提訴にあたって

根津公子

 今の社会状況を「戦争中と同じ」と言っても「まさか!」と思われるかもしれません。でも、私はよく似ていると思います。

私が処分された1999年は、別名、戦争協力法と言われる日米新ガイドライン法が成立した年でした。国旗・国歌法も成立しました。それまでも(10年前から)文部省は「日の丸・君が代」を卒業・入学式に実施することを強制していましたが、これを機に、強制は熾烈を極めました。

国立市では、胸に小さいリボンをつけた、ただそれだけで、教員が大量に処分されました。「なぜ校長先生は日の丸を揚げたのですか」と質問した第2小学校の子どもたちは、街宣車70台で連日押し寄せた右翼から脅され続けましたが、市教委はこれを放置しました。市教委が、子どもの安全よりも何を優先したかが見えてくるでしょう。

卒業式を機に国立市教委は、それまで子どもが主人公の民主的な学校であった国立市の学校を、校長の指示・命令だけで動く学校につくり変えようと、まずは教員にものを言わせない、そのために教員を徹底して管理することを始めました。学校の職員会議に教育委員会の人間が同席し、職員の発言を監視するとか、「校長の意に沿わない」教員を校長がルールを無視して異動させようと画策する(10年までの異動は本人の希望で行う。強制的に異動をさせてはいけない、という確認がある。)とかが、校長・教育委員会の連携プレイで起きています。

また、都教委は全国に先駆けて、昨年12月に「指導力不足等教員の要綱」をつくりました。「等」とは一言で言えば、私のような校長にとって目障りな教員を学校から追い出し、「研修」3年を経てクビにできるという制度ですが、年度切り替えの4月には、この新しい要綱を適用され、学校を追われる教員が出てきます。

 今まさに、戦争前夜です。70年近く前、中国侵略開始にあたってまず政府が手がけたのが教育でしたが、軍国主義教育を徹底するために教員を弾圧し、特高警察が網を張った時と、いままったく同じ様相を呈しています。現在ではその当時の教育を一般に「軍国主義教育」と言い、マイナスの評価をしますが、当時多くの人々には悪という認識はなかったようです。温い湯から徐々に温度を上げても蛙は熱くなったことに気付かないそうですが、70年前も多くの人は「危ない」とは思わなかったそうです。危ないと思い、行動した人は牢につながれました。「歴史は繰り返す」と言いますが、現在もまた、いまの日本を「平和憲法で守られている平和な日本」と思い込んでいる人が多いのではないでしょうか。徐々に、しかし、もうかなり危ない方向に向かっていることに気づいてはいないのか、あるいは、自己の利益のために気づいていないふりをしているのか…。ひとたび自らが社会と主体的に関わっていこうと行動した時、また、事件や事故の被害に遭った時、「個人より国家優先」の仕打ちに遭遇し、はじめて社会が危なくなっていることに気づかされるのかもしれません。

 私は、おかしいことをおかしいと言い続け、「日の丸・君が代」にまで触れてしまったために繰り返し処分を受けたのですが、その中で実感として社会の危なさに気づかされてきました。また私は、今年多摩市立多摩中に異動になりましたが、地域や職員の意識の違い、そしてここ1,2年の戦争前夜のような世の動き、とりわけ前述した教員攻撃とが相まって、いつ学校から追い出されても不思議ではない状態に置かれています。明日の身分は保障されない、というような空気をひしひしと感じます。

このような社会の動きの中で、私への処分もまた、今までとは違い、これまで踏み込んできてはいなかった領域へ踏み込んでの処分でした。授業内容については、判例では、事実に誤りがない限りにおいて最大限、教師の自由裁量を認めています。ですから、都教委は私を処分できなかったのです。しかし、八王子市教委はその線を超えて私を処分しました。また、処分後、「根津には反省がないから」(秋山校長及び和田参事発言)として、市教委の指示で校長が授業の監視をしたり、「自作のプリントはすべて使用2日前までに見せ許可を得ること」等の職務命令を出したことも、それまではなかったことでした。本来なら、処分は最終決着のはずで、さらにペナルティを課すことはできないはずです。

教育委員会がよりどころとする法をもってしても、今までは処分不可能であったことを、今日は処分にしてしまう。さらには、自分たちに都合のいい法規をつくって処分を可能にしてしまう。これも70年前と同じです。彼らは権力を濫用して国家に楯突く者への制裁に全力を注いでいます。

