停職出勤日記

2006年

 7月3日(停職「出勤」日記 番外)

鶴川二中への出勤第1日目。「おはようございます」。不安を払いのけるように声を出して、職員室に入る。挨拶を返してくれる人が何人もいる。案内をされて着いた私の席には、「ようこそ鶴川二中へ」と書かれた紙の上に、花びんに差したつつじの花が置かれていた。うれしかった。張り詰めた気持ちが少し、楽になった。4月3日、新年度の仕事始めの日に入った時も感じたが、職員室には一昔前の温かさがまだわずかに残っている雰囲気がある。前夜、私の思いをつづった「鶴川二中の職員の皆様」への手紙を職員一人ひとりの机上に配り、朝の職員打ち合わせに臨んだ。そして、一言挨拶をさせてもらった。この時の皆の表情も和やかで、安堵した。

その後は、生徒の朝会へ。そこで校長が私を紹介してくれたので、私も一言話させてもらった。

「『君が代』で起立をせずに停職になったことも、停職中、学校の前に立っていたことも、何でするの?へんなやつ!と思った人は多いでしょうね。今まで皆さんは目にしなかった風景ですものね。でも、変なやつ!で終わらせずに、なぜ?って訊いてきてください。意見があったら、言ってきてください。100人いたら100人考えは違うものです。人間はお互いに話を交わし、考えを深めることができます。それは自分を成長させると思います。いつでも言ってきてくださいね。1年間どうぞよろしくお願いします」と。

 授業は、昨年までと同様、T1・T2の2人体制。うち、1年生を私がT1で担当するよう言い渡された。出勤1日目はその授業の打ち合わせやら準備で瞬く間に終わった。

 2日目、初めての授業。3年生の授業はT2として、教室に身を置く。T1では、1年生の1クラスで、年間計画に予定されている「食品の選択」について授業をした。やっぱり落ち着く。こうして1週間が瞬く間に終わった。

 これから先、何があるかはわからないけれど、温かさのある職員室で「やっていけそう!」と思える。

6月30日(金)


今日は停職最後の日。立川二中に行った。プラカードには、「今日で停職が終わります/励ましをありがとうございました/大勢の人が言うから正しいとは限りません/鵜呑みにせず、異なった意見に耳を傾け、自分の頭で考え、判断していきましょう/お元気で」と書いた。

不当な停職処分に抗議し闘い続けることができるのも、授業でかかわった生徒たちの励ましがあったからのこと、一人ひとりにお礼を言いたいとの思いで朝も帰りも挨拶を交わした。
「ぼくたちの卒業までいてほしかった」「応援しているよ」「がんばって」「停職が終わって、おめでとうございます。町田の学校でもがんばって」「今までお世話になりました。ありがとうございました」等々言ってくれた。


こんな会話もあった。


生徒:「また、二中に来るでしょ」
根津:「卒業のお祝いのメッセージは贈るよ。でも、来るのは今日が最後よ。まさか、来年の停職中にここに来るわけには行かないでしょう」
生徒:「来年も停職か! でも、その時来て」
根津:「あなたたち、卒業しちゃうじゃない」
生徒:「そうしたら、ぼくたちが門の前に来るから。A高校に行けば、すぐ来れるもん」

二中の生徒たちからすごい元気と励ましをもらった。もう、これだけで十分うれしいのに、まだまだうれしい、力の与えられることがあった。
一つは、3ヶ月前に卒業したEさんが来てくれたこと。3年生のFさんが帰り際、「E先輩が一昨日も根津先生に会いたいって、ここに来たよ」と告げてくれたが、いかんともし難い。そうこうしているところに「間に合った」と駆けつけてくれたこと。もう一つは、八王子時代の教え子Gさんが来てくれたこと。国際関係学を学ぶ学生で、昨年の10月、ホームページを見て励ましのメールをくれたのが始まりだった。

私と直接接した生徒・かつての生徒からの励ましは、何にも勝るエネルギーになる。私の仕事をほんとうに知っているのは授業や活動をともにした生徒たちだけだから。だから、その生徒たちからの励ましは、どんなにひどい攻撃にも耐えられる力となる。それは、体験済みだ。多摩中に異動して1年目に起こされた校長・教委・地域・PTAが一体となった攻撃に、ぼろぼろになりながらも耐えられたのは、八王子で同僚たちと築いた教育活動への確信と、何よりも当時の生徒たちが、その後も私たちの実践を評価してくれ、窮地に立つ私を励ましてくれたからであった。もしもあの時、元生徒からの励ましがなかったら、私の今はなかった。私はこうして困難を乗り越えさせてもらい、強くもしてもらってきた。
幸せいっぱいの気分で帰宅すると、Eさんからメールが届いていた。またまた、力を与えられた。Gさんに、お礼のメールを入れた。そしたら、その返信に、またまた力を与えられた。本当にありがとう! これで、来週から鶴川二中に胸を張り元気に行くことができる。
お二人のメールを、本人の承諾を得て、掲載します。

Eさん:「今日、根津先生に会えてとてもうれしかったです。いつもなら、部活終わりが17時を越えてしまい、二中正門に行っても会う機会がなかなかありませんでした。今週は、試験1週間前の部活停止期間。今週中には会えるだろう。そして、先生の出勤も最終週だと思っていました。やっとのことで会えたわけです。
先生自身はこの3ヶ月は長かったのか、短かったのか、どう思っていますか。

3ヶ月間も門に立ち、看板を立てて、抗議。自分なら3ヶ月もやれないと思う。先生は自分の意志を曲げずに貫き通したのだから、すごい!
前回・今回と処分は厳しくおかしな処分だけど、もっと職員に対する考慮というものはないのかと思う。

厳しい停職や減給。学校の異動人事。とことん苦しめないといけないというのは、あまりにも理不尽だと思う。

『踊る大捜査線』ではないけれど、職員が現場でちゃんとやっているのに、生徒たちに教えない会議室で話す偉い方なんかに分かるはずが無い。根津先生は、二中のみんなが応援してくれていたし、分かっていたはず。今日だって『がんばって』と励ましてくれていたし。中学校は先生主導だけど、先生を判断するのは生徒自身。生徒の意見が尊重されるべきだと思う。
長々と書いてしまいましたが・・・。すいません。では、3日から鶴川二中で教員として頑張ってください。そして、鶴川二中の生徒に根津先生の授業が出来ることを。」

Gさん:「(前略)先生と直に話せたし、先生の周りにはいろんな方のサポートがあるということが生でわかって、すごく嬉しかったです。様々なことを勉強させてもいただきました。大学で平和学を少しかじって、先生のやっていることは本当に「平和学習」なんだなって実感しました。先生の生徒さんとの触れ合いや、昨日お会いした社会人の方々をみて、平和的方法の過程で得られるものってこれなんだ、って。ガンディーも個々では小さくても、でもたくさんのサポートに囲まれてました。(後略)」

 朝、出勤途上のHさん(保護者)と挨拶を交わすことができ、最後の日にお礼が言えてよかったと思っていたら、何とHさん、帰宅時には冷茶を差し入れてくださった。強い日差しではなかったが、それでも一日中コンクリートの路面にいると体が熱っぽくなる。ほてった体に、冷茶のおいしかったこと! 何よりも、お心遣いがとってもうれしかった。Hさん、ありがとうございました。
 3日から、がんばろう。

6月29日(木)
午後から都教委教育情報課長及び担当者と、9回目の質問への回答、話し合いを持った。記者から撮影したいと申し出があり、私たちは密室でのこのやり取りが公開されるのは願ってもないことで、承諾した。ところが課長は入ってくるなり、「カメラマンには頭撮りを許可したのであって、これ以上の撮影はやめてほしい。これはお願いです」と言う。いつもは、「情報課の判断での回答は控える」と言うのにこのときばかりは、「教育情報課の判断」であり、回答を控える「条文や理由はない」と言う。「都庁内の全ての撮影を禁止してはいない。石原都知事は積極的にカメラに出ている」(趣旨)と、開き直りとも思われることも言った。「私たちは撮ってもらいたいので、肖像権の侵害には当たらない。そちらは公務で行っていることなのだから、撮影して何の問題があるというのか。都教委の流したいものだけを映像にする『大本営発表』・情報の独占はおかしいではないか」と追及したが、撮影は認められなかった。
しかたなく、本題に入った。

@「停職3ヶ月――セクハラや体罰が何度も起これば、重大な影響があるが、不起立でどのような重大な影響があったと言うのか」A「停職3ヶ月処分を決定するに当たって、都民の世論をどう考慮したのか」 について課長は、教職員課の回答だとして次のように答えた。「人事委員会、裁判係争中なので、回答を控える」。説明責任は、本人はもとより、都民に対してもあるだろうが・・・。

