読んでみて」と、先週都庁前で撒いたチラシを手渡した。

 今日から中3の修学旅行。歩きで登校してくる生徒たちには、「いっぱい楽しんできてね!」と声をかけた。みんな、うれしそう。

 一昨年度私が担当した現高1の生徒のほとんどのクラスで、今日は校外学習が行われた。一人で通学している生徒は、今朝も挨拶を交わしていたが、スクールバス通学の生徒の多くとの直接対面は昨年以来であったり入学式以来であったり。「○○さん」「△△ちゃん」と声をかけると、みんなしっかりわかってくれて、最高の笑顔をくれたり、全身で気持ちを伝えてくれたり。Aさんは私に、自分のノートを見せてくれた。「とっても上手だよ。がんばっているね」。彼の目を見て言うと、私をじいっと見ながら、うれしさいっぱいに応えてくれた。Bちゃんが覚えていてくれたことには、最高の感激。一瞬の触れ合いではあったが、彼女の急成長がよくわかり、とってもうれしかった。

 ここのところ2階の職員室の自席から180度向きを変えて立ち上がり、外(私)を見る副校長の姿を目撃していなかったが、今日は頻繁に目にした。Cさんのお母さんと立ち話をした、その時にも副校長は私を見ていたそうだ。「上からこちらを見ていますよ」とお母さん。保護者までがそれに気づくほどに。

Dさんのお母さんに出会ったので、彼に声をかけたときの様子(「しっかり私を認識し、すごい笑顔でこたえてくれたのよ」)をお伝えしたら、お母さん、喜んでくださって、「いつも気にかけてくださっていて。先生に戻ってきてほしいです」と言ってくださった。咄嗟に、私を弾圧することを大事な職務と認識していたとしか思えない校長の顔が頭をかすめ、お母さんに返すことばを呑み込んだ。

 10時頃来てくださった清水さんも、今日の私のうれしさを一緒に感じてくださっただろうな。


6月2日(火)

 あきる野学園に11時まで「出勤」。午後は、アイム‘89の2人の控訴審1回目を傍聴し、その後私と河原井さんの06年控訴審の進行協議。


5月29日(金)

 激しく雨が降る中、朝だけあきる野学園に「出勤」した。近藤さんは今朝も来てくださった。午後は入学式での不起立者への処分発令があるというので、その抗議と当該への激励に行くつもりであったのだが、近藤さんから、それが中止になったことを教えてもらった。今朝発信されたメールというので、家に帰り、心当たりに電話をかけた。でも、すでに不在の方ばかり。

 午後は、沖電気(株)を27年11ヶ月前に解雇された田中哲朗さんの門前行動に参加した。彼は、私の校門前「出勤」の師匠でもある。

追:入学式での不起立者は、3回目の不起立・被処分で、減給3ヶ月だった。これまでは(一人を除き)3回目の処分量定は減給6ヶ月であったのに、今回はなぜ3ヶ月なのか?裁判で争われることになるだろうに、それに優る、累積加重の刻みを小さくすべき都教委事情があるのだろうか?


5月28日(木)

 都庁前で、情宣、チラシまきをした。雨は降るし、何人の方が集まってくださるか、心配であったが、15人で行うことができた。来てくださった皆さん、ありがとうございました。

今日のチラシの内容は、表面が「石原都政に批判と怒り、こんなにも!」と題して「都政新報」(=都庁・教育庁関係の管理職が購読する新聞)4月14日号の記事を掲載した。記事は、「石原都政10年 都庁職員の声」の見出しで、役職にある人たちの声を掲載。「劇薬がもたらした副作用」「優秀な人材を潰した10年」「忠実なロボットの組織に」「忠誠バッジごっこ」等の小見出しで、実態を憂いている。また、「問われる職員の覚悟」の小見出しで、「期待すべきことは、現知事に対してではなく、その先を見据え、都政を支え続けるという職員一人ひとりの覚悟ではないだろうか」という発言もあった。

 都庁でも学校でも、同じことが進行している。まさに、「職員一人ひとりの覚悟」が都民のための都政に学校に、必要と思う。

 午後は、私を含め東京教組組合員の、04・05年不起立の裁判。


5月27日(水)

 南大沢学園特別支援学校に。Sさん、Nさん、Tさんが早朝から来てくださった。みんなで登校・出勤する生徒や教職員を迎えた。タクシーの運転手さんが、窓を開け、「がんばってくださーい」と声をかけてくださった。

 ここで私が出迎えると、いつも最高の笑顔で応えてくれる生徒の一人が、今朝は時間になっても登校してこない。どうしたんだろうと思っていたら、やや遅れてお母さんの車で登校。お医者さんに行ってきたとのことだった。生徒は今朝もとっても喜んでくれ、笑顔をたっぷりプレゼントしてくれた。

 一緒に仕事をしてきた人たちが、「根津さんの姿を見ると、今日は水曜日って、思うのよ」「根津さんが来る日は決まって、暑い日だよね。今日も暑いから気をつけて」と言う。07年は嵐のような日もあり、雨天の日がかなりあったが、昨年・今年の水曜は晴天ばかり。今日も、午前中いただけで体はしっかり熱を溜めてしまった。

 午後は、疋田さんの裁判を傍聴した。分限免職にされた、その前の勤務校の教頭が処分者側証人として、また、その学校の保護者が疋田さん側証人として証言をした。教頭は当然のこと、疋田さんがいかに教員不適格であるかを証言したのであるが、その後証言台に立った保護者は、「教頭先生が疋田先生について、当時言われていたこととまったく異なる証言をされたことに驚いています」と述べられた。その証言は、この処分が組織的、計画的に行われたものであることを確信させるものであった。