私は、それに対して黙っているのはやめました。まだ、ものを言っても生命の危険までには及んでいない今、今ならまだ言える、言わないで言えなくなる時を待つのはやめようと思ったのです。独立しているはずの司法も現実には政府にべったりですが、それでも、「裁判を受ける権利」を利用しようと思いました。

おかしいことには「おかしい」と声を上げていこう、周りの人たちに、「一緒に考えて!」と呼びかけたいと思い、提訴することにしました。ごまめの歯ぎしりかもしれませんが、この裁判を通して今の学校教育をたくさんの人と考えていきたいと思います。私が石川中に在職していた時の元生徒たちに対しては、授業の続きでもあります。自分の頭でよく考えて、主張していこうと思います。

 最後になりましたが、私が「日の丸・君が代」にこだわる理由を述べます。

 歴史的な問題もありますが、では「日の丸・君が代」でなければいいかと言うとそうではありません。どんなものでも押し付け(られ)たり、考えることや議論を禁止し(され)たりすることは、あってはならないことだと思います。上に位置する者が下に位置する者に対して一つの価値観や行動を押し付けること、またそれを下に位置する者が受け入れ、異なる少数者を切り捨てていくこと、そしてまた、その過程で考えることも論議することもせず、あるいは意識的に避け、上意下達・命令服従の中にすっぽり組み込まれ、指示どおりに行動してしまう、そのことが恐いと思うのです。

まさにこのことをテーマにした授業が、処分を受けた私の授業でした。処分にあたった和田参事も秋山校長も、命令服従の構造の中に組み込まれ、上に対して忠実に、あるいはすすんで「職務を遂行」した成果が私への処分でした。彼らは気づいているでしょうか?気づいても、地位やお金のためにはしてしまうのでしょうか?

昨年、雪印乳業株式会社が起こした食中毒事件で考えてみましょう。品質保持期限を過ぎた売れ残り品を回収し、日付ラベルを張り替えて再び製品として売っていたことが明るみになりました。会社組織として、上司が指示し、生産ラインの従業員がこれに従ったわけですが、彼らは食中毒が起きることを心配しなかったのでしょうか。個人でならば、考えるまでもなく悪いとわかるこのような行為を行う人はまず、いないでしょう。しかし、会社の中で、「仕事」として行う時、善悪を判断することよりも指示・命令に従うことを優先してしまう。「悪いこと」「おかしいこと」とは思っても、組織の中ではそれを言えない。大勢の従業員の中に一人として、これを告発する人がいなかった、ということだと思います。(「日の丸・君が代」は政治的問題として遠ざける人たちがいますが、)非政治的な問題についても、このとおりです。命令・服従の中に組み込まれてしまうことの恐さを端的に示しています。

こうして見てくると、「日の丸・君が代」を強制することは卒業式・入学式の年2日間だけの問題ではなく、毎日の生活で人権が尊重されるか、民主主義が生きているかという問題であることがわかると思います。最大の犠牲者は子どもたちです。このことが学校を舞台に展開されているのですから、教員という職にある私としては、避けて通ってはいけないと思うのです。避けて通ってしまうということは、また、強大な力に対しては逆らわない生き方が是であることを無言のうちに、子どもたちに示すことになるとも思います。

今回の私への処分に際し市教委の和田参事は、「生徒に、国旗・国歌については考えさせてはいけない」「(一般には)一つのものを押し付けるのはよくない。しかし、国旗・国歌の意義を教えるためには(国家が良しとする)一つの価値観を押し付けることが必要だ」と言いました。私は、これは国家による偏向教育だと思いますから、これに荷担しないよう「日の丸・君が代」の事実を子どもたちに提示していきます。

和田参事のことばには、「日の丸・君が代」の狙いと問題点が、さらには教育に対する国家の狙いが端的に表れているのではないでしょうか。

彼らは、「日の丸・君が代」処分に費やすエネルギーを、「学級崩壊」「切れる子ども」「不登校」「いじめ」などの子どもが発するSOSを受け止めることになぜ、使わないのでしょう。

(人権を尊重し、民主主義を生かそうとする集団をつくることが、こうした問題の解決につながると、私は思うのですが…。)

どうぞ皆さん、一緒に考えてください。

   