 「私は処分発令の3月31日にも、抗議と質問をしようとした。しかし人事部長は、私の声をかき消し、処分書を読み上げると、私を部屋から追い出した。今は、人事委員会に審査請求をしているから『回答を控える』と言う。では一体いつなら答えてくれるのか、くれたのか。このまま来年、さらに加重処分を迎えるのではたまらない。答えてほしい」と私は訴えた。参加者それぞれが思いを訴えた。その最中、課長は、「職務命令には従うもの」と言うと、立ち上がり、「終わります」と言って、部屋を出て行ってしまった。事態を呑み込むのに、1、2秒を要した。これが職務に責任ある対応と言えるだろうか?課長は職責を果たしたとお思いだろうか?と思った。

 ヒラのDさんは課長について一度部屋を出て行ったが、引き返してきたので、来週の予約を申し入れた。私たちは都教委に、どこまでも対話を求める。
 終了後、庁舎前を通る人にチラシを手渡した。

6月27日(火)
鶴川二中へ。ここに立つのも今日が最後、近所のいつも挨拶を交わす人たちにそのことを告げ、お礼を言った。Aさんはご自宅に案内してくださり、「通勤4時間はきついから、いつでも泊まって」と言ってくださった。有難いことです。

昼過ぎ、毎日のようにここを通られる女性が、いつもはいぶかしそうにプラカードを見ていくのに、今日は、「聞きたいことがある」と言ってこられた。4月の初めには、プラカードを見ていられたので、話しかけたら、「ふん!」と言っていかれた方だった。

 「君が代は天皇をたたえる歌ではあるけれど、国歌なのだから、また、先生なのだから、反対でも起立すべき。起立して、歌わなければいいではないか。」とおっしゃる。しかし、話しを進める中で、「私は君が代を歌うべきではない、歌うな、と言っているのではないですよ」と告げると、まず、非常に驚かれた。「強制することに反対しているんです。自由を奪われ、民主主義が破壊された社会は恐ろしい。自由も民主主義もない、北朝鮮のような国にしたくないんです」「君が代について生徒には歌詞の意味も何にも教えないで、起立斉唱をさせるのは間違っていると思います。親が子どもに、『いただきます』をしつける時だって、なぜかを話して子どもを納得させるでしょう。それをしないのは、教育ではないですよ」と私が答えたことに、彼女は共感された。「君が代」で免職もありうることを告げると、すごく驚かれ、「ひどい。がんばってくださいね」と最後は、私を激励してくださった。とってもうれしい出来事だった。

 この女性はご自分から聞いてくださったので、誤解が解けたのだが、ステレオタイプ式に決め付け、対話を拒絶する人がいかに多いことか。人が100人いれば、100通りの意見があることを前提にして、意見を交流し、深め合いたいものだとつくづく思う。

 下校時間帯の終わり頃、Bさんとオーストラリアの映像作家Cさん夫妻、それに新聞記者が到着。Bさんが歌を歌ったこととCさんがビデオ映写機を回したこと(私を撮っていたのだが)で「気味悪い」との訴えがあったからと、副校長が「やめるよう」言ってきた。「不審者」ではないことは明白なのに、私を撮影しているだけなのに、生徒が映ってしまったところは使うはずがないのに、このような騒ぎ方をされるのは、何なのだろう。4月初め校長は私に「ここに立つのはやめてくれ」と2回、言った。このとき私は、精神的には私は抹殺された、と思った。そのことと重ねて推察するに、今日ここにBさんCさんがいること自体が気に食わないのではないかと思った。

生徒の成長を真に考えたなら、一方的な情報を流し、他の情報には触れさせないというやり方は、やめるべき。異なった情報に接することから、思考は始まるのだ。もっと、子どもを信じたらいいではないか、と思う。「かわいい子どもには旅をさせよ」と言うではないか。世界の教育を知れば、日本のこれが、非常識であることは容易にわかることでもある。

6月23日(金)

都庁でチラシまきと情宣。

チラシには、私が起立できない理由を主に書いた。今日も13人の方が参加してくださった。

6月22日(木)

鶴川二中へ。報道関係の仕事をされているFさんの取材を受けた。

そのあと、初めての方Gさんの訪問を受けた。近所にお住まいで、2週間ほど前に通りかかられ知り合いになったHさんのご友人とおっしゃる。Gさんのお住まいもここから徒歩圏とのこと。

Gさんご自身は「『君が代』を、日本人皆の幸せを願う自然なものとして歌う」とおっしゃる。「でも、強制はよくない」とも思われる。

私について、なぜ立たないのだろうと不思議に思われ、直接会ってみたいと、訪ねてくださったのだった。

好奇心旺盛、ご自分の目で見、頭で考えるスタンスの、魅力的な女性。話しはやがて、操作された情報や事実の見極めについてに及び、何事も自分の目で見、頭で考えることが大切であること、自分の考えと違う人を排除するのではなく、違いを論じ合うことに意味があるということで大いに一致した。

午後はHさん母子が、帰りがけに立ち寄ってくださった。お子さんは私にお菓子を二つ、差し入れてくれた。自分のおやつを分けてくれたのかな?

ところで、ここのかなりの生徒は、私の行動を見て、「へんなやつ」と思っているのかもしれない。でも、そこでピリオドを打たずに、なぜ、どうして?の疑問を大きくし、社会を覗いてほしい。せっかく出あった事実にしっかり目を向け、考えるきっかけにしてほしい、と思う。

6月21日(水)

調布中(2003年度)への異動控訴審判決が出された。

異動要綱は「法律、規則でも条例でもなく、・・・内部的指針に過ぎない」のだから「その行使は都教委の合理的な裁量に委ねられており」、通勤時間が異動要綱の定める90分を10分や15分超えても構わないという、不当判決。

同じく不当判決ではあったが、「異動要綱に合致しない転任処分については、特段の事情がない限り、裁量権の逸脱があると推認され」ると原則は一応押さえた、Eさんの控訴審判決および私の地裁判決(いずれも05年)から大きく後退している。

今回の控訴審判決に沿えば、都教委が、異動要綱に通勤時間を明記する必要も、いや、異動要綱それ自体を作る必然性もなくなってしまう。都教委の裁量、すなわち、都教委の意のままに行うと言うのだから。

実際、2003年7月都教委はさらに異動要綱を改悪し、「通勤時間120分」「1年ごとの異動可」とした。「校長に楯突く教員は・・・1年ごとにどんどんぐるぐる回」せ、と米長教育委員が発言したそのままがいま進行している。

私が鶴川二中へ異動させられたのは、このサンプルみたいなもの。1日4時間を超える通勤時間は当事者にとっては、日常的懲罰そのもの。それはさておいても、1日の交通費は2000円。税金の使途として、大いに問題だ。

6月19日(月)

立川二中へ。午前中一時雷雨。あとは、真夏を思わせる日差しだった。

生徒たちに「おはよう」の声をかけ、出勤途上のいつもの人との挨拶を終え、JRのレール破断についての本(安田浩一著)を読んでいた。人影に気づき顔を上げると、プラカードを見て青年が立っている。

青年はプラカードを指差し、「僕も全くこのとおりだと思います」と。左利きのことを教員にとがめられた体験があり、そこからわかったことが、「先生だから正しい、偉いのではない。先生も一人の人間に過ぎない」ということ。だから、「指示だから従うものとは思わなくなった」と言う。

彼は八王子のA中、B高校出身ということで、一層親近感を持った。今日読もうと思って持ってきた、私の停職「出勤」日記が掲載された「戦争と性」25号(谷口和憲編著)をプレゼントした。

今日のプラカードには、「君が代」不起立停職3ヶ月処分は不当です/憲法19条 「思想および良心の自由はこれを侵してはならない」に違反すると思います」「『君が代』について説明さえせずに起立させる。『指示には考えずに従え』というに等しいことです」と書いていた。

午後はCさん(教員)の訪問を受けた。偶然にも彼女が小学校で担任したDさん姉妹が二中に転校してきていて、彼女はDさんたちとの再会も果たした。

今日は5時間授業で、明日は定期テスト。だから、下校時刻が早い。「今日は早く帰って試験勉強をしよう。来週、ゆっくりおしゃべりしようね」と言いながら、やっぱり、1時間も入れ替わり立ちかわりでおしゃべりを楽しませてもらった。「二中に来て皆に会うと元気が出るよ」とふと漏らすと、「えっ、そんなふうに言われるとうれしい!」と。JRのレール破断についての本を見つけ、「読みたい!」と、一人の生徒が借りて帰った。

生徒たちが皆下校して5分も経たないところへ、今度は卒業生の訪問。学校にも私にも用事があってのことだった。彼女とは、歯医者さんの予約時間ぎりぎりまでおしゃべりをした。

相手(友だち、家族)を想う優しさに触れ、私の心もあったかくなった。

彼女からもらった私宛の手紙を、家まで待ちきれず、信号待ちの車中で読み、幸せに浸った。元気200%の帰路だった。

6月16日(金)

恒例となった都庁前でのチラシ配りと訴え。「都庁で働く皆さんのお仕事の中にも、都民の幸せには決して繋がらない、と思われることがあるのではないでしょうか。そうしたことをぜひ、都民に晒してください。内部告発をし、ともに、都民の幸せに繋がる行政、教育行政をつくっていきましょう」と訴えた。

そしてその後は、私への処分を決める際、提出した署名がどのように扱われたかについて、質問してきたその続きで、都教委教育情報課の担当者と会った。

すでに提出していた5つの質問に答えをもらうことから始まった。今回も人事部職員課の回答を、教育情報課の課長が読み上げる。およそ回答とは言えないものなので聞き返すが、教育情報課には、それ以上の権限はない。

私たちはさらに、「職務命令が憲法違反でないかどうかはどこでチェックするのか」「職員課は都民の世論をどう考えているのか」などについて答えてほしいと要請してきた。

今日は雨だったため、昼近くになっても、ホームレスの人たちが動けずに庁舎前に大勢いらした。こうした風景は、常にこれを目にしている都の職員には、どう映るのだろうか、と思った。これでも、「平和な日本・平和な東京」と認識してしまうのであろうか?