処分者側代理人は、保護者に対して終始、恫喝するような口調で尋問をしていた。まさに、都教委代理人!であったが、憲法や法律を駆使して仕事をする弁護士とは思えなかった。まるで、体罰を教育と取り違えている教員のように私には映った。

 午前中に熱を帯びた体に、蒸し風呂のような裁判所内の暑さは堪えた。


5月26日(火)

朝だけあきる野学園に。


5月22日(金)

あきる野学園に。朝から強風が吹き荒れた。私が「出勤」すると間もなくHさんがいらしてくださり、二人で登校する生徒、出勤する同僚たちを出迎えた。今朝もAさんとしばらくの間話をした。Hさんが帰られた頃になると、いよいよ風の勢いは強まり、日傘を握りしめ、プラカードが飛ばされるのを何度も直さねばならなかった。

Bさんが通りかかり、今摘んだばかりといういちごをくださった。洗いもせず、口にほおばった。「いやー、おいしーい!!」、一人歓声を上げていた。

車椅子を押して2組4人の方が通られ、歩を止めプラカードをご覧になって「がんばってください」とおっしゃる。聞くと、八王子の方だった。小学部の子どもたちの下校を見送って「退勤」した。

夜は、町田教組の定期大会に参加した。


5月21日(木)

鶴川二中へ。7時40分、プラカードを用意しているところに、頭の上から声がかかった。06年に知り合いになった女性が出勤されるところだった。「今年も停職なのよ」と話すと、「お姉さん、がんばるねえ。やるっきゃないですよ、ね!」と応援してくれて、駅に急がれた。

Nさんは今日もいらして、「社会科の授業 続き(2)」を生徒に手渡された。4月のときには、生徒の受け取りはよかったが、今日は様子が違った。手を出さない生徒が目立った。2006年に私を排除しようとした動きから推察すれば、何らかの動きがあったのかもしれない。

でも、それも無風より、どんなにいいことか。生徒たちが、いろんな働きかけの中から自分の頭を使い、正確な情報を収集することを学んでいくチャンスになれば、と思う。

Nさんが帰られ、入れ替わりに地域にお住まいのKさんがいらした。出かけるところがあると言いながら、結局、それをキャンセルして話しこんでいかれた。気遣いがうれしい。

学校前の自販機に飲み物を買いに来た青年がプラカードを見ていたのが、Kさんと話し込みながらもわかり、声をかけようかなと私が迷っているうちに青年は帰って行かれた。1時間もしただろうか、また先ほどの青年が現れ、プラカードを見て、「以前テレビで観て、根岸さんとか根津さんとか、記憶にあったのですが、その方ですか」と聞いてこられた。もう十分、わかっていらっしゃる方だった。「がんばってください。応援しています」とおっしゃった。

午後は、近藤順一さんの人事委員会審理を傍聴した。校長、八王子市教委室長、そして近藤さんすべてに対する尋問を1回でやり、審理は終結とされてしまった。公平に審理し、当事者の不利益を救済するのが人事委員会の任務のはずだが、審査員が「公開口頭審理をした」という辻褄合わせにしか、頭を働かせないことの表れだ。

尋問では校長も室長も、「職務命令を発したのは校長の判断、市教委からの圧力ではない」「学習指導要領が目指す卒業式をするために職務命令が必要」とがんばったが、それぞれ後の証言で墓穴を掘ることになった。校長は、「生徒の作品を正面に掲げた卒業式の経験はあるでしょう」と問われて「30代の時には経験したが、そういう卒業式はよくない」と言い、しかし、「そうした発言はしたことがあるか」と問われて「ありません」。室長は、生徒の作品が正面にないのは、「八王子では通達に従っているから」と言ってしまった。校長の20年前を知る当時の同僚であったSiさんは、私の隣で校長の証言に、「お前、嘘だろう」と呟いていた。

校長は、外国籍の生徒が6割在籍するのに、「日の丸・君が代」が加害のシンボルであるとは「考えたことがない」「外国から来た生徒にも国旗国歌を尊重してもらう」と平然と言ってのけたのには唖然とした。

近藤さんの証言は、すがすがしかった。「強制を受け入れている中では、教育はできない。不起立していなければ、私は教員を辞めていました」「不起立は、生徒への、私の明確な態度の表明でもあります」「強制に反対することが、生徒指導の出発だと思っています」。

近藤さんは、3時間半に及ぶ尋問を終えて、夜間中の仕事に向かわれた。

*Nさんが生徒に手渡した「社会科の授業・続き(2)」

日本と朝鮮について考えよう(その2)

 東京都は2016年のオリンピックを東京に誘致しようとしています。都民のあいだにはオリンピックに使う金があるのなら他のことに使ってほしいという声も多くあります。

 東京でオリンピックが開催されたのは今から45年前の1964年ですが、じつは1936年にドイツのベルリンで開催されたオリンピックのつぎは1940年に東京で開催が決まっていたのです。ところが日本の中国への侵略は日本を泥沼の戦争に引き入れてしまってオリンピック開催を辞退せざるをえなくなりました。こうしてベルリンオリンピックが第二次世界大戦(1939〜1945年)前の最後のオリンピックとなりました。