裁判で主張したいこと

次に、処分が不当であることと私の主張を記します。

1・プリントの記述も授業も事実に基づく正当な教育活動だ。

 @(豊田被告のことばが)「卒業・入学式に日の丸を掲揚せよ、君が代を斉唱させよ」と、教委から指導された全国の校長のことばと同じに聞こえませんか。思考は同じ、だと思いませんか。」と記述したことが問題だと市教委は言うが、実態を見れば、これが事実であることは明白です。

 「やりたくないという気持ちはありました。しかし、指示された以上はやるしかないと思いました」「正しいとか、間違っているとか考えるのではなく、上からの指示には自分で判断するべきでない、無条件に従うべきもの、という思考が徹底していたのです。」「指示を実行することで頭がいっぱい」「被害者のことなど考える余裕がない」。これは豊田被告のことばです。一方、校長の多くは「日の丸の掲揚・君が代の斉唱」について次のように言います。「日の丸・君が代について私(校長)個人の考えがどうこうではない。学習指導要領に明記されているので校長としてはやらねばならない」「公務員は法に従う義務がある」「上司の命令には、従うのが校長の職務だ」と。

 上に位置する「麻原」を「教育委員会」に、「被害者」を「生徒」に置き換えると、いまの「日の丸・君が代」の実施を指導された校長たちのことばに重なるではありませんか。構造的に見ると豊田被告も全国の校長も上意下達の中にすっぽり組み込まれていることがわかります。

ところで、一人の教員のものの見方を問題提起として紹介して、どこに問題がありましょう。しかも、このプリントは、事前に校長に見せ許可を得たものでした。

A「職員会議の内容を生徒に示し」たことも市教委は訓告の理由に挙げていますが、プライバシーの侵害にならない限り問題はないはずです。教育活動、ことに学校行事についてはいずれも職員会議で論議の上決定し実施するので、学校行事が近くなると子どもたちから質問が出たり、教員から話したりします。これが一般的な進め方です。

この時の授業の中で私は生徒からの質問に答えて、「校長先生は日の丸を三脚で掲げ、君が代をテープで流す、と職員会議で言いました」と、その事実のみを言ったまでです。事実を伝えて問題はないはずです。また、生徒たちからすれば、「子どもの権利条約」第13条「情報の自由」を保障される権利を有しますから、生徒の質問に対し、正確な情報を与える義務が私にはありました。

また、もし私が子どもたちに聞かれて、「知らない」とか「答えられない」あるいは「子どもが口をはさむ問題ではない」と答えたとしたら、子どもたちは何と感じたでしょう。教員あるいは大人は子どもにまともに向かい合うべきです。

B @、Aをもって「校長の学校運営方針を批判するに等しい授業」が問題だ、と市教委は言いますが、@に道理があり、Aは事実なのですから、授業を展開する中で全国の「校長の学校運営方針を」間接的に「批判する」ことになったとしても問題はないはずです。問題なのは、批判や話し合いを許さないことです。上に位置する人の行為については批判は許さない、というならば、戦前と同じです。授業において話し合いやその中で生じる批判を禁止してしまったら、考える授業は成立しません。

 ただし、私はこの授業を、卒業を目前に控えた子どもたちに、指示待ち人間ではなく、自分の頭で考え、判断し行動していってほしいと思い、最後の授業として組み立てたものであり、上記@については間接的に「全国の校長を批判する」(処分書)ことになったかもしれませんが、それを目的として行った授業ではありません。

 国家に都合の悪いことは言わせまいとする八王子市教委の措置は、教育内容への「不当な支配」介入(教育基本法第10条)です。

2.教育の目的は「真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび〜自主的精神に充ちた〜国民の育成」(教育基本法第1条)にある。

戦前の教育は事実をねじ曲げ、国家に都合がいいことだけを教え込み、都合が悪いことは隠すということを国家権力を使ってしてきました。戦後すぐに文部省自らが「軍国主義教育」と言い、墨塗り・切り取り教科書の対象にしたのは、戦争賛美の内容と「日の丸・君が代」・天皇でしたが、戦前の文部行政はこれを子どもたちに、毎日毎時間刷り込んできました。

そして子どもたちは、のちの話にあるような、「天皇様はうんこもおしっこもなさらないの?」というような疑問を持ってはいても、教員に聞くことも許されず、そして異なる意見が世に存在するなど知るすべもなく、軍国少年・軍国少女になっていきました。