夕刻、20年以上前の教え子にばったり遇い、しばらく立ち話をし、私はその中で停職であることを告げた。彼女は、東京の「君が代」処分について知ってはいなく、びっくりしていたが、「先生、曲がったことは、だいっ嫌いだったものね。今、そういう先生が少ないよ。がんばって」と、妙に納得していた。

彼女は私のクラスではなかったのになぜ、そんなふうに感じていたのかと訊くと、「授業を受けたらわかるわよ」。「化学調味料の授業は、今も忘れない。今も周りの若い子に話しているのよ」とも。懐かしさとともに、さわやかな気持ちになった。

6月15日(木)

 立川二中へ1週間ぶりの「出勤」。「おはよう、お久しぶり」の挨拶。遠くの方から手を上げて歓迎してくれる生徒。走り寄って、修学旅行のことを報告してくれる生徒。登校時だけでも私は元気をたっぷり分けてもらった。

2年続けての校門前「出勤」なのに、初めての出会いがいまだにあるものだ。今日声をかけてくださった60代の女性は、犬の散歩で時々ここを通られていたと言うが、今日が初対面。「日本の状況、ひどくなる一方なのに、皆、自分の得にならないことには、黙っていますからね…。」「大人社会を見れば、子どもが親殺しをすることだって、不思議じゃないですよ」とおっしゃる。「大人が道理ある行動をしたら、子どもは見ていると思います」と私。同じ思いをもっている人は、かなりいるものだ。

都立高教員のIさんの「もの言える自由裁判」を傍聴するため、午後は、「休暇」。

そして夜は、私と河原井さんの停職を心配した友人たちが開いてくれた「40秒で停職なんてとんでもない」集会に参加。250人もの人が集まってくださった。

6月13日(火)、14日(水)

 鶴川二中へ。両日とも、車のスピードを徒歩ほどに落とし、私を観察する車がかなりある。出てきて、疑問をぶつけてくれればいいのに、と思う。

 私はいつものように、知り合いになった人たちと挨拶を交わし、時間に余裕のあるおじいさんとは長い時間を共にし、昔話を聞いたり歓談したり。

14日の昼下がり、おじいさんとおしゃべりをしているところに、通りかかられた70代の女性が声をかけてくださった。脇には図書館のラベルのついた本を3冊抱えていらっしゃる。少女だった戦争中のこと、戦後、一人の労働者として闘いに立ち上がられた時のことを伺った。

そのご自身の体験から、現在を「戦前」と断言される。「戦争はもう、こりごり」、と心の底から噴き出すことばを聞いた。おじいさんも、「そうだ、戦争はだめだ!」。

女性は、私にカンパの申し出をしてくださった。ご自分のことのように感じてくださったことに、私も熱いものがこみ上げた。

同じ自民党国会議員であっても、戦争観、政治観が、戦争体験者と非体験者とで大きな違いがあることに示されるように、道行くお年寄りの多くが、今を「危ない」とおっしゃる。

月曜日まで出かけていて、小倉の松本清張記念館に寄った。最後のインタビュー記事が紹介されていた。「その飽くなき好奇心の根源にあるものは何ですか」と問われ、「『疑い』だね。…体制に対しても疑うし、学界的に偉い人が言ったことでも鵜呑みにせずに疑ってかかる。…もう少し加えて言うと、歴史にしても社会現象にしても、上から見ないで、底辺から見上げること」(1992)と。全くそう思う。

6月9日(金)

都庁前での情宣、チラシ配りは今日が7回目。その後教育情報課に行くのは、8回目。3ヶ月前から出してきた署名の扱いについての質問と、その回答を求める中で出てきた新たな質問への回答を求め、今日その時間設定をお願いしていたが、ファックスで「部屋の確保ができなかった」と断ってきた。私たちは、教育情報課長に署名を提出しがてら、私たちの気持ちを伝え、「部屋でなく、廊下の隅ででもかまわない」「今の時点で答えられるものだけでいいから答えてほしい」と直接要求をした。今日回答をもらうことは叶わなかったけれど、夜、次回の設定打診が教育情報課からファックス送信された。

継続は力なりか。「これ以上の処分をするな」の署名提出総数は、今日11回目で18063筆。


6月7日(水)

鶴川二中。門前に立つ私をビデオ撮影するため、Bさんが来られた。私を撮っているだけなのだから肖像権の問題はないはず。出てきた副校長にはその旨話したので、誤解は解けたと思っていたら、そうではなかった。近くの公園で早お昼を済ませ戻ると、私の自転車とプラカードを硬い表情で見ている人たちがいた。「町田署の者」とおっしゃる紺色のジャケットを着た男性、駐在所のおまわりさん、そして女性が二人。保護者ということだった。

女性に声をかけると、「ここを退いてほしい」とおっしゃる。「私は、都教委のやっていることが 教育に反すると思うから、起立できないのです。学校で起きたことでの処分で、私は間違ったことはしていませんから、ここは退けません。なぜ、私がここにいてはいけないのか、その理由をお聞かせください。また、私の気持ちも聞いていただきたいと思います」と私は答えた。しかし、話はされずに帰られた。「子どもたちが、どういう人に育ってほしいのか」「どうすることがすべての人の幸せにつながることなのか」を基軸にして、この問題について意見の異なる人たちと語り合っていきたいと切に願う。

 「君が代」処分は、私個人だけのことではなく、東京で起きている、しかも生徒たちが生活する学校で起きている身近な社会問題なのだ。生徒は、その渦中にある私を見て、社会を知る一助にすることはあっても、動揺などしない。

法令もまた、子どもを社会問題から隔離せよなどとは言っていない。子どもの権利条約は、子どもの「知る権利」を謳い、学校教育法は「中学校の目標」として、「(生徒に)公正な判断力を養うこと」を掲げている。公正な判断力は、社会問題から遠ざけられていて育つはずはなく、また、選挙権を持つ20歳になって突然身につくものでもない。小さい時からことあるごとに身近な社会問題に触れ、考える材料と意見を交わす機会が保障されることによって可能となる。世界を見渡しても、それをさせない国は、情報操作をする独裁政権国家くらいのもの。「先進国」と言われる国で、子どもには触れさせない、という国は日本以外にどこにあるだろう。
 国際社会でよく日本人は、「自分の考えを持たない」と笑われるが、それも、社会問題を子どもたちから遠ざけ、また、大人社会ですら日常会話にしない、その結果ではないだろうか。

 私の行為を、「排除」に動くのではなく、社会問題の材料の一つにして、意見交流をしたらいいじゃないか、と思う。そうすることによって、子どもたちの思考も深まるはずだ。好き嫌いの感情で判断するのではなく、ことの真理に照らして考え、意見を交わしてほしい。私も異なった意見に耳を傾けたいし、私の考えも聞いてほしい。
 「君が代」で起立しない私の気持ちを知っていただきたいと考え、夕刻鶴川駅前で、個人名を入れて書いたチラシを道行く人に手渡した。ディスカッションを大事にする校風を持つC高校の生徒たちの中には、「ください」と言ってくる生徒が多数目立った。

6月5日(月)

立川二中へ。韓国の新聞社のAさんの訪問を受けた。インタビューに応じている時に下校時刻が来てしまい、インタビューは一時中断。次々に立ち寄り、あるいは挨拶してくれる生徒たちと今日も楽しいひとときを過ごした。積もる話のある生徒。教室で書いたお手紙を、ポケットから差し出してくれた生徒。登校時に会ったから、帰りにプレゼントしようと思ったのだそうだ。またある生徒は、お客さんに遠慮し、気を遣って、「また今度。さようなら!」と帰っていった。「今度いつ来る?」―「木曜日、かな」何度も何度も答えた。今週末からの修学旅行、皆元気で行って来てね。

 記者のAさんに、「韓国の人は自分の考えをしっかり言い、またそれを行動に移しますが、なぜできるんでしょう」と尋ねた。彼女は、きっぱり、「独裁政権を倒し、民主化を進めることができた体験が大きい。希望が見えるからたたかうのです」。たぶん30代半ばであろうAさん。ものすごくすがすがしい表情をされた。当時高校生(?)だったAさんの、感動の体験であり、生きる基本になっているのだろう。そう、私も"希望"を捨てないから、行動しよう、と思うのだ。

