◆今回から裁判官が替わりました◆
【合田智子裁判長裁判官・井沢文子右陪席裁判官・山田直之左陪席裁判官】
≪矛盾し迷走する被告(八王子市)の主張≫
意図的に逃げているのか(?)
2001/11/8の第4回の法廷(事実関係でうそを認めた法廷)で、被告(八王子市)側は、わずか2枚の準備書面の中で『……学習指導要領には法的拘束力があり、……「日の丸・君が代」は学校で教え強制してよい。………原告の授業はこれらの目的から見ると適切でない……』と主張し、証拠として学習指導要領の写しを提出してきました。
しかし今回(第6回)の法廷には、紙にしてわずか半裁だけの準備書面(4)を提出し『…原告の行為は、学習指導要領の問題ではなく、……プリントを配布し、……校長の学校運営方針を批判するに等しい授業を行った』と主張してきました。
裁判に関してまったくの素人である私たち傍聴人でさえ、「なに? これ」と思わざるを得ないような矛盾した主張であり、質問していることに対して答えをはぐらかす国会答弁のような不誠実な態度しか感じられません。
西原博史教授は意見書で、旭川学力テスト事件において最高裁判所が下した判決をよりどころに、根津さんの授業はなんら違法なところはないと事細かに論証しています。
それによりますと「教師の教育の自由というのは、単なる市民的自由の権利というようなものではなく、子供の教育を受ける権利を満たすために必要なものととらえられるべきである。旭川学テ判決の中で最高裁も、教師の専門的裁量に基づく第一次判断権を認めており、根津さんの授業は、子供の思想・良心形成を援助するために必要な活動であったといえる。それに対して統制を及ぼす教育委員会の姿勢こそ、子供の思想・良心形成に対する違法な干渉が見て取れる」と言及しています。
西原教授は、子供たちが入学式・卒業式などで、判断の材料を提供されることもなく、実質的に「日の丸・君が代」を強制され、偏った自己形成をされていく恐れがあることを非常に危惧し、1999年8月13日に「国旗・国歌法」が公布・施行された後の2000年3月9日、新潟大学の成嶋隆教授(第3回石川中裁判に意見書を出していただいた)、筑波大学の内野正幸教授、国際基督教大学の笹川紀勝教授、福井大学の塚田哲之教授と共に呼びかけ人になり、「国旗・国歌は強制されるものではない」という研究者のアッピールを出されました。そこには100名に上る研究者が賛同しています。 (文責 編集部)
成嶋教授や西原教授の専門家の意見が非常にわかりやすいアピールですので全文を掲載いたします。
意に反して「国歌」を歌ったり、「国旗」を敬ったりする行動を、公立学校などが生徒や教師などに強制するならば、憲法違反の人権侵害になるおそれがあります。
国旗・国歌法によって、「君が代」が「国歌」、「日章旗」が「国旗」と定められました。しかし、この歌を歌わなければならない、この旗に敬意を表す行動をとらならければならないと決まったわけではありません。
国民一人ひとりは、憲法一九条によって、思想・良心の自由を保障されています。どのような形で自分の国と関わっていくのかは、自分で決めることであって、政府によって押しつけられるものではありません。この「国旗」、この「国歌」に対しては、民主主義・基本的人権・平和主義に合ったものかについてなど、いろいろな意見があります。それに対してどういう態度をとるのかは、国民一人ひとりが決める問題なのです。
卒業式・入学式などの学校の行事で「国歌」斉唱をプログラムに盛り込む場合に、歌いたくない人に歌うことが強制されたら、それは、人権侵害になります。ですから、「国歌」斉唱をプログラムに盛り込むためには、そこにいる人誰にも歌わない権利があることが伝わっていなければなりませんし、歌う人も歌わない人も、お互いにお互いの立場を尊重するべきだということが、はっきりと認められていなければなりません。
いろいろな考え方をもった一人ひとりの国民があわさって国を作っているのです。国が国民の心を好きなように作り上げていいわけではありません。
私たちはなぜ「国旗・国歌」の強制を憂慮するのか
全国の学校で、まもなく卒業式・入学式を迎えますが、文部省はいま、1999年8月13日に公布・施行された「国旗・国歌法」をたてに、卒業式・入学式での「国旗」掲揚と「国歌」斉唱の実施を強く「指導」しています。このことが、学校現場に大きな緊張をもたらしており、大きな規模での人権侵害が各地で生じることさえ危惧される状況です。
