宗教と信仰の違いについて

 私は「信仰」という言葉と「宗教」という言葉を区別して使っています。

 信仰は神や仏など人間を越える存在を信じ、敬い恐れる心。その前で他の人とともに幸せでありたいと願う心だと考えます。

 宗教はそれらの考え方を持った人の集まり、組織だと考えます。

ところが、宗教活動は時として本来の信仰する心とは矛盾する行動を取ってしまいます。

 

指導者の考えや言葉を神や仏のものとして扱い、多くの場合排他的になります。

「人々を救済するためにはこの宗教を広めることこそが唯一の方法である」として。

 人間の幸せの為に始められた当初の目的が、その団体の勢力拡大が第一の目的になってしまいます。

 宗教活動に熱中する人の中には、その団体内での地位や名誉を得ることに快感を覚える人が存在します。

この人達は他の団体との争いに情熱を燃やし、その過程において、人を陥れたり、憎んだり、殺したりすることすらあります。

他の人を不幸にする行動を取ります。

 これは信仰する心とは相反するものです。

  信仰が深いことと、宗教活動に熱中することは必ずしも同じではないのです。

 宗教のこのような面の存在を多くの人が認識する事によって、宗教がこのような方向に進むことを防いでいく事が必要だと思います。

 そして、これと同じ事が政治団体や市民団体などの組織にも言えます。

 団体を結成した当初は社会を良くするという崇高な理想を掲げているのに、いつかその団体を存続させることが目的になってしまい、当初の目的とは相反する行動を取ってしまうのです。

 人間は団体を作ることで個人では出来ない大きな力を発揮しますが、大きな過ちをも犯します。

 団体が間違った方向に進まないためには、その中で一人一人が自分の考えをしっかり持つ必要があります。

人間の持つ素朴な価値観を保ち、おかしいと思うことを上のものや周りの人がしようとしたとき、それをおかしいと指摘する勇気が必要です。

 そのためには長いものに巻かれない、強いもののいいなりにならない個人の強さが大切だと思います。


2001年3月、アフガニスタンにおいて、イスラム過激派タリバンが世界的遺産である「バーミヤンの石仏」を破壊した。

「偶像崇拝を禁じたイスラムの教えに従った」というのがその理由である。

これは、「指導者」が排他的な団結を求めて行った事だと思う。

宗教団体の中では、その指導者がその集団を支配しやすいように

自分の考えを「神の言葉」として押しつけることがある。

それを批判するものを「信仰の薄いもの」「異端者」として排除しようとする。

本来の信仰の心とはほど遠い行為と言わざるを得ない。

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