6月2日(金)

 教育基本法改悪の特別委員会を傍聴した。途中席を外したので都合、民主党3人と共産党(よく聞こえなかったので、たぶん)1人の質問を聴いた。

民主党議員の一人は、「連合国の関与で作られた屈辱的な教育基本法。全く新しいものを作るべきと思うがどうか」と言い、一人は「生命の大切さは教育上の大きなテーマ。宗教を生命と結びつけたのが民主党の法案の意義。政府案は粗雑だ」と言った。「教育勅語はすばらしいが、しかし…」に続けて、公式見解を言わざるを得ない政府側答弁を超える、民主党の主張。もう一人若い女性議員は、出生率の低さは個人の問題ではなく雇用や社会保障の問題、と指摘は正しいが、しかし、ここでの質問主張ではないだろう。

3人の質問を聴いていて、これじゃあ、与与党。委員会を開いたというアリバイつくりへの加担?!と思った。教育理念をめぐって質の高い論議ができない国会及び委員会の質を高めるために、傍聴や国会前座り込みをしたり、はがき・ファックスを送ろう。

(たぶん)共産党の議員は、憲法と教育基本法の関係や憲法9条と教育基本法前文から「平和」が削除したこととの関係性等を指摘し、また、来年度から行われようとしている全国一斉学力テストの予想される弊害を、すでに行われている東京都を例に挙げて批判した。今日唯一の指摘だった。

終始その場で配布された資料に目を通さず、また、だらしのない座り方をし、緊張感のない議員が目についた。この議員たちに、自身の「道徳心」を尋ねたかった。国民を愚弄するが故のこの態度なんだろうと感じたから。

夜は日比谷野外音楽堂で行われた「教育基本法改悪反対全国集会」に参加した。参加者3000人とのこと。

6月1日(木)

 鶴川二中へ。昨日に続き快晴。朝から気温は高い。運動会の予行をフェンス越しに、一人で、あるいはご近所のいつもの人たちと見学した。

5月31日(水)

 鶴川二中へ。今日はとってもうれしいことがあった。

下を向いて書きものをしていたら声をかけられた。見上げてとっさにどなたかわからない私に、「この間の」と名乗ってくださった。先週「ここに立つのは迷惑」と怒りをぶつけた一人の保護者だった。あの時とは180度違う表情に、わかるはずがない。「今日はお一人ですね」とおっしゃるので、「私を訪ねる人が時々いますが、これは私の思いからの私一人の行動なんですよ」と言い、私が起立できない、教員としての理由を話した。きちんと聴いてくださった。きっと真面目な方なんだろうと思った。ぜひお互いに意見を交わしたいと思い、「時間のあるときにぜひお立ち寄りください」とお願いした。人の考えは千差万別ではあるが、人の誠意は考えの違いを超えて通じるもの。違いを擦り合わせ、互いの固定観念を緩め、そうしたらきっと何かが生まれる、と思う。気持ちを込めてお礼を言い、すがすがしい気分で後姿を眺めた。

昼下がり、お子さんの下校を出迎えたかと思われる若いお母さんが私のプラカードを見ていることに気づき、私は近寄って自己紹介をし、プラカードに書いた「学校は一つの考え(=国家の考え)を押しつけるところではありません。知り考え、意見を形成するところです」を指して、起立しない理由を話した。

「私は君が代は歴史的に見ても憲法との関係からも問題だと思います、でも、嫌いだから着席したのではありません。強制する、一つの価値観を押しつけることに反対だから着席したんです。私は自分が好きなことでも全員がそれを強制されるなら、拒否します。自由であることが大事ですから。一般には『個性の尊重』と言いながら、『君が代』では個性や個人の意思を認めないのはおかしいと思います」と言うと、

彼女は「全くおかしいですよね。これ(処分)はいじめですね」と怒っていた。そして私のささやかな行動に「ありがとう」と言ってくださった。

小学2年生と言うお子さんが、話しに興味を示し、「自分がやられていやなことは人にしちゃあいけない」とずばり。

今日も、近所のおじいさんや日課で散歩される方と、長いこと話をした。

5月30日(火)

午前中立川二中の運動会を見学させてもらい、子どもたちの弾けるようなエネルギーをいっぱいに浴びて、午後は私たち東京教組(=義務制)の「君が代」処分撤回の人事委員会審理に出席した。八王子市立N小校長(=04年3月当時)に対する尋問が行われた。

都教委代理人は校長に、「国旗に向かって起立し斉唱すること」との職務命令を発したかを確認するのみ。それさえ立証すれば、職務命令違反→非違行為→懲戒処分の正当性が担保されると言うもの。悪法や命令を以って侵略戦争に突き進んだ過ちを踏まえてなおかつ、この職務命令が教育理念に照らして正当であることを展開すべきが、そんなことなど一顧だにしない破廉恥な輩。校長や都教委には「君が代」を子どもたちに、考え判断させずに強制することが教育行為かどうか、その説明責任を果たしてほしいものだ。

 私たち請求人側の尋問に校長は、「困った時には職務命令を出せと市教委から言われた」と言い、また、子どもの卒業を祝うことよりも儀式をきちんとやることの方が大事なのか、と問われ、「そうです。儀式が大事」と言ってのけた。何と言うことか!

また、不起立したAさんについて校長が書いた事故報告書にも唖然とした。「八王子市、東京、日本の教育にとってマイナスである」と書いたと言う。17日の人事委員会審理で「都教委は事故報告書をどう書いたらいいかわからない校長のために、事故報告書の書き方見本を参考として配っている」(=趣旨)と証言していたが、その見本をはるかに超えたこの「校長所見」。

子どもを祝うことよりも儀式をきちんと執り行うことに価値を置く校長に、子どもたちの日々の息遣いが届くはずがない。若くして校長に上り詰めたこの校長は、今は区教委指導室長っだと言う。

今日は板橋高校の藤田さんになんとも不当な判決が下りた。教頭の証言を100%採用し、藤田さんや生徒たちの証言を「虚偽」とした上に成り立つ判決。

5月29日(月)

 都庁「出勤」。私のほかに12人が参加。年休を取って来てくださった人も。感謝です。

8時、出勤する都庁職員にチラシを手渡し、「君が代」強制と処分について訴え、「皆さんのお仕事の中にも、都民のためにならないと思うことがあるのではないでしょうか?都民のための行政となるよう、声を挙げ、行動していきましょう」と語りかけた。今日で6回目、ご自分から手を出してくれる人が増えたような気がする。

 10時半からは私たちが提出してきた署名(=私や河原井さんにこれ以上の処分をするな。解雇をするな)の行方と扱いについて、都教委教育情報課から回答をもらうことになっていた。今日は通算7回目。

会場の階でエレベーターを降りると、制服の警備担当者3人の姿が目に飛び込んだ。部屋番号を知らなくても、警備の人で部屋の方向が分かる。前回は私たち10数人と同じくらいの人数の、物々しい警備だったので、苦言を呈したからか、今日は私たちから見える人数は少ない。でも、物陰でスタンバイしていることは聞かずとも分かる。

1時間後終わって部屋を出たところで、ここ第1庁舎にはいるはずのない第2庁舎都教委の、いつもにわか警備となる若い職員とばったり出会ったりもした。私たちは大きな声など出さない。丁寧にことばでやりとりするだけなのに、声を荒げるのは決まって都教委の課長だというのに、なぜ、警備なのか? それも超過剰警備。こんなことに都民の税金を使うのは止めてもらいたいものだ。

 部屋に入ると当然いるはずの教職員課長の姿がない。私たちが第1に求めていた「担当所管との対話の場を設定してほしい」との要求に、「教職員課長と折衝中」と聞かされていたので、人事部教職員課長が同席し、所管部署として責任ある回答をくれるのならと、私たちは都教委の意向どおりに回答を3週間も待ったのにだ。3週間は時間稼ぎだったのか?回答の前にまずそこを質した。教育情報課長は、「要請、苦情は情報課が対応するシステム(したがって教職員課長は出席しない)」と、初回だった3ヶ月前からまったく進展のない回答を読み上げる。

「私たちの思いを伝えてくれたか。どう伝えたか」と聞けば、「伝えた」と言う。「どういうことばで伝え、それに対してどういうことばで返事があったのか、ことばどおり再現してほしい」と言ったら、ことばでは一言も言っていないことがようやく判明。書面だけでのやりとりだと言う。書面を補うことばをなぜ使わないのか。担当所管に要請者の思いが伝わっていないのに、なぜ、さらにやりとりをしなかったのか。まったく納得できない。教育情報課長は、教職員課とやりとりに使った書面を私たちに郵送することは約束をした。

 あと2つ、署名の扱いについては「内部手続きなので回答を差し控える」。累積加重処分については、「反省と再発防止(研修)を促しているにもかかわらず同様の非違行為をしているときに…(累積加重処分は)裁量である」。

これについてはほとんどやりとりができなかった。職員課の書面回答を見た上で、次回聞き質そう。私たちは都教委にどこまでも対話を求める。

5月27日(金)