すでに「国旗・国歌法」施行後、全国で「日の丸」に敬礼しなかったり、「君が代」を歌わない人々に対し、行政上の懲戒処分などの法的措置をふくんだ、有形無形のさまざまな「圧力」が加えられ、これら二つのシンボルへの「同調」が強要されております。ここには、憲法上許容できない問題がいくつか認められます。
まず「国旗・国歌法」は、「日の丸」(=「日章旗」)を日本の「国旗」、「君が代」を同じく「国歌」と定めているだけで、国民がそれらを尊重しなければならないという義務の規定をおいていません。法案の審議の中でも、政府は「強制する趣旨ではない」と繰り返し答弁していました。現在進行している事態の中には、法の趣旨を明らかに超えるものがあり、法の意図をねじ曲げて国民に伝えようとする動きが見られます。
さらに大事なことは、もともと「国旗・国歌」あるいは「日の丸・君が代」をどう受けとめ、これらにどう向きあうかは、一人ひとりの個人が自己の思想・良心にてらして決めるべきだということです。国家という、自分が属する集団をどのようなものと理解し、どのようなシンボルによって象徴されるものと考えるのかは、一人ひとりの個人の生きざまに深くかかわる、人格的な問題なのです。そして、憲法19条は、思想および良心の自由が不可侵であることを定めています。国を愛する愛し方は、人それぞれであり、国家が「正しい愛国心」を一方的に決め、国民に押し付けていいような性質のものではないはずです。こうしたことは、「日の丸・君が代」に賛成する人でも納得しうる市民社会の約束事ではないでしょうか。
卒業式・入学式での「国旗」の掲揚とそれへの敬礼および「国歌」の斉唱は、一つのプログラムとして式次第に組みこまれ、これらに抵抗感を覚える人々が容易に抗えないしくみになっています。「同調」を拒む行為は、周囲から浮き上がり、「異端」のレッテルをはられさえします。そのことがもたらす精神的苦痛に、私たちはもっと敏感であるべきです。まして、精神的に発達途上にある子どもたちにとって、これらの行為が上から一方的に押しつけられることは、精神的に大きな重圧となります。良心に従って「日の丸・君が代」を拒否した子どもが、クラスメートからいじめられ、疎外されるような状況が、はたして「国旗・国歌への適切な理解」を生みだすでしょうか。「日の丸・君が代」に違和感を持つ人間を排除する発想は、日本で生活する外国人すべてを排撃する動きにさえつながりかねない要素を抱えています。
仮に「国歌」斉唱などを学校の儀式に取り込むにしても、歌うこと、そのために起立することを拒む権利は、憲法19条によって保障されています。自分の信条に反するような、祈り・敬礼の行いは、強制されてはならないのです。したがって、児童・生徒や、そこにいる親は、立って歌うかどうかなどを、自分自身の判断で決めなければなりません。そして子どもがその判断を下すためには、子に対する第一次的な教育権をもっている親の意見を聞く機会も必要でしょう。また、学校側からは、国家との関係のもち方は自分で答えを見つけ出すべき問題であり、それを考える枠内で「日の丸・君が代」に関してはいろいろな考え方が合理的に成り立ちうること、そして、どのような立場を採ろうとも、お互いにお互いの立場を尊重しなければならないことに向けた働きかけが必要となってきます。
教師も、そこでは思想・良心をもった一人の個人です。誰かが決めた「正しい国の愛し方」を子どもに有無を言わせず押しつけることは、学校の、そして教師の任務ではありえません。これは、最高裁判所が「子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤った知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法26条、13条の規定からも許されない」と判決したとおりです。文部省・教育委員会が、学習指導要領などを根拠として、特定内容の「愛国心」を子どもに一面的な形で押しつけるよう個々の教師に強要し、さらには職務命令と懲戒処分を「武器」として教職員に圧力をかけている現状があるなら、そこには、憲法上あきらかに許されないものが含まれています。教師の任務は、自分でものを考えることができる子どもを育成することにあるはずなのです。そのためには、寛容が保障された中で、教師も自らの思想・良心に忠実でありうる環境が必要になる場合があるでしょう。