 ベルリンオリンピックはヒトラーのナチ党による一党独裁体制のもとでのオリンピックで「ナチス・オリンピック」ともよばれています。このベルリンオリンピックにはマラソンに日本から3名の選手が出場しました。この年のオリンピック出場者を決める国内最終予選で1位、2位を南昇龍(ナムヨンスン)、孫基禎(ソンギジョン)という朝鮮出身選手が独占したため、3名のうち2名は朝鮮出身者ということになりました。「大韓帝国」といわれていた朝鮮は武力による脅しで1910年日本の領土にされ国としての朝鮮はなくなっていましたから、朝鮮出身者は日本チームとして胸に「日の丸」をつけて出場しました。1936年8月9日のマラソンは27カ国57選手が出場し、十万人の大観客が総立ちとなるなか孫基禎選手は2時間29分19秒、オリンピック最高記録で1着となりました。2着はイギリスの選手で、南昇龍選手も3着となりました。この知らせに日本人は日本が世界を制覇したと喜びましたが、二人の出身地である朝鮮は熱狂的な喜びに沸きかえりました。オリンピックの表彰式で「君が代」がながれ、日章旗(日の丸)がポールにあがりましたが、孫選手はうつむいたままでした。

後年に孫選手は次のように語っています『優勝の表彰台でポールにはためく日章旗を眺めながら、「君が代」を耳にするのは耐えられない屈辱(くつじょく)であった。わたしは思わず頭をたれた。そうして考えてみた。私が日本国民なのかどうか。(私は)私自身のために走った。そして(日本の)圧政に苦しむ同胞のために走った。これからは2度と日章旗の下では走るまい。涙がほほを伝った。日本人たちには、祖国日本にマラソン優勝の栄冠を捧げた感激の涙である、と説明した』。

8月25日朝鮮の新聞「東亜日報」は社員たちの発案で孫選手の胸の「日の丸」を塗りつぶした写真を掲載しました。新聞発行と同時に「東亜日報」の社員たちは警察に連行され殴るけるの暴行をうけ、とくに中心人物とみなされた5名は40日間にわたる拷問をともなう取り調べをうけました。警察の目的は日章旗を塗りつぶしたのが社長の命令であったと自白させて「東亜日報」社をつぶすことでしたが拷問に耐えてだれも自白しませんでした。結局「東亜日報」は無期限発行停止処分を受けました。この事件は「日章旗抹殺(まっさつ)事件」として朝鮮では小学校の教科書にものっています。

 卒業式や入学式では「日の丸」を掲揚し「君が代」を歌いますが、わたくしたちがアジアの人々と新しい未来を築いていくためには過去を知り、日本の支配下にあったアジアのひとたちの気持ちを理解し、これまで日の丸や君が代がどのような役割をはたしてきたのかを考えてみることも大切ではないでしょうか。


5月20日(水)

 南大沢学園特別支援学校に。Nさん、Sさん、近藤さんが早朝からいらして、4人で生徒や教職員を迎えた。Aさんは、「まだ、あきる野に行けないの?」と聞いてきた。心配してくれているのかな? 何人かの元同僚はいつもいつも、挨拶だけでなく、「お疲れ様です」「ご苦労様です」と言い、丁寧に頭を下げてくださる。

 外国の記者から、日本の教育事情について海外向け記事を書くので、インタビューをしたいとの申し出があり、ここに9時に見えることになっていた。何人かの教員に話しを聞きたいというので、近藤さんとSiさん、Mさんにも来てもらった。現れた記者・Dさんは、オランダ出身で日本にお住まいの若い方。皆で、公園の喫茶室に移動した。

「君が代不起立」の映画をご覧になって、卒業式も入学式もない、したがって、国歌斉唱もない、自由な教育のオランダの人から見ると、日本の「日の丸・君が代」強制と処分はあり得ないこととおっしゃる。また、東京の教員6万余人中不起立者が、2回/年×6の延べ数422名というのは、「考えられないほど少ない」とも。日本の、とりわけ東京の異常な教育事情を国際社会に報道してくれるのは、ありがたいことである。

 話をしているところにSRさんがいらした。彼女の家の近くの和菓子屋さんが開くのを待って買ってきてくれた桜餅と柏餅は、甘さ控えめ、素材の味が生きていて、とってもおいしい。大勢いるのを知っていたかのようにたくさんの量。私は早起きして稲荷ずしをつくってきたので、それも一緒に、皆で昼食とした。

 午後、一人になって、暑さをこらえながら読書をしていると、通りがかりにBさんが、「光化学スモッグ注意報が出ましたよ」と教えてくれた。生徒の下校を見送って、私も「退勤」し、疋田哲也さん(=性教育をはじめとして、多くの教員が学びたい教育活動をしたことが、校長・行政には目の上のたんこぶだったのだろう。分限免職にさせられた)のチラシ配りに向かった。


5月19日(火)

 あきる野学園に。


5月18日(月)

JR東日本でただ一人、国労バッジを着用し続け、それが就業規則違反だとされ2003年以来出勤停止処分を受け続け、闘う辻井義春さん(59歳)。彼の、神奈川地労委本人審問を傍聴した。

国鉄時代には誰もが着用していた国労バッジ。JRになり、バッジ着用が弾圧の対象にされると、国労の方針は「バッジを外そう」となり、バッジ着用者は激減して行った。

一方、バッジ着用について、99年に最高裁で不当労働行為が認定され、08年には東京都労働委員会で処分は不当、賃金カット分の返済命令が出されているというのに、JR東日本はそれをまったく無視し、あろうことか、辻井さんに対して出勤停止処分をエスカレートさせてきた。来年2月に定年を迎える辻井さんに会社は、再雇用をしないとも言ってきているそうだ。

しかし辻井さんは、23年前の1047名の仲間の不採用・解雇、殊に一緒の職場であった仲間2人の不採用・解雇を想うと、バッジを外すわけにはいかないと言う。とってもあったかな人。仲間を想い、一人であっても筋を通して闘う辻井さんに、私は心底共感する。

審問で辻井さんは、今年2月に発覚した信濃川発電所の不正取水にも触れ(=この件で社長は減給処分だけだった!!)、法令・憲法違反を繰り返すJR東日本を断罪した。

停職中は、傍聴をしたい。


5月14日(木)