今日は入学式での不起立者5名(すべて高校)に対しての処分発令日。都教委への抗議と不起立者への激励に参加した。70名以上の人が駆けつけていた。今回初めての不起立者が2人(=戒告)。考えながらの2回目の人が3人(=減給1ヶ月)。都教委が凄まじい攻撃をしていることを承知で新たに決意し、不起立不服従行動に出る人が続くことは、希望であり、強固な連帯だ。今回処分を受けた人が言っていた。「定年までの年数を考えたら、ここらでやらなくちゃと思って」「当然のことをしただけです」。

5月23、24日
2日続けて鶴川二中へ。二日続けて文句を受けた。
23日1件目。「あんた、日本人か!」。顔を上げると60代後半位の男性。答える間もなく続けて、「ふん、君が代…国歌だ!」と吐き捨てるように言い、去ってしまった。
2件目。近くにお住まいのBさんが私を訪ねてくださっておしゃべりをしているところに一人の女性が歩を止め、突然大きな声で感情を荒げて、「Bさん、ここで何してんのよっ。こんなことにかかわるのやめなさいよ」「ホームページを見ると右翼がやってきたというからここにも右翼がやってくるかもしれないでしょ」と言う。どうも私のことを非難し、その非難の矛先を顔見知りのBさんにぶつけているようなので、私は自己紹介をし、話を引き継いだ。右翼が直接学校を訪ねたり、私と会ったりはしていないことを言い、私がここに立っているのが迷惑なのは、右翼が来るかもしれないからなのか、立っていること自体がなのか、と訊いた。その人は「立っていることが」と言う。さらに、「静かな住宅地に似合わない」「保護者としては、怖い。気分が悪い」と。「保護者、ではなくて、保護者の一人であるあなたは、ですね?昨年の新聞調査では、都民の70%は処分付き強制に反対でしたから」「気分が悪い、似合わない、ではなく、きちんとお話をしましょう」と伝えた。
24日には、近所の老人や訪ねてくれた友人たちとおしゃべりしているところに、気づくと3人の女性(=保護者OB2人と保護者1人だとのこと)が険しい表情で私のプラカードを見ている。近寄って自己紹介をし、「何かおっしゃりたいことがあるのですか」と尋ねると、「ここに立たないでほしい」と続けざまに言う。訳を尋ねると、「教員なのだから子どものことを考えなさい」「国歌なのだから起立すべきだ。歌うまではしなくてもいいが」と。「私は教員だからこそ、こうしているんです。社会で起きている事実を子どもたちが知ることはいけないことでしょうか」「国歌だから起立と、なぜ自明の理のように結論づけるんでしょう」と一言聞き返したところで、少し前から暗くなっていた空から雨が落ち始め、3人は去ってしまった。私は背後から、「またいらしてください」と声をかけた。この人たちが「子どものために」と言うことと、私の言うそれとはどこがなぜ違うのか、どういう人に育ってほしいと望んでいるのか、両者の意見を出し合い、語り合いたい。相手の意見を聞き、考え合う作業が必要、と思うから。
人通りの少ない鶴川二中の前ではあるが、今日も初めての方二人を知った。お一人とはじっくり立ち話をした。もうお一人は立ち止まって、「ご苦労様です」と丁寧に頭を下げられた。

5月22日(月)
立川二中へ。久しぶりのお日様。今日また初めて声をかけてくださった方が二人。自転車から降りて「(処分が)ひどいもんだね。軍国主義と同じだよ」と、おじいさん。もうお一人は、車の窓を開け、大きな声で「がんばってくださーい」。
卒業生のAさんが立ち寄ってくれた。自分の体験から一人ひとり違っていい、同一性を求めなくていいと思うのだと言う。いつも優しさとさわやかさを漂わせているAさんの、これまでを聞きながら、乗り越え獲得してきたことの大きさとともに、それまでの辛さ(=常識が幼い心に載せた重石)を思わずにはいられなかった。子どもは幼くても人格を持った一人の人間であることを、Aさんは語らずとも、知らしめる。マイナスの体験をプラスに転化させたAさんのことばに心から納得した。私が「君が代」の強制に体を張って反対するのは、個性や人権を否定し、同一性を強要する社会にさせてはならないと思うからなのだが、Aさんの感じ方と共鳴するところが多少でもあったのかな。Aさん、いい時間をありがとう。
午後はほかに訪問者2組4人。学校は、運動会まであと5日。1日中運動場がにぎやかだ。放課後練習時は、門の中と外とでおしゃべりを交わし、放課後はいつものように。1週間の始まりに今日も元気をもらった。

5月19日(金)

都庁での情宣活動。今日も14人が参加してくださった。その後教育情報課に行き署名を836筆提出してきた。締めて、17136筆。17日の臼井人事部長の証言からすると、これだけ大勢の人の声も「斟酌したが、量定にいれなかった」と言うのか? 29日の回答の場(10時30分から。設定済み)では、まともに答え、また、担当部署の回答できる人を同席させてほしいと念を押してきた。

その後、国会前の座り込みに、夕方からは多摩教組の総会に参加した。

5月18日(木)

立川二中に。

「停職『出勤』日記」をご覧になったという父子が来てくださった。21歳の息子さんは中学生の時、信仰から起立を拒否された。その時クラスメイトに殴りかかられたという。殴った生徒にとってはは知らされない故の無知、そして、「正義感」からの行為だったのだろう。

教員たちが黙っていたら、学校はこうした「少国民」を生み出すことになってしまう。黙っていることは、強者に荷担すること。自覚したい。

今日は取材を受けた。放課後は生徒たちとわいわいがやがや、愉しませてもらった。

5月17日(水)

今日は全日「君が代」の人事委員会審理。

被処分者合同で都教委近藤精一指導部長、臼井勇人事部長(いずれも当時)に対する尋問だった。組織や校種を超え、一丸となって取り組むことは都教委にとっては、脅威だろう。団結を見せつけられたのだから。被処分者の会の皆さん、ありがとうございました。

近藤精一元指導部長と臼井勇元人事部長、二人とも、「職務命令は校長に出した。だが、『職員に対し、職務命令を発せよ』とは言っていない」と逃げ切ろうとした。

◆近藤精一元指導部長尋問:

氏は10.23通達を出した担当部長。

10・23通達をなぜ出すに至ったかを訊かれ、「学習指導要領に沿ってほしいと願った」と言う。学校現場に抵抗が強い、その理由をまじめに考えたことがあるかと問われても、「学習指導要領」。

戦前の教育の反省から生まれた教育基本法には触れずに学習指導要領しか言わないが、学習指導要領の全てが正しいと言えるのか、と問われると、「戦前のことはわからない」。

また、「指導・助言」を超えて校長に職務命令を出すことは法に触れないかを検討したかと訊けば、「法のことはわからない。対策本部と各部で検討してきたはず」。

横山教育長(当時)らが随所で言ってきた「日本人としてのアイデンティティー」に触れ、一つの考えを学校現場に及ぼすことの妥当性を訊くと、「(それが)特定の考えではないと信じている」。

無理矢理立たせることは生徒の内心の自由を侵害することになりますよね、と問えば、「教育の方法としては無理矢理はいけない」とは言うものの、「憲法の問題としてはわからない」。

わからないままに通達を出されたのではたまったものではない。

語尾不明瞭、なるべくなら答えたくない、という様子だった。

◆臼井勇元人事部長尋問:

氏は懲戒処分を決定する責任者。近藤部長と性格は対照的。ちょっと追及されると居直り、投げやり的な口調になった。氏も「公教育の根幹は学習指導要領」と言った。

10・23通達は都教委による教育への関与(介入)が考えられるが、検討したか、と訊かれ、「指導部で検討したと思う。こちらでは詳しくは検討していない」。責任逃れの、なすり合い。

04年3月の処分は、「分限審査委員会を開かずに書類を持ち回り、押印した」だけ。不起立者の思い等は「斟酌したが量定に入れなかった」。それは斟酌しなかったということ。外形的行為だけで処分を決めたということだ。立つか立たないかの行為のみ、あとは一切関係ない!と聞こえる。

「入学式を前に」(見せしめ的に)早くに処分発令をしたかったとも。

東京だけの加重処分については、「裁量権者の問題。裁量の範囲」だと言う。触法の危険があると「裁量」にシフトするのは、都教委の常套手段だ。

何と言うことか!教育的視点の微塵もない官僚たちが付いたハンコ一つで停職3ヶ月。十分想像はしていたが、こうぬけぬけと言われると、改めてはらわたが煮えくりかえる。

上意で動くこの人たちには、上意が学習指導要領ならば、学習指導要領。そのまま受け入れる。考える、という行為はない。そうやって政治や行政が動いていることを多くの人に知らせよう。

なお、この傍聴に40人もの都庁職員が動員され、傍聴のくじを引いた。時間とお金を使って傍聴に来た人たちを入れさせないためでしょう。傍聴する権利を奪うことが職務なのかどうか、この職員たちにも、ご自分の頭で考えてもらいたい。

5月16日(火)