こうした戦前の教育の反省に立って制定されたのが教育基本法です。第1条を達成するには子どもたちに、事実の提示をすること、国家や学校に都合が悪いことでも事実を隠さず提示すること、そしてその事実を基に考え、意見を交し合う教育活動を行うことが肝要です。このような教育によって子どもたちは考える力・真実を見抜く力、批判力を身につけていきます。

教育行政がすべきことは、それを保障する条件整備です。

3.「考える力」を叫ぶ文部省・教委が、「日の丸・君が代」だけは「考えさせてはいけない」と言う矛盾。

 文部省が知識の詰め込み教育を反省し、「個性豊かな人間の育成」「考える力」を掲げるようになって10余年が経ちます。しかし、現実はますます悪化しています。その一因は、「考える力」と言いながら、学校生活の中で子どもから考える機会を奪い、「考える力」の芽を摘み取っていることにあります。

中学生の丸刈り強制はさすがに廃止されましたが、標準服の事実上の強制をはじめとして必要性が疑問視される校則がほとんどの学校にあります。しかし、ほとんどの学校でそれに異議を申し立てる機関や規約はありません。そういう環境に置かれて子どもたちは、考え、解決する喜びを体験することなく、諦めだけを会得していきます。「考える力」を育てることと逆行することです。「考える力」をつけたいならば、まず、子どもたちにとって身近な問題でやってみるべきでしょう。校則の問題は主権を学校・教員から子どもたちに返すべきです。これは文部省・教委の指導によって起きていることではありませんが、知っていて放置しているのは同罪です。現に丸刈り強制については、文部省の談話があって廃止に至った経過があります。

「考える力」を奪うものの2つ目に、「日の丸・君が代」の実質、強制があります。

「子どもが批判精神を持つことはいい」。しかし、「学習指導要領に明記されていることを、考えましょうと生徒に呼びかけることは許されない」。そしてまた、「(一般に)一つのものを押しつけるのはよくない。でも、国旗・国歌は学習指導要領で実施するものとする、と大前提がある。意義を教えるためには一つのものを押しつけることが必要だ。」と市教委和田参事は言います。

これは,非政治的問題については自由を与えるが、政治的問題、ことに国家権力の重大な行為については一切の批判を許さない、国家権力には従わせるということに他なりません。国家が定めた一つの価値観だけを子どもたちに植え付け、疑問を持つことも許さなかった戦前の、治安維持法下の教育と違いがないではありませんか。

いままだ、「日の丸・君が代」については世論を二分する考え方があり、社会問題化していることを、中学生ともなれば子どもたちもそのことを知っています。しかし、自分の通う学校では何の説明もなくこれらが実施される。子どもたちがここから学ぶこと、それは大人社会の不正義です。大きい力には従うということです。また、「日の丸・君が代」問題を知らない幼少の子どもたちはものごとを鵜呑みにしてしまい、自分の頭で考えることを知らず、かつての軍国の子に育ってしまうでしょう。。

文部省・市教委は「考える力」を育てたいのなら、「日の丸・君が代」の実質強制を止めるべきです。子どもたちに「日の丸・君が代」の歴史的事実、今日的事実や課題についての学習と、自由な討論を保障すべきです。

4・私は再び軍国の子どもを育てないよう、教育にあたっている。

前述したように、考える力を育てるべき学校教育で考える力を奪うことをしています。戦前の教育が考え批判することを許さず、一つの価値観だけを植え付けることにより軍国の子どもを育てたことを考えると、現在同じようなやり方で「日の丸・君が代」を学校教育を使って子どもたちに浸透させようとしていることに危機を感じます。私は再び同じたがを踏むまい、踏ませまいと思います。それは教員としての責務だからです。

また、日本人は自分の意見が言えない、自己が確立していない、と国際社会からも指摘されていますが、これも考えることに重きを置かずにきた学校教育に一因があると思います。昨今の少年犯罪の裏にも、意見が言えない、自己が確立していないなどの背景があると思います。

ですから、私は教員として、教育公務員として、子どもたちに事実を提示し、事実の中から子どもたちが考え、判断や批判ができるような教育活動を行おうと心がけてきました。子どもたちは、考える機会と材料があればしっかりと考え、自分のものにしていく力を大いに持っています。

15才の春をいろいろに迎え、中学校を卒業していく子どもたちに、最後に一番伝えるべきこと、私の伝えたいことは何かを考えた時、「自分の頭で考え、行動していってほしい」ということだったのです。

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