 立川二中へ。Nさんがいらして、生徒に「社会科の勉強・続き(1)」を手渡された。

 登校が終わり、一人、書きものをしていたらクラクションがやわらかく鳴った。顔を上げると目の前の車から男性がにっこり微笑まれた。見覚えのある方だった。「まあ、お久ぶりです」と私。「がんばってくださーい」という声とともに、車は走っていった。一昨年名刺を差し出された大学で教員をされている方だった。

また、しばらくして私と同年輩の女性が歩を止め、プラカードを見られた。「これは私のことなのです」と少々説明を加えると、東京の「君が代」処分についてよくご存じだった。「ひどいことですね。石原都政を変えたいですね」とおっしゃる。

犬を散歩させている女性は「ご苦労様です」と通っていかれた。昨年お会いした方だと記憶がよみがえった。 

 早退した生徒の一人が「何してんの?」と声をかけてきた。自己紹介をしながら説明をすると、「立たないだけで停職なの?」と、不思議そうに聞く。私から、「あなたはなぜ立つの?」と問うと、「わかんない。みんなが立つから。面倒くさいけど。立った方が声が出るからかな?」と言い、「何で立つのかな?」と私に聞いてきた。「先生たちに聞くといいかもよ」と私。

 「ねづ先生の授業受けてみたいな」と言うこの生徒に「私もしたいよ」と答え、「お大事ね」と見送った。

 今日は強風が吹き荒れ、砂は飛んで来るし、手にしているプリント類は飛ばされてしまう。片手で日傘を差し、読み書きすることは困難。しばらくがんばったが、午後は早くに引き上げた。 


5月13日(水)

 南大沢学園特別支援学校に。日差しは強いがさわやかな風が心地よい。杉本さんも朝からいらして、二人で2週間ぶりにみんなと挨拶を交わした。Aさんのお母さんは、車の窓を開けて、「先生、がんばってくださいね!」と声をかけてくださった。途中で、清水さんが来てくださった。校外活動で出入りする生徒たちを出迎え見送りして午前中を過ごした。隣の公園の喫茶室で昼食を摂り、生徒の下校を見送ってから、裁判の傍聴へ。

 ここの玄関ロビーに、オリンピック誘致を宣伝する旗が立っているのが外からも見える。学校に政治が介入している一例だ。保護者の願いや要求は、校門前で私が聞く限り、断じてこんなことではない。


5月12日(火)

 所用のため朝だけあきる野学園に「出勤」し、挨拶が終わったところで「退勤」。


5月8日(金)

 4日連続の雨。スコールのような断続的な、激しい降り方。一番激しい降りの時が、ちょうど登校・出勤時間帯。いつも必ずことばをかけ、励ましてくれる2人の生徒がそれぞれ、傘を差さずに登校してきた。一人は、雨が切れた時に家を出たという。もう一人は、傘を持っていない生徒に貸してあげたんだという。そんな状態でも私に「がんばってください」ということを忘れない。やさしさに感じ入りながら、「着替えて風邪を引かないようにネ!」と声をかけ見送った。Cさんとは、しばし立ち話。同僚たちは、「雨で大変ですね」とねぎらってくださった。

 今朝は近藤さんの他に佐々木さん、松原さんがいらした。

 8時半、背広姿の見かけない人3人がやってきた。一人は都職員のバッジをつけている。この人たちは、10時半、何らかの仕事を終えて帰るために再度、私の前を通った。都職員バッジをつけた人に、「そのバッジは、都教委の方、ですよね?」と聞いたが立ち止まってくれない。追いかけて、「どの役職のどなたですか?」「今日はどういう仕事でいらしたのですか?」と聞いた。
「発令の時、会ったでしょう」と、バッジの男性は言った。すぐには思い出せない私を背に、「人事部長です」と付け加えた。そうだ、3月31日の処分発令のときに見た顔だ、と思い出した。都教委の人事部長が2人を伴って、学校を訪問するなどということが通常あるんだろうか?

 用事で学校にこられた保護者が、「大変でしょ?」と声をかけてきてくださった。もう、十分承知されているようだった。また、別の保護者は、車から大きく手を振ってお気持ちを送ってくださった。

 小学部の子どもたちの下校を見送った後、学校から車で5分とかからないところにあるお風呂に、同僚に教えてもらって寄った。畑の中にぽつんと立っている。つるつる温泉のお湯を運んできているのだそうな。ただじっとしていると、この季節でもなかなか寒い。今日も芯から冷えてしまったが、お風呂で生き返った!


5月1日(金)

 今朝は寒くもなく、さわやかな天気。

近藤さんは、「あきる野学園の校長はじめ教職員の皆さま」宛ての訴えのチラシを用意して来られた。いつもは、お互いに「おはようございます」と挨拶を交わしていた生徒が、今朝は、「根津先生、おはようございます」と名前を言ってくれた。私の名前、覚えてくれたのね!あなたの名前、教えてもらっていい」と言うと、「A Bです」と教えてくれた。

 バス登校も終わったところで、添乗員さんが「弁当販売車が来ているから見てみないか」と誘ってくださった。毎朝来ているこの弁当屋さんは、注文ではなく、その場で買えるという。ちょうど今朝はお弁当の用意ができなかったので、試食を兼ねてその弁当を買った。400円なり。昼食後、「値段からしたら、いいお弁当ですね」と添乗員さんに報告。「だろぅ」と返ってきた。