午前中は鶴川二中に。今日も副校長はプラカードの文字を写真に収めた。雨で濡れて書き換えただけなのに、一目見て違うと気づくのだから感心する。「3ヶ月が終わったところでその記録写真をくださいね」とお願いした。

学校のすぐ近所に住まわれる保護者OBの方が友人から聞いたからと訪ねてくださった。午後から教育基本法の国会審議の傍聴ができることになり、出発しようとしたところに、オートバイが止まった。若いカップルだった。横浜から私を訪ねてくださったのだ。ゆっくり話をする時間がなくて、お二人には申し訳なかったし、残念だった。

午後は国会を傍聴をした。教育基本法改定の趣旨説明とそれを巡っての各党質問。提案は半世紀経って、社会の変化や教育・子どもをめぐる問題が起きている現状に合わないからというもの。趣旨説明とは言えない趣旨説明を補強する自民党下村博文議員の質問。例の通り、「不登校、学力低下、凶悪な少年犯罪…どれも戦後教育にある。改正は自民党結党以来の悲願だった」と脈絡なく切り出した。

他方、共産党石井議員と社民党保坂議員は改定の問題点を指摘し、質問された。

@「国を愛する態度とは、戦争することに忠誠を誓えということだ」――答弁:「子どもを戦争に追いやるものではない」と言うが、その裏付けはなし。

A「議論を尽くしたというなら、その会議録を出すべき」――「政府は答える立場にない」。都合のいい逃げことば!

B「愛国心で評価評定するのは再び非国民を作ること。歯止めがあるというならそれを示せ」――「生徒に強制するものではない。教員は指導する立場にある。内心の自由を侵害するものではない」。7年前に聞いた答弁だ。

C「不当な支配とは、誰が誰にするものか。どこで判断するのか」――「この法律…に定めるところにより」と政府案の条文を読むだけ。誰が誰に、どこで、には答えず、これも逃げた。「愛国心」はもちろん問題だが、この条項が最も問題だ。教育行政が教育内容を決めてもいいことになりそう。報道は、ここの問題点を「愛国心」と並べて報道してもらいたい。

D「国家神道を復活させる意図はないか」―― 「一般的な宗教観を教えるもので神道ではない」。戦前神道を宗教と区別し、学校に入れてきた歴史を見たら、「一般的な宗教観」=神道であることは明白であろうに。

E「全体の奉仕者、を削除した理由は」――「私立学校も含むから」。ということは、学校の忠誠度に応じて助成金の額に格差をつける、特色のある私立校は切り崩すという、国立学校にしたと同じことをするということか?! 

 理由や証拠を示して答弁してもらいたいものだ。趣旨説明にも答弁にもならない政府の対応をしっかりたたき、広め、緊急に反対する声を大きくして行かねば。これを通してしまったら、全国の教育が東京状態になってしまうから。

5月12日(金)立川二中
 佇む私を去年も今年も見ていて、声をかけるまでに時間がかかる人は多いのだろう。「前から声をかけようと思っていて」と、一人は出勤途上の方が自転車を止めて、もう一人は年配の方が話していかれた。「こうして社会に明らかにしてもらうと、よくわかります」「やっているうちに、わかってくれる人が多くなっていくんじゃないかな」。それぞれ異なった時間の会話なのに、偶然にも、お二人の言われたことは同じことだった。そう、私の「出勤」行動は、直接的には都教委に対しての意思表示であるけれど、それを通して、社会に、保護者に生徒に事実を提示し、問いかける行為でもある。
 今日も下校時間帯は何人もの生徒が話しこんでいき、楽しい時間をもらった。Dさんは、風邪で部活を休んだと言いながら、久しぶりだからと、Eさんも一緒にながーく話しこんでいった。今日は暖かかったからいいけれど。
 北海道のFさんが、そのために昨晩の便で上京され、校門前に訪ねてくださった。

 今週で3ヶ月停職の半分が過ぎます。


5月10日(木)鶴川二中
 先週は来なかったパトカーだが、今日は再開か、いつもの時刻にゆっくりと通った。副校長はカメラを持って姿を現し、プラカードを写真に撮っていいかと訊く。「いやだ、だめだと言ったら、どうされます?」と遊び心で言うと、副校長は「撮ります」。「それなら、撮っていいですか、ではなく、撮らせてもらいます、でしょ?」。「公開していることだから、撮ってかまいませんが、文言が換わるたびに撮らせて、と言われると一言遊びたくなりますね。都教委に報告するためですか?」と私。副校長は今日も写真記録をした。
 休み時間、一つの教室から「根津公子ファイト!」と声がした。それに反応して別の生徒が、「君が代最高!」と連呼した。私の反応を試したいのかな?茶目っ気たっぷりのこの生徒と、会話をしたいなあ・・・。この生徒の気持ち、反応、わかるような気がする。
一体、「根津公子」って何者?何で「君が代」に反対するの? 多くの生徒たちにはとっても不思議なのだろう。今まで漠然と「君が代」=国歌と捉え、平穏だったところに、初対面の根津が何かもの申す。それは、生徒にとっては、今まで見たことのない風景なのだろう。生徒たちには、受けたショックを、いつの日か考えるきっかけにしてほしい、と願う。
 近くにお住まいの方2人が訪ねてくださった。

5月9日(火)立川二中へ
 離任式以来の10日ぶりの「出勤」。妙に懐かしい感。今日はまた、底冷えがする1日、厚手のコートで体温を保った。連休中に冬物をクリーニングに出さなくてよかった。
 寒かったけれど、きょうはまた初めてことばを交わす何人もの人と出会った。ご近所にお住まいだとおっしゃる初老の女性は、私のことを、去年も今年も何かの調査で座っているのだと思われていたそうな。わけを話すと、「今、こんなことがあるんですか。昔のようですね」と。別の方はプラカードを指して、「このこと、テレビで見ました。がんばってください。応援しています」。通行人5人に声をかけられ、何人かとはじっくり話し込んだ。また今日は保護者の出入りが多く、その中には挨拶を交わすだけではなく、この件で今日新たに声をかけてきてくださった方が3人。お一人は、「影ながら応援して来ました。それを伝えたかったのですが、学校の中では気を使ってしまい…。子どもには、先生がこうしていられることの意味がわかる時がきっと来ると思います。こう言ってはなんですが、その機会に恵まれて、感謝をしています」と。私の視点と同じだ。一般的な「応援」とは違う、保護者ご自身を通して捉えてくださったことに感激した。
 そういえば、離任式の日にも保護者何人かから温かい言葉をかけていただいた。こうして見ると、「7割の都民が『君が代』処分に反対」という昨年の新聞社調査と同じなんだ、と合点する。
 下校時間帯は、5時まで途切れることなく次々に立ち寄っていく生徒たちと会話を楽しんだ。Aさんは、朝渡したメッセージ(返信)がすごくうれしかった、と言っていた。Bさん、Cさんはまた長いこと話し込んでいった。「君が代のことも他のことでも学校は、隠さずに事実を教えてほしい。異なった意見があるときはそれらを教えてほしい。一方の意見だけじゃ、私たち、考えたくても考えられない」「根津先生が行動し、自分の意見を言ってくれるから、社会には違う意見があることを私たちは知れたけど、先生がいなかったら、知れなかったよ」「いい学校に行くためだけの勉強はしたくはない。本当のことを知り、それを社会のために生かしたい」という二人と、政治のあり方、生き方いろいろ語り合った。次回「出勤」するときに「社会のことを知れる本を持ってきて」と頼まれた。
 今日も、たくさんのエネルギーをもらった。

5月8日(月)都庁へ


今日で都庁での情宣活動も4回目。8時、何と今日は17人もの人が集まってくださった。マイクで話し呼びかけ、チラシを手渡す。いつもと同じスタイルなのだが、今日は用意したチラシが早くになくなった。こちらが大勢だったからなのか、毎週の行動で道行く人に認知されたからなのか。「これも石原都知事がやっているんですか?私たちもひどい目に遭わされています」と言って、受け取っていく方もいらした。
10時半からは教育情報課の課長とAさんと面会。@2月27日から2ヶ月以上にわたって提出してきた署名がどう扱われてきたのか。処分発令前から提出してきた署名が、処分を決定する際にどのような扱いをされたのか、その経緯は。宛先人の教育長、教育委員長は署名を見ているのか A処分が適正とは、どういった経緯と理由からか B今まで文書回答を求めたが、「回答は差し控える」というものばかり。回答とは 言えない回答について釈明してほしい。 C私たちの質問に、回答のできる担当所管課を同席させてほしい。 ということについて回答をもらうことになっていた。
しかし今回も、@関係する部署に周知している A地公法32,33,29号を根拠とした B回答をしている C教育情報課が窓口。これが回答だという。私たちの訊いたことへの回答ではないから、さらに質問をするが、「やり取りをする場ではない」と、課長は時々声を荒げてシャットアウトしようとする。それでも私たちは、所管課と会わせてほしい。「回答を差し控える」ではなく、回答をしてほしい。回答ができなければその理由をきちんと説明してほしい。なぜ累積加重処分なのか、その説明も次回必ず回答してほしい。教育情報課の仕事としてしっかり回答を引き出してきてくれるよう、要求した。私たちはどこまでも対話を要求しているのだと、念を押し、次回の回答・面会日時の設定を要請して終えた。
 NIPPONという雑誌に例の古賀、土屋都議が「教育正常化を阻む東京都教育庁のサヨク幹部」と題した文章を寄せている。教育への不当介入を自ら告白するようなこの稿は、教育の正常化は前進してきているが、それを阻むのが、「教育長内部に巣食うサヨク分子と、加えて不正を見てみぬ振りを決め込む輩」だと言いたい放題を言う。議員の介入、監視の中で当然、息苦しい思いをしているであろう都教委職員たち。彼らはどんな気持ちで仕事に当たっているのだろうか。少しは声を上げているのだろうか。本音を聞きたい。