私たち声明賛同者は、「国旗・国歌」をめぐって日本社会に浸透している不合理な「同調」への圧力を強く憂慮するものです。とりわけ卒業式・入学式における「国旗・国歌」の押しつけが、先に述べたような多くの問題点をはらみ、「荒廃」と「崩壊」が叫ばれている学校をいま以上に息苦しい場にしてしまうことに危惧を覚えます。
SEED1 意見書を読んで 杉本鋳彦(国立市)
根津さんが「考えましょう」と言ったことは、まったく正しい。生徒が教師の言うことに対して、ある距離をとって考えてみることが出来るようになることは、生徒にとって大きな利益であると私は考えます。
教師の言うことを丸暗記するのではなく、それからある心の距離をとって、生徒が自分の頭で考えるという習慣を身につけることは、生徒がこの世の中で生きていく上で大事なことである。
何かの宗教に説得されて高いお金で壺などを買わされた人がいましたね。壺を買わされるくらいなら、まあいい勉強とも言えるでしょう。しかし、オウム真理教の信者は地下鉄にサリンをまくことを指示されて、それを実行して多くの人々を殺したり病気にしたりしました。その行為が裁判にかけられているのに、オウム真理教の残党はしぶとく新しい信徒を集めている。
これらの新しい信徒は、どんな人たちなのだろう.おそらく人のいい人たちなのだろう。しかしこの人たちは、人の言うことを批判的に聞く能力を持っていないのだろう。
根津さんが生徒たちに「考えて見ましょう」と問いかけたことは、この危うい社会で、被害を受けないで生きていくために必要な態度を教えているのだと、私は思います。
SEED 2 舛田妙子
ハリウッド映画の中で観る裁判の公判シーン、特に最終弁論なんかすごく迫力がありますね。熱く論ずる弁護士さんはもちろん、それを裁く裁判官の存在感は何から発しているものなのでしょうか。常に冷静な態度を保ちながらも、正義を成し得る"人間"としての血が流れているから・・・。先日の石川中裁判を傍聴していて思った事。「聞こえにくいから声を大きくしてください」と傍聴席からお願いされているのに完全無視。背筋に冷たいものが走りました。この裁判官の体内には、赤い血は流れていない。ただただ、ロボットのごとく職務遂行するのみ、なのでしょうか。書記官の方が誠意ある態度で接してくださる事が救いですね。
SEED2 清水れい子
法廷というのは不思議な空間だと思った。
バッタ服(ぴったりなので使わせて!)の警備員が、4回目の裁判で突然現れた時もびっくりしたけど、今回のように居なくなるときも何の説明もないから訳が解らない。傍聴人が騒ぐわけでもないのに、一体、あのバッタ服達は誰からどのような指示を受けてあそこに立ち、あのような威圧的な監視をしたのだろう。
それにしても、今回、バッタ服は消えたし、警備員は後方で静かにしていたし、傍聴は気分がよかった! その上、前回、健康上の理由で身につけていたマスクやマフラーを取り外すよう命令された時の精神的苦痛を、裁判所の職員に伝えることができた。思えば当たり前のことだけど、職員はこちらの言うことをよく聞いてくれて、行き過ぎた警備の態度についても謝罪した。ひとりではとても言えなかっただろうけれど、何人かで、毎回根気よく声をあげ続けたせいだと思う。あきらめかけていた法廷の民主主義に少し光が見えてきた気がして、本当に嬉しかった。声をあげることの大切さと快感を知った貴重な体験だった。
SEED 4 森野晶人
私は根津公子さんが石川中学で生徒に「日の丸・君が代」にふれて考える為の授業をしただけで処分を受け、そのことに対して裁判を起こしていると聞いて、自分の中学、高校時代の先生達の授業を振り返ってみた。私の先生は近現代史の授業では、かつて日本が中国・朝鮮を始めとするアジア諸国に対して行った加害行為、「南京大虐殺」「従軍慰安婦」「731部隊」などの詳細な説明をしてくれた。社会保障では「朝日訴訟」を教材に、人権問題では「狭山事件」を教材にして、事実を直視した授業をしてくれた。私はこのような先生達のこのような授業で過去の経験から学び、未来に生かしてゆくことを教わった。それが本来人間として大切なことであり、この意識はこれから社会で生きてゆく為に絶対必要であると思う。根津公子さんもそのようなことを教えてくれる本当の先生だ。