 今日も、校外学習で出入りする子どもたちを見送り、そして、出迎えた。13時過ぎ、「退勤」。

近藤さんのチラシ

「日の丸・君が代」被処分通信

         経過報告 四五  2009.5.1

八王子市立第五中学校夜間学級

                             被処分者 近藤順一

              あきる野学園の校長はじめ教職員の皆さま

昨年から、校門におじゃましている者です。皆さまの熱心な教育実践を目の当たりにして、かつて都立清瀬養護学校の創立に参画し、直後、加配増員の取組を分会長として進めたことを思い出しています。今日は、根津教諭の校門出勤及び私の共同行動について説明します。

根津教諭は、本年3月に3回目の停職6ヶ月の懲戒処分を受けました。私の処分は減給10分の1、6ヶ月です。ぎりぎりのところで教育の自由と教育的良心を保持するため不起立・不斉唱を敢行した者へのいかなる処分も不当であります。根津教諭の受けた停職6ヶ月処分は、半年間、職場から追放され、その間の賃金やボーナスが支払われないという苛酷なものです。それでも免職処分が回避されたことを率直に安堵しています。皆さまがこのことに共感して頂いていることに感謝しています。

私がなぜここに来るのかということですが、一つにはここから私の職場までは35分あまりで行けますし、勤務が午後からです。そして、今や、ここあきる野学園正門は、都教委の歴史的な「日の丸・君が代」強制、不当処分の執行現場となりました。もちろん、私たち被処分者がどのようにふるまうかは、全面的に問われることです。皆さまが大切な人生を1日1日過ごしているように、私たちも何とか時代の要請にこたえようと考えています。処分に対して、はっきりとした抵抗の姿勢を広く都民の皆さまに示す必要を感じます。根津教諭の停職出勤は、教育の自由を守り、児童・生徒と直接ふれあうことをめざす教育的良心の合法的表現であると思います。都教委は裁判所に提出した書面上で、根津教諭の停職出勤を苦々しくおもい不当にも攻撃しています。私は微力ですが、単なる支援ではなく共同の行動を進めようと思います。

どうか、皆さま、出勤前わずかな時間でも、また別の機会にでも、ぜひ私たちにご批判・ご意見を寄せてください。また、根津教諭との話し合いの機会をもって頂けたらありがたいと思います。

危機の深化〜09「日の丸・君が代」不当処分と一連の地裁敗訴〜

不当処分の強化は止まらない

まず処分のエスカレートの問題。今回も都教委は確実に累積加重処分を実行した。特に停職処分は学校現場から抵抗者を一定期間追放するものでありけっして許されない。同時に免職処分が回避されたことに対する様々な評価が見られるが安易な楽観論を排することが重要だと思う。

懲戒処分について3度の停職6ヶ月という地平は重要な意味をもつ。今後とも懲戒免職の危険性がありこれを阻止しなければならない。分限処分については已然として免職の危機があることを広く訴えていかなければならない。昨年の7月に提示した「分限対応指針」は今年の「服務事故再発防止研修」でどのように適用されるか、予断を許さない。懲戒処分のように段階的か、一挙に分限免職かはまだ経験がない。広範な処分反対の声をあげなければならない。

2・3月の一連の地裁敗訴と学校現場の管理統制の強化に抗して模索が開始されている。今や、「日の丸・君が代」強制と新学習指導要領、教員免許更新制、主任教諭制等は一体のものとして推進されている。そこで、運動を前進させ裁判勝利に向けて、ポイントとなる2つの方向を指摘しておきたい。

@ 運動の広がりを

「日の丸・君が代」強制を進める都教委は、憲法前文の「平和と民主主義」、憲法第1条の「象徴天皇制」、「国旗・国歌法」、学習指導要領を恣意的に解釈し利用し前面に出して、被処分者の行動は特殊な者の特別な思想に基づく行動とし、裁判所もこれに追随した。その実、強制・処分は、学校現場の統制と教育内容への介入の突破口としての意味をもち、特に教育内容では憲法に反する教育が強要されることになり、広範な教職員、都民、国民との矛盾を拡大、深化していくだろう。運動の横の広がりの条件はある。

A 持続する取組を

 「日の丸・君が代」強制処分に反対する運動は、日常的なとりくみである。「不起立・不斉唱・不伴奏を含む多様な取組」を全ての教職員と共に進めていくこと。被処分者は、期限付き雇用、解雇用員、賃金カットなどに陥っている非正規労働者の境遇であり、憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活」が脅かされている。「救援基金」等の態勢をとらなければならない。

07・08処分に関する東京都人事委員会口頭審理が下記の日程で開催されることが決定しました。皆さまの傍聴をお願いします。

日時:2009年5月21日(木曜日)14:00〜

場所:都庁第1庁舎39階 審理室

内容:口頭審理(請求人本人<近藤>、処分時の校長、指導室長の証人尋問)


4月28日(火)

あきる野学園に。今日も寒く、冬支度。

いつものように出勤・登校する同僚や生徒たちと挨拶を交わし、読書をしていると、保護者の車が次々に入ってきた。保護者会ということで、聞かれるままに、車の誘導を買って出ることになった。

この4月にスクールバスの添乗員さんとなられた人たちとも、はじめは挨拶だけを交わしていたが、お互いに顔見知りとなり、あれこれ話を交わすようになってきた。今日もしばらく話しこむ。「普通はおかしいと思ってもなかなか行動に移すことなどできない。根津さんは勇気がありますね」とおっしゃる人、「そこまで大事なことなのか、私にはわからない」とおっしゃる人、「今の政治はおかしい!でも、一人行動しても変わるわけじゃないから」とおっしゃる人。ストレートに気持ちを出し合えるのがいい。


4月24日(金)