4月28日(金)立川二中

 「離任式に来るでしょ?」。登校時何人もの生徒が訊いてきた。今日は離任式。校長は停職中の私も呼んでくれた。これを都・市教委が黙っているはずはないと思う。呼んでくれたことに感謝。

招待されて入る校舎は、まぶしく感じた。11人もの転任者だったので、生徒に話す時間は1分。私は、「私が生きる上で大事にしていることで、皆さんにもしてほしいと思うことを話します。皆がするから、言われたからするのではなく、正しいことか、間違ってはいないか、皆の幸せ、平等に繋がることか、自分の頭でよく考えて行動していってください。大勢がやるから正しいとは限りません。そうすることで、時には辛いこともあるかもしれませんが、ほんの少しの勇気を持って、たとえ一人になっても正しいと思うことをしていってくださいね」と話した。

離任式とは別に、用意してきた手紙を手渡してくれた生徒が3人。「とっても優しくて、自分の意思は曲げない。私はそんな先生に憧れみたいな気持ちを抱いていました。私はそんなふうにはなれなくて、周りに左右されながら生きているんで〜」「たぶん先生は教育委員会からいろいろ言われてると思うけど、Aは先生の考え方いいと思うよ!〜応援しているんだから」「家庭科、大好きになりました」と。

 「先生、サインしてーえ!」と駆け寄ってくる男子たちに応えたり、卒業生ともおしゃべりしたり、楽しいひとときを過ごした。

 今日は晴天、日差しが強かった。離任式が始まる2時過ぎまで校門前にいたときに、卒業生が冷たいお茶を差し入れてくれた。優しい気持ちがプラスされて、本当においしかった。しみじみと味わった。

4月27日(木)都庁

4月26日は八王子時代の仲間たちと石和の温泉でゆっくり。今年初めての休日を満喫した。

27日は都庁前で出勤する職員にチラシまき。その後、定例の都教育委員会を傍聴した。

議題は、

@日本の伝統文化に関する教育推進会議報告書について――この会議は、中高一貫校である都立白鴎高校付属中の校長への提言機関。「日本文化概論」という授業を始めるに当たり、はじめに「将棋」の学習内容とその展開例を作ったという。この学校だけでなく、行く行くは全学校に伝統文化に関する教育を普及させていくと言う。 

A懲戒処分の見直し(案)について――翌28日の新聞報道のとおり、体罰、性的行為、公金横領などの厳罰化、免職。私たちに関係する「勤務態度不良・職務命令違反」が加重処分でどこまでやるかについては、明らかにしなかった。高坂委員の発言では、この定例会に議題として出る前に、27日付け産経新聞に掲載されているという。これについての答弁はなかった。 

B第1回東京都教科用図書選定審議会の答申について 

C部活動振興専門委員会報告書について。――「部活動指導は職務であることを周知徹底する」「顧問は教諭から学校職員に拡大する」など。

 これらの議題が、結論先にありきで、論議せずに通過して行く。提案部署の職員はそれぞれ10数人が担当の議題の時だけ会場にいて、それが終わると退室する。議題ごとに入れ替わるのだ。どのような流れの中に自分たちの提案があり、それによって学校が、子どもたちがどのような影響を受けることになるのか、この人たちの頭にはないのではないか、とふっと思った。

 私たちの処分もベルトコンベアーに流されるように、質問さえ出ずに決まってきたんだろう。

4月25日(火)鶴川二中

 8時頃校門前に立つ。8時10分、パトカーがこちらを覗き込むようにしながらゆっくりと通り過ぎた。8時15分には副校長と校長が登校指導にやってきた。私の「出勤」日だけ校門前に立つ副校長と校長は、生徒たちの目には何と映るんだろう。副校長は「プラカードの文字が新しくなりましたね」と気づき、登校指導の後、カメラを持ち出し、私に断って写真を撮った。「毎回都教委に送るの?」と訊くと副校長は今日も否定したが、でなければ何に使うのか?

 休み時間に「ねづきみこ!」と叫ぶ女の子たちの声が聞こえてきた。試してみたのかな?手を振ってそれに答えた。

 今日はひょうと雷に見舞われた。雨の中でのお弁当。

4月24日(月)立川二中

今日は穏やかな天候だった。何人もの訪問者あり。

まだ一人でいる時、自転車で通り過ぎた青年が戻ってきてプラカードを読む。二中の卒業生で弟さんが在籍していると言う。簡単に処分の事情を話すと、彼は言う。「何のことでもだけれど、自分を守るために、従ってしまう大人ばかり。それがいやだ。その人が、それが正しいと本心から思ってやっているならいいけれど」と。「まったくそう思うよ、私も」と意気投合する。

彼は「はだしのゲン」を読んだのがきっかけで戦争中のことを知りたくなって本を読んだのだそうだ。学校の勉強は大嫌いだったというが、戦争中の歴史の知識が豊富でよく物事の本質を見ている。しっかり考えている。毎日通った学校がではなく、一シリーズの漫画本が彼に知識欲を呼び起こし、物事の見方を示した(時代は違うが、私も物事の見方を知ったのは学校ではなく、一冊の本からだった)。彼のような人に接すると、学校を変えなくちゃ、と強く思う。

 話し込んでいるところへ車を止めて中年の男性がやってきた。プラカードを読んで、「そうだ、ちゃんと君が代の意味を教えなきゃいけない」「君が代とは、国民皆のことだよ」と言って去ろうとする。「いつから君が代とは国民皆のことになったのですか」と訊いたが、言いたいことだけ言って車に乗り込んで去ってしまった。

 プラカードには今日は次のように書いた。「抗議します。「君が代」不起立で停職3ヶ月処分/生徒に「君が代」の意味は知らせずに起立斉唱だけを求める。/こうしたやり方は教育がしてはいけないことだと思います。だから私は起立しなかったのです。/なぜ、「君が代」の意味も歴史も、議論があることも生徒に知らせないのでしょう?」。

 今日も下校時間帯は3年生の生徒たちと色々話し、戯れた。それを傍で見ていた友人は、「子どもとの語らいが根津さんのエネルギーになっているのね」。そのとおりです。

4月20日(木)

今朝は副校長も校長も、パトカーも来なかった。私はただ立って、登校する生徒たちに挨拶の声をかけているだけなのだから、これでいいはずだ。職員打ち合わせが終わっただろう頃、「出勤」していることを告げに行くべきかと思っているところに出張に出かけようとする副校長と出会った。下校時間帯にはやっぱり、副校長が下校指導に出てきた。本当にご苦労様なことだ、と思う。

今日は日中、突風と雨。穀雨。この天候の中、約束していた訪問者と語り合う。昨年の停職期間にプレゼントされたゴアテックスの合羽とズボンに包まれ、濡れも蒸れもしない。快適だ。でも、突風で傘は骨が折れてしまった。今日藤沢市では、電柱や屋根が飛んだ事故があったそうだ。

放課後は、雨が上がり、台風一過のような空になる。部活動で校地の周りの道を走る生徒たちの姿をまぶしく眺めた。

4月21日(金)は、8時から都庁でチラシまき。その後、署名提出と質問に都教育委員会に行った。

3週間が過ぎました。1日屋外で過ごすと、何をしたのでもないのに、夜は睡魔とのたたかいですが、愉しみながら「出勤」しています。

4月18日(火)

鶴川二中へ。8時過ぎ、パトカーが速度をすごく落とし、明らかに私を覗き込むような視線を向けて通り過ぎて行った。8時5分には副校長が、やや遅れて校長がやってきて、登校する生徒に挨拶の声をかける。挨拶自体はいいことだけれど、今日も朝の職員打ち合わせには2人とも出ない。変だよな、と思う。

11時、車を止め、自販機で飲み物を買った人が私の方に来られる。頭を上げると、60代らしき男性。「信念を貫くって大変なことですね。最後までがんばってください」とおっしゃり、今買われたお茶を差し出された。ご近所にお住まいの方だとのこと。原稿を書きながら、眠くてボーッとしていた頭の霧は一瞬にして消え、私はうれしさでいっぱいになる。感激がプラスされたお茶はとってもおいしかった。昨年立川でも、炎天下にいる見ず知らずの私に、飲み物や氷を差し入れてくださる方が何人もいらした。こうした方々にどんなに励まされ、支えられていることか。人間っていいな・・・。じわーっと、ひとの温かさに浸りながら想う。朝は、園児を連れた、おしゃれを愉しむお母さんが立ち止まり、プラカードを読まれて、「ひどいですよね」と声をかけてくださった。毎日挨拶を交わす方もできてきた。