さて、そのような思いから遅ればせながら今回の【第六回石川中裁判】を支援し、傍聴してみることにした。私は漫画「ナニワ金融道」や日々ワイドショーなどで取り上げられている「悪質セールスへの対処方法」などで法律の大切さ、裁判の大切さを学んだ。そして何度か地裁や高裁にも足を運んだ。そこで感じたことは、まず刑事事件では検事、弁護士、被告の三者がそれぞれの主張をし、それに対し反論なり答えを出す。そして裁判官はきちんとそれらを聞き、疑問点などを三者に投げかける。その上で判決を下す。民事裁判では主張者が原告、被告となるだけで裁判官も刑事事件と同様の対応をする。裁判とは本来こうでなければいけないのは常識だ。しかし今回の裁判では原告が被告に対し質問をし、答えを求めたのに対し、被告は「書面の方がいいので書面で後日」などという答えだ。簡易裁判所で扱う略式裁判ならそれも許されるかもしれない。しかしこれは、地方裁判所で扱う裁判で、扱う案件も一人の教師の職業が守られるか奪われるかの重大裁判だ。今回の裁判官三人に、【裁判を開く意義】についての見解を聞いてみたい。そして裁判官の声が小さいので「もっと大きな声でしゃべってください」との傍聴者の発言に対しては、無視である。日本国憲法第八二条第二項「国民の権利が問題となっている事件の対審は、常にこれを公開しなければならない」とある。ここでなぜ公開が定められているのか、それは傍聴人そして国民に裁判の内容を知らせることが裁判の公正を国民に監視してもらうことだからだと思う。それ故、裁判官が傍聴人に分かるように話すことは裁判官の傍聴人、そして国民に対する義務だと思う。今回の裁判官の態度はこの義務を放棄している。弾劾裁判を起こしたい気持ちでいっぱいになった裁判官三人であった。
さらに裁判所の職員も前回の警備法廷に対する疑問に対して答えず逃げるという姿勢だ。とても国民のために尽くさなければならない公務員の態度ではない。そして国家公務員法第九十六条【服務】「職務の遂行に当たっては、全力を挙げてこれに専念しなければならない」にも違反している。このような状況がまかり通る裁判所ではいけない。国民の権利行使の保証のためには【裁判所改革】が必要だ。
SEED 1 田島紀美子
4月11日、その日は根津さんの裁判の傍聴に行く日だった。
娘、夏樹が南多摩高校1年生で、当日は身体測定のため2時登校なので、夏樹も一緒に根津さんに会いに行った。1時、東京地裁八王子支部到着。夏樹は、中一の時、根津さんのクラスの生徒だった。それ以来夏樹は根津さんが大好きになり、高一になった今でも、時々電話やファックス、メールで連絡を取ったり、お宅に遊びに行かせてもらったりしている。「夏樹が根津さんを大好きなのはどうしてだろうか?」と思う。子供の話をよく聞くことができる人、相手の気持ちを思いやることができる人、変だと思うこと・納得できないことをうやむやにしないで、たとえ相手が上司であってもはっきり自分の意見を言える人、自分の考えを押しつけない人、強制されることに反対する人……、色々考えてみた。でも、一番は優しい人だということかなぁと思う。夏樹は2時までに学校に行かなければならなかったので、裁判が始まる前に帰って行った。裁判を傍聴できるいい機会だったのに残念だった。私は夏樹の高校受験のため、久しぶりの傍聴(3回目)だった。傍聴席に入る前に、「強制反対・日の丸・君が代」とプリントしたTシャツを着ていた傍聴人に、裁判所職員が「Tシャツを脱ぐか上着を着るしかしないと傍聴席に入れない」と言って口論になっていた。以前、手書きのスローガンはダメだがプリントされたものはいいと聞いていたのに……、変なのと思った。
傍聴席に入り、裁判が始まるのを待っていたが、なかなか始まらなかった。時間は過ぎていたのになぜだろうか。「裁判官入廷なので起立するように」と言われた。私は、立つべきか、立たなくてもいいのか、と判断に迷った。やはり立つべきなのだろうと中腰になりかけたところで終わってしまった。後で聞いたところによると、権力が起立を強制することへの抗議として、立たないという運動(?)をしているとのことだった。私ってなんて無知なの(?)そういう考えもあるんだと思った。私も強制されるのはキライだから、次回は立つまいと思った。