 あきる野学園に。近藤順一さんが来てくれた。Bさんは、「先生、今日も?」。「そうよ。ここまでしなくたって、って思っている?」と聞くと、「うん」。「だろうよね。こんな人もいるのよ。さ、行ってらっしゃい」と見送った。

Cさんは今朝も、「がんばってください」と笑顔で声をかけてくれた。同僚たちには、昨日都庁で配ったチラシを手渡した。出勤、登校が終わり、近藤さんが今度は本当の出勤をすると、じっとしているものだから冬のジャンパーを着てもまだ寒かった。


4月23日(木)

 朝は都庁前での情宣・チラシまき。14人で撒いたが、3月のような受け取りではない。いつもここを通られる人たちだから、私たちの存在はご存じの方たち。受け取りがよくないのは、チラシを手渡し、マイクを持つ私たちに3月のような切迫感がないからで、それが受け手に伝わるのだろうか。来てくださった方、ありがとう。


4月22日(水)

 南大沢学園特別支援学校に。

7時半少し過ぎ、校長が出勤してきて私の前を通り過ぎた。初日の7日には「迷惑です」とわざわざ外に出てきて言ったのに、今朝は何も言わず、私には目を合わさず。今日は迷惑ではないのだろうか?本気で仕事に当たってもらいたいものだ。窓越しに副校長がこちらを見ているのに、2度気づいた。

両人とも、監視することよりも、「君が代」起立斉唱の教育的意義について説得してほしい。南大沢に在職中、一度たりともしてもらったことはない。今でいいからしてほしいものだ。この二人に限らずこれまで、生徒に対しても教員に対しても、自分のことばで「日の丸・君が代」の教育的意義を説明した管理職は一人もいなかったが。

 登校、そして校外授業で行き来する生徒たちと挨拶を交わしているときは、心が和む。登校時に、Dさんは、遠くから私に気づき、笑顔をいっぱいにしてやってきた。今日も夏を思わせる陽気、体が熱を持ってしまい、まるで、運動会の練習期間のよう。午後は07,08年の裁判。汗をかきながら、陳述に臨んだ。


4月21日(火)

 あきる野学園に。肌寒く、雨がぱらつく。校門前に到着すると、修学旅行に出発する高等部3年生がバスに乗り込んでいた。その出発を見送り、そして、みんなの登校・出勤を出迎えた。Aさんは、今日も遠くから手をあげ、笑顔を送りながら登校してきた。

 今日も早くに引き上げたのだが、引き上げる私に、Bさんは、「根津先生、帰っちゃうの?」。Cさんは、「がんばってください」と言ってくれた。昨年も校門前で励ましてくれた生徒だ。


4月20日(月)

 2004年2月に都教委から分限免職にされた疋田哲也さんの「ジョニーカムバック決起集会」に参加した。

疋田さんについて保護者として、生徒として語られるお二人の話を聞き、彼がユニークな授業や本心での生徒との係わりで彼らの心をつかんだことがわかる。理科の教材教具が段ボール箱100箱、何と熱心な先生、と思うのが普通だ。しかし、これを学校に置いたことが、「私物」を学校に保管したとして、分限事由の一つとされた。彼を永久に学校から排除するために分限免職を使ったのだ。

体罰も分限事由の一つにされているが、体罰で処分を受けない人は多数いるし、体罰をして処分されても管理職になっている人はいくらもいる。体罰はあってはならないこと、しかし、疋田さんを分限免職するためにそれを使うとなれば、話は違う。

疋田さんへの攻撃を聞いていて私は、私が多摩中に転任した年の2001年2月から13ヶ月間受けた攻撃と、何と似ていることか、と思った。石原都政になっての数年、小・中学校のもの言う教員へのピンポイント攻撃・弾圧は、今行われている「君が代」処分よりも陰湿さにおいて厳しいものがあった。

疋田さん、そして増田さんの分限免職撤回のたたかいと交流していきたい。


4月19日(日)

夕方立川駅でチラシまき。昨年12月から毎週立川駅で情宣をしてきたので、遅まきながら、処分の報告とお礼を兼ねてのもの。初夏の陽気だったせいか、すごい人混み。北口ではマイクを通した声も人の群れに吸い取られそうなので、やや混雑の少ない南口で開始。私を含め5人だけだったのに、250枚のチラシは40分ほどでなくなった。今日も2人の立川二中卒業生が声をかけてくれた。

その後は、数か月分のご苦労さん会、8人で美味しく飲んだ。


4月17日(金)

あきる野学園に。昨日までの夏のような暑さと打って変わって、じっとしていると、肌寒い。今朝も近藤順一さんが来てくださった。電車通学の生徒一人ひとりと、そしてスクールバスで登校する生徒たちとは大きな身振り手振りで、挨拶を交わした。

登校が終わったところで、前の道を走る車の中から、挨拶をくださる人がいらした。プラカードを読む時間はなかっただろうから、昨年のことをご存じの方なのだろうか、と思った。

夜は、あきる野の歓送迎会に参加した。半年間、話をする機会のなかった方何人かから、「根津さんが配った文章を読んで、本当は私も逃げていてはいけないと思いました」「私の問題でもあるのに、根津さんにしてもらっていて申し訳ないと思っています」などと告げられた。


4月16日(水)

 鶴川二中へ。到着したところに1年生の集団が登校してきて、「何しているんですか」と不思議そうに聞く。簡単に説明し、「あなたたちはなぜ起立し斉唱するの?」と聞き返す。「うーん、わかんない」「歌の意味知らない」という生徒たちに、「わからないままはよくないから、調べたり、先生たちに聞いてみたりするといいかもね」と付け加えた。

 しばらくすると、Nさん、学区のKさんが来てくださった。Nさんは、自作の「社会科の授業」を手渡し、また、Kさんは、顔見知りの大勢の生徒に声をかけて生徒たちを出迎えた。