夕方の予定があって、3時半、「退勤」。

4月19日(水)は、調布中への見せしめ的報復的人事異動裁判の控訴審2回目。調布中、立川二中に続き、鶴川二中も同様の人事異動であることが明確となった今、あらためて証人採用を要求したが、書面で十分として結審とされた。

4月17日(月)

 新聞の天気予報では「予想最高気温19℃」。久しぶりに春らしい天気、と思って多少薄手のセーターとコートに替えて今日は立川二中に。ところが、午前中は強風に叩かれっ放し。まだまだ防寒対策が必要だった。

 Aさんが登校する。学校になぜ行かねばならないのか?一体私は何をしたいのか?すべきなのか?答えを見つけたい彼女としばし話をする。「周りの人の意見にはしっかり耳を傾ける。でも最後は自分の意思で行動を決めたいね」と確認しあった。「先生がんばって!応援しているよ!」――「私もAさんを応援しているよ」。門の中に入いり始めた体を再度私に向け、「先生、努力は人を裏切らない、って」――「そうだね、努力は私を裏切らないよね。ありがとう。お互い、がんばろうね」。

 登校時刻が過ぎ読書タイムに入った頃、出勤途上の男性が自転車を止めて私のところに来られ、激励してくださった。初めての方。上のお子さんは二中の卒業生だとおっしゃる。見ず知らずの方から声をかけていただくことがどんなに、私を励ましてくれることか。

 昼食はBさんが私のために作ってきてくれた稲荷ずし、近くの公園に行っておいしくいただいた。

 下校時は今日も3年生の生徒たち何グループか、何人かが入れ替わり立ち代わりして、おしゃべりを楽しませてもらった。

「先生、給料もったいないから立っちゃえば」。「クビにされても、間違っていることには服従しないよ」と答えると、「君が代歌っても、戦争になるわけではないでしょ?」と言う。「大きく見れば、戦争に突き進ませないために闘っているのでもあるのよ、私は。でも、(鵜呑みにしないで)自分で考えてね」と答えると、「戦争にならないよう、先生がんばって」と。戦時になれば直接狩り出される対象である若い世代の声だ、と思った。

 別のグループは、「君が代のことよく知らないから、(学校は)きちんと知らせてほしい」「知らないのに、立てって言われるのいやだ」「反対する人の意見も賛成する人の意見も聞きたい」。まったく生徒たちの言うとおりだ。

4月12日(水) 都庁に

 6時に自宅を出発し、都庁に行った。8時から1時間、総勢15人で情宣とチラシまきをした。2回目の処分を受けた7年前、毎月八王子市役所の前でチラシまきをした時はほぼ全員が受け取ってくれた。声をかけてきてくれる職員もかなりいた。しかし今日の都職員の反応は、その頃とまったく違う。この7年で都教委が変容したのと同じ速度でここに働く職員の反応も変容したようだ。背広あるいはスーツ姿のこの人たちの表情は硬く、外界は何も見えないかのように庁舎の中に入っていく。

 庁舎前の通路にはホームレスの人たちが大勢、寝ていた。あまりの多さに、打ちのめされた。これが「先進国」日本の格差社会の現実。「日本の象徴だね」と一人が言った。まったくだ。雨が降っていたから起きても仕方がないからだろう、寝ているその人たちを都庁の警備の職員が「起きろ」と命じていた。

 チラシまきをした後、その足で皆で「停職にするな!解雇するな!」の署名を持って教育委員会に行った。ほうせんか37号に掲載した報告のように、今回も署名の行方を確かめようとしたが、はっきりしない。署名(=これまでで15497筆)を提出して、次回来る日を告げ、そのときには明快な回答ができるようにと要請してきた。

皆さん、署名は続けますので、さらにご協力くださいますよう、お願いします。毎週、都教委には行く予定です。

 その後は、多摩中裁判の進行協議が地裁であった。夜は、国労を解雇され鉄建公団訴訟をされている稚内の斉藤さんという方から、励ましの電話をいただいた。機関紙「ほうせんか」をご覧になって電話を下さったと、おっしゃる。闘っている人を見て、私も闘おう!と自然に思うようになったこと。それぞれの闘いが互いに励ましになっていること。そんな話を交わした。うれしかった!

4月11日(火) 鶴川二中

 自宅から鶴川二中までの交通費が2000円。無収入でこの出費は辛い。「どなたか無料で駐車場を提供してください」とお願いの呼びかけをしたところ、友人を介して貸してくださる方が現れた。おまけに、ラッシュ前なので公的交通手段よりも30分も時間短縮になる(6時25分自宅を出発し、7時50分学校前に到着)。本当にほんとうに有り難い。こういう人の繋がりって、とってもうれしい。

 私が校門前に立って10分もすると、校長と副校長がやってきた。「保護者や近所の方から『立つのを止めさせろ』と苦情が来ている。学校の前は止めてくれないか」「弁当を地べたで食べさせるな。生徒がコンビニの前で食べるのも止めさせているのだから、と言われた」と私に言う。「すべては都教委の処分がさせること。都教委に処分を止めるように言えばいいことです」と答えて、話は終わった。

 二人はそのことを告げに来たのかと思っていたら、そうではなかった。校門前で登校する生徒たちに挨拶の声かけを始めた。立川二中では私の停職2週目から地域の方が挨拶運動を始めたが、ここでは校長と副校長が、である。職員の朝の打ち合わせの時刻になっても、中に入って行かない。こんなことをしていて、学校の「運営」に支障は出ないのだろうか?私が何かをするわけでもない。ただ、出勤途上の校門前でシャットアウトされているだけのことなのに。そう伝えたが、二人は生徒たちの登校時刻を過ぎるまで立ち去らなかった。

 10時50分、町田警察の若い警察官がバイクでやってきて、「110番が入ったから来た。名前は何と言うか」と高圧的に訊いてきた。「ここにいることが道交法違反などの法令違反になりますか?なるのなら、名前をいいますが」と答えると、「道交法違反でも、他の法令違反でもない」と言う。「それなら答えません」と私。

 次に警察官が言ってきたことは、「大体何で停職3ヶ月なんだ!」と、あざけるような、かつ威圧的な物言いをした。「その質問は職務を越権する行為ではないですか」と2回言うと、ようやく謝り、撤回した。私を心配して来ていた友人にも「あなたもここの職員か」と訊く。権力の末端で、権力を笠に着てものを言うから、質問することに慎重さがない。だから私たちに論破されて終わる。

 警察官は、無線で上司と思しき人に報告を始めた。プラカードの文字を読み伝え、「チャリンコに貼っている。隅っこに座っているだけ」と言った。上司の指示があったようで、交信を切ると警察官は、「妨害していないし、隅っこに座っているだけですから、帰ります。また110番があったら、そちらも気分が悪いだろうが、来なければならない」と言って、帰っていった。どこもかしこも、上司の指示でしか動かない日本社会をここでも見せ付けられた。

 下校時間になるとまた、副校長が出てきた。仕事があるだろうに…と同情したくなる。

立ち止まってじっくり読み、「がんばってください」と声をかけてくれた生徒が3人、この生徒たちはどういう問題かを知っている、あるいは知っているようだった。

 見えない苦情には脅えない。直接言ってきてくれる、見える励ましに私は希望を重ねる。そう、思った。

4月10日(月) 立川二中

 元同僚の友人宅に駐車させてもらって、そこから自転車「出勤」を始めた。生徒の登校が終わり、読書タイムに入っていると、どなたかが道路の反対側から声をかけてくださる。顔を上げると、昨年知り合った近所のおじいさん。近くの市民センターに通っていらして、行きに帰りに挨拶を交わした方であった。駆け寄って、「先生どうしているかと思っていた」とおっしゃるおじいさんに、今年の顛末を伝えた。

 立てかけたプラカードを見て、声をかけてくださる方との一瞬の出会いも楽しい。今日は2人。一人は、バイクに乗った若者が「先生がばれよ!負けるなよ!」と大きな声を残して走り去る。もう一人は、自転車から「がんばってください」と。花冷えがして、おまけに雨まで降り出す中でこうしたことばに心があったかくなる。この方たちが過ぎ去った後も、私の顔はにっこり状態が続く。

 部活動のない生徒たちの下校時刻は楽しい時間だ。雨の中、新クラスのことをおしゃべりしていく生徒、「がんばって!」「ファイト!」と手を振り振り返っていく生徒。ある生徒は、「雨降ってもやるの?」と聞く。「雨だって仕事はするでしょう?」と答えると、「そうかー!」。子どもたちと接していると、私の顔は緩みっぱなし。

 夜はAさんの定時制高校の入学式に参加し、ともにお祝いをさせてもらった。