裁判官は、前の人と代わっていた。今回から代わったのだそうだ。裁判官が代わったことについて、なぜだろうと思った。根津さんには説明がなかったのだろうかと思ったら、何もなかったとのことだった。説明が何もないのも変だと思った。新しい裁判官は、声の小さな人で、せっかく傍聴に来ているのに、話がほとんど聞き取れなかった。大きな声で話して欲しいと、傍聴席から声が上がったが、裁判官は最後まで小さな声のままだった。傍聴人に対してとても失礼な裁判官だと思った。
裁判の内容は、書類のやり取りで終わって、特に記述することもないが、私が裁判を傍聴した印象は、裁判所って変なことの多いところだということだ。私の常識からしても変だと思うことがたくさんあるし、なんといっても傍聴に来ている人に対して、きちんと内容の分かる裁判になっていないのが、一番変だと思った。変だと思うことに対して黙っていられない根津さんにとって裁判そのものに対しても抗議したいことがたくさんあるだろうなあと思った。
今回は、大阪の[子どもたちの人権と教育を考える大阪市ネットワーク]のみなさんの活動をご紹介します。そもそもこの会と本会との関わりは、根津さんがこの会で根津さんに対するファシズム攻撃の実態を報告されたことから始まりました。その後、[子どもたち
の人権と教育を考える大阪市ネットワーク]のみなさんには、当会の会員がやっている「オブジェクションTシャツ工房」のTシャツをたくさん買っていただき、結果として「石川中裁判を支える会」にたくさんのカンパをいただきました。
以下、ネットワークの笠松さんの通信です。
◆◆子どもたちの人権と教育を考える大阪市ネットワーク◆◆
笠松正俊
保護者・市民と教職員のスクラムで結成
国旗・国歌法強行の前後から高まった、卒業式・入学式の「日の丸・君が代」強制反対の学校申し入れ活動をつないで、大阪市教育委員会への要請行動に取り組む目的で、大阪市ネットは、'01年6月に結成しました。現在の会員、約70名の過半数は保護者ですが、当初から教職員の個人参加も含まれています。
教育委員の中に「つくる会」推薦なし
結成直前の春から、歴史教科書採択問題が起こりました。戦争賛美の「つくる会」本の大阪市での不採択運動に全力で取り組みました。申し入れ、会議の傍聴、公文書開示請求、要請はがき運動、そして回答要求の市役所門前ビラなどを続け、7月の採択会議の場で教育長の「教育委員の協議においては、『扶桑社』が国際協調の精神にかけ、近隣諸国との友好関係を損なう恐れがあることも考慮しなければならないとの意見も出て、それを積極的に推そうという声は出なかった。」という公式声明を表明させました。
君が代強行に、内心の自由の保障を迫る
「全国一低い!」という文部科学省の圧力に屈して、大阪市教委は今春、君が代の全校実施に動きました。昨年12月に「日の丸・君が代」強制反対の申し入れを行い、指導部の係長と1時間にわたるやりとりをしました。「子ども・保護者・教職員の不起立や不斉唱で、今後も不利益はない」「日の丸・君が代が侵略の象徴だった歴史は教えるべきだ」との回答を引き出しました。表向き表明ではあるが、この回答を資料として示しながら、以降各学校への申し入れ活動を広げていきました。
卒・入学式の実態は、回答に反する校長を通じた君が代の強行と、回答を基に子どもたちの内心の自由の学校としての保障を求める、保護者申し入れや教職員の取り組みとの攻防でした。公文書開示請求・市教委要請と各学校申し入れを結んだ私たちの取り組みは、子どもの人権のために学校を開いていく第一歩を踏み出しつつあると感じています。
書籍紹介 ミサイルの代わりに書籍を(モフセン・マフマルバフ)
『アカ』 川上徹著 筑摩書房
…ヒューマンな青年教師たちを「アカ」に仕立て上げた長野県教員赤化事件は、あまりのも今日の教員統制と似ている。なぜ私たちは学ばないのか!
『あのころはフリードリヒがいた』 ハンス・ペーター・リヒター著 波少年文庫
上田真而子訳
…この作品は1966年に書かれている。1925年に生まれ、ヒトラー政権下で従軍し左手を失った作者が、戦後どのような思いでこの作品を書いたのだろうか?
世紀が変わった世界のこの暴力情況をどうみているだろう。そして、今日の日本のこの"壊憲"情況は『あのころはフリードリヒがいた』頃のドイツの"ヒトラー前"となんと似ていることだろう。
皆さんはそれぞれの暮らしの場で、根津支援・石川中裁判支援に繋がることをなさっているのではないでしょうか? 機関紙「ほうせんか」では、そういう「ほうせんかの種」の発芽情況を皆さんにお知らせしたいと思います。どしどしお知らせください。