2、3年生は、「ああ、また」といったところかな? 元同僚たちとは、久しぶりの挨拶を交わした。

訪問客があったらと気になりつつ、急用ができて午前中で「退勤」したところ、学区の方2人から電話が入った。私が鶴川二中に「出勤」するのを待っていてくださったのだ。ありがたい。

◇Nさんが手渡した「社会科の授業・続き(1)」                            

昨年に続き、今年も皆さんに読んでいただきたく、書いていきます。

日本と朝鮮について考えよう

最近、北朝鮮の発射したミサイルが今にも日本に落ちてくるかのような大騒ぎになったことはみなさんも知っていると思います。「北朝鮮はいやな国だ」と思った人もおおいのではないでしょうか。けれどもただ「いやな国だ」では何も解決しません。これからみなさんが生きていく社会が平和であるためには、わたくしたちは日本と朝鮮の関係について、自分で考えてみることが大切ではないでしょうか。(ところで、海外の報道はロケットといっているのに日本では最初からミサイル(兵器)と報道されつづけています)。

 いまから150年ほど前に日本は欧米の国々からせまられて開国し、1868年、徳川幕府が倒れ鎖国と武士の時代が終わり、あたらしい時代が始まり「明治維新」と呼ばれました。欧米の国々の強さを見せつけられた日本の指導者たちは西洋の技術・文明を取り入れると同時に軍備を増強して国力をつよくしなければならないと考え、当時の欧米の国々がやっていたように領土を拡大すること考えました。日本がまず目をつけたのが、李王朝のもとで鎖国状態だった朝鮮でした。日本は欧米の国々のまねをして朝鮮に開国をせまり、拒否されると武力でおどし、とうとう1910年に朝鮮を日本の領土にしてしまいました。日本による朝鮮半島の植民地化といわれています。

日本の植民地にされた朝鮮の人たちは、土地を取り上げられ、食べていくことができなくなり、日本に働きに来ざるをえなくなりました。1923(大正11)年9月1日に「関東大震災」が起きると、日本の政府・警察関係は「朝鮮人が暴動を起こした。井戸に毒を入れている」といったデマを流し、普通の人たちが自警団(じけいだん)というものを作って朝鮮人を見つけると暴行し、無実の朝鮮人を何千人も虐殺しました。(あとで殺人犯として罰せられた日本人はほんのわずかでした)。太平洋戦争がはげしくなると日本政府は朝鮮人を強制的に連れてきて日本の炭坑や鉱山でひどい労働条件で働かせました。

日本の敗戦と同時に植民地支配から解放された朝鮮は独立するはずでしたが、アメリカとソ連によって南北に分けられて占領され、南と北にそれぞれアメリカとソ連が後押しをする国ができて朝鮮半島は南北に分断されてしまいました。この北側の国が現在の北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)です。その後、北朝鮮が武力で朝鮮半島を統一しようとしたことから朝鮮戦争(1950年6月〜53年7月)がおこりアメリカを中心とした国連軍と北朝鮮軍、それを支援して参戦した中国が戦い、朝鮮半島全土が戦場となり、死傷者3百万人以上という現代でもっとも悲惨な内戦となりました。もし、日本による植民地支配がなければ朝鮮は南北に分断されて同じ民族同士が血で血を洗う争いは起きなかったでしょう。いま北朝鮮という国があるのは日本の植民地支配の結果だともいえるのです。それなのに日本は北朝鮮と国交がなく、まったく話し合いをすることができません。

わたくしたちは拉致だとかミサイルだとかを日本が被害者のようにしてだけ眺めるのではなくこうした歴史的背景を知って考えることが大切ではないでしょうか。

昔「朝鮮人が井戸に毒を流した」というデマにひとびとがおどらされたことと、今「北朝鮮のミサイルが落ちてくる」といって大騒ぎとなった状況はどこかにていませんか。


4月15日(水)

南大沢学園特別支援学校へ。2時間前までの豪雨が上がって、青空が広がり、さわやかな風が心地よい。Nさん、Sさんが来てくださった。

登校してきたEさんは、「また石原知事が、学校に来るなって言ったの?ひどいよ」とひとしきり怒ってから中に入っていった。バス登校のFさんは、私に気づいて大きいサインを送ってくれた。

お孫さんを送ってこられた方だろうか、プラカードをしばらく見られた後、「変ですな、こんなこと!」「『日の丸・君が代』は天皇制です。学校で天皇制を賛美することを教えるなんて、とんでもない」「それに対して、日教組が反対できないんだから情けない。自分たちの権利は主張しても、教育のことはほったらかした結果だよ」とおっしゃった。権利のことは少々異議ありで少し私見を述べたが、他のところは同意できた。

1.2時間目は、隣の公園に校外授業にいく子どもたちを見送り、また、出迎えた。先週は芽にさえ気づかなかった街路樹の栃の木が、今日は若い葉を太陽に向けて開き始めている。

先週、日焼け止めクリームで炎症を起こしてしまったことを書いたところ、面識のなかったSさんが、安心して使える日焼け止めクリームを送ってくださった。感激です。


4月14日(火)

 あきる野学園に。早くに登校したAさんBさんは、教室に荷物を置いてから私と一緒に門前でみんなを出迎える。和やかな風景。Cさんは、「先生、がんばりますね!」とにっこり。Dさんは今朝も心を込めて書いてくれた手紙をプレゼントしてくれた。誰もが気持ちよく挨拶してくれ、温かい気持ちをもらった。桜に代わって、つつじが色をつけ始めていた。


4月10日(金)
あきる野学園に。同僚たちとも生徒とも和やかに挨拶を交わした。高等部の生徒が「何してんの?」と2人(組)聞いてきた。6日に、私よりも早くに登校した生徒だった。簡単に説明をすると、昨年のことを思い出して、「教育委員会むかつくじゃん。がんばって!」「また? 先生、ファイトです。がんばってください」と励ましてくれた。Aさんは、私に手紙を書き、猫のシールを貼ってプレゼントしてくれた。時間をかけ、一生懸命書いてくれたことが伝わってくる。心遣いがたまらなくうれしい。

バスが到着すると、バスの中から、知った顔が思いっきり手を振り、笑顔を向けてくれた。送迎をされる保護者も皆さん、運転席から挨拶をしてくださった。半年間、校門の中から迎えた生徒たちを、この半年は外で迎えるのだと再確認する次第。

この道を通られる人は少ないけれど、プラカードを読まれたお一人の女性は、「がんばって!おかしいわよ」とおっしゃりながら、またお一人は、深々とお辞儀をされて行かれた。
花が咲きほころぶ中、春を満喫した。


4月9日(木)
 立川二中へ。7時40分、校門前に立つと、最初に登校してきた3人連れの生徒の一人が「がんばってください!」と元気な声で言ってくれた。聞き覚えのある声だ。「昨年も応援してくれた人だよね?」と聞くと、「そうです!」。

 私が立って間なしに、挨拶隊の人が2人現れた。これまでは、この人たちは校門を入ったところに立っていたが、今朝は校門前に立って走る車を止め、生徒の横断の世話を焼いている。道のこちらからあちらの生徒に声をかけるので、かえって危ない。ほとんどの生徒は、「渡っていいよ」と言われると、それに従っていたが、一人の男の子は、「車が来ている」とやや抗議っぽく言い、指示には従わず自分の判断で車が行くのを待って渡った。些細なことだけれど、流されるままにしないこの生徒の行動がさわやかに映った。

 2、3年生の中には私に、ああ、という表情で笑顔を返す生徒がかなりいた。1年生は、「何々?」とプラカードを見ながら、人の波には逆らわずに進んでいった。

 登校が終わったところに、隣の高校に登校する卒業生が通りかかり、半年振りの挨拶をした。昨年ここを通られて知り合いになった、二中にお孫さんが通われる女性とも対面した。「また、大変ですね。がんばってください」とおっしゃって、仕事に向かわれた。そうそう、昨年副校長と自己紹介した人が筆記用具を持って現れ、しかし、何もせず言わず、1〜2分して戻っていった。こちらも市教委・都教委に報告書をあげるためであろう。

 昨日塗った日焼け止めクリームで炎症を起こしてしまい、今日は9時半、「退勤」した。


4月8日(水)
 南大沢学園特別支援学校へ。7時45分、校門前に到着すると5分後、校長がもう一人と連れ立ってきて、「迷惑です」と言う。「ここは公道です」と返すと、一言も言わず、私の顔も見ずに引き返して行った。都教委の指示通りに、ノルマを果たしたというところ。やる気のひとかけらも見えない。信念を持って本気で私を追い出したらいいのに。「校長が立ち退くよう注意をしたが、根津は聞き入れなかった」とでも報告書をあげるのであろうか?

07年度、一緒に中学部を担当した教員たちだけでなく、お顔しか知らない教員たちも「お元気そうで。クビにならなくてよかったですね」と喜んでくれた。「あきる野はいい校長でよかったですね」という人が何人もいた。狭い特別支援学校のこと、あきる野学園に友人がいる人も少なくなく、南大沢学園にも話が伝わってきているのだった。

 生徒たちも私のことを覚えてくれていて、半年振りの挨拶を交わした。「根津先生戻ってきてよ」と言う一人の生徒は、「立たない先生ほかにもいるよ。どうして根津先生だけ(が処分)なの?」と言う。

お子さんの送り迎えをされている保護者とは顔見知りになっていて、「どうしていらっしゃるだろうと気になっていました。大変ですががんばってください」などと励まされた。

職員や生徒が出勤・登校したところで、高等部の入学式に出席する生徒と保護者の登校・来校。私が半年間担当した生徒たちが高等部へ入学するのだった。生徒一人ひとりに、そして保護者にもお祝いのことばをかけることができて、本当によかった。1年前の生徒との思い出にふけりながら、校門前で入学をお祝いした。

入学式を終えて、一人の保護者は、「私も立ちませんでした。先生たち、びくびくしている。せめて保護者がと思って」と告げてくれた。また別の保護者は、タレントの松村氏が東京マラソンに出場して倒れたことについての都知事のコメントに触れ、「命を軽んじる石原都知事は許せない。私も決して『君が代』は認めない。歌いません」と力を込めて言われた。

教員たちが、自身の教育への思い、しかしそれを阻む都教委の教育行政について保護者に話をしていくことで、風通しがよくなるし、本当の信頼関係が築けるのに、と思いながらことばを交わした。


4月7日(火)
 6日は始業式。7時30分、プラカードを立てて校門前に「出勤」。近藤順一さんが職員に手渡す手紙を携えて、駆けつけてくれた。2人で、それぞれ自分の手紙を手渡した。同僚たちは、「停職6ヶ月は不当だけれど、免職にならなくてよかった」と喜んでくれた。

8時25分、昨年と同じようにあきる野学園の職員打ち合わせと始業式に参加。「職員紹介」では職員の一人として私も紹介してもらった。私のことを心配してくれている生徒には、「6ヶ月経ったら、また戻るから大丈夫」と伝えた。

 7日は入学式。昨年担当した生徒の入学をお祝いしたくて学校に行った。本人も保護者もすごく喜んでくれた。