闘いの哲学

拙い考えではありますが、私なりに闘いの中で学んだことを書いておきます。

怒りと憎しみは別のものである。

理不尽への怒りによる闘いは、人々の苦しみの元になるものを変えようとすることであり、自らを高め、自分も幸せであり得る。

憎しみや恨みによる行動は相手を不幸にしようとするものである。

これは一時的には力を持つが、やがて自分をも破滅させる。


強大な相手と闘う際

勝とうとする事と負けまいとすることは同じではない。

相手が強いとき、負かす事は出来なくても自分が負けない事は出来る。

闘う姿勢を示し続ける事が、社会的な意味を持ち、実質的な勝利を得る場合がある。


自分の弱点を知る

負けない為には自分の弱点を知る。肉体的、精神的、経済的、社会的弱点を知る。

負けないためには自分たちの弱点を知る。構造的、思想的、経済的、社会的弱点を知る。


味方の中に悪を見る、敵の中に善を見る。

人は自分たちは善で、相手は悪だと思いたいものである。

しかし、100%善の人も100%悪の人も世の中に存在しない。

自分たちの心に「自分さえよければ」という心が生まれることを常に自覚し、それを克服して行かねばならない。特に指導的立場の人を信頼しすぎることは注意しなければならない。

憎しみは敵を強くする。

相手に非がある場合それを論理的に厳しく追及しなければならない。

しかし、その場合でも相手の人格までも全面否定して臨むべきではない。

相手の心の中に善の部分が残っているとして臨む。

憎しみで相手に臨めば、自分に対する相手の憎しみを増幅させ、相手を強くする。

また社会に対する自らの主張の説得力を失う場合がある。


相手の弱点が見えた場合はそれを攻める。

しかし、攻める時には自分にも隙が生じる。

不用意な言質を相手に取られたり、刑事弾圧の理由を作ってはならない。

反撃を受け、疲れ果て、団結が乱れる。

相手が倒れる前に、自滅することを警戒しながら攻めなければならない。


信頼することとあてにすることは違う。

闘いの当事者は支援者をあてにすべきではない。

あてにして裏切られれば恨みが生じる。

支援者のしてくれたことには感謝する。してくれないときには恨まない。

私のモットー「あてにしないで期待する」

自分の闘いの方針を明確に示した上で、去っていく支援者を追うべきではない。

時として支援者は闘いの相手よりも自分にとっての敵となる。

闘いの当事者は、常に闘いの目的を明確にし、支援者、社会に示すべきである。

なぜ闘うのか、何のために闘うのか。

解雇争議の場合、解雇撤回が目的だとしても、解雇撤回の目的が自らの経済的被害の回復なのか、解雇自体の非を企業側に認めさせ、同様なことが起きることを防ぐことなのか。

自らの経済的被害の回復を目的とする場合、闘争が長期なるほど困難になる。


労働争議の当該は経済的に自立すべきである。

労働争議の初期には支援者の援助に頼らざるを得ない場合が多いが、争議が長期になる場合、なるべく早く経済的に自立すべきである。支援者も自立を促す支援を行うべきである。

争議が社会的な意義を持つから支援を呼びかけたはず。

「自立出来るくらいなら争議をしない」という人にとっての争議は、社会的な意義ではなく、自分のための行動であり、長期の闘いにはむいていないと思う。


争議の当該が闘う意思を継続しているのに支援者は自分の都合で闘いを終わらせようとすべきでない。

支援をする事が困難な理由が生じた場合には支援を止めればよい。


あらゆる情報を100%は信じない。

どんな「確からしい」情報も「もし間違いだったら」という目で見る。

行動を起こす場合どこかで決断が必要になるが、情報が間違いだった場合自らが壊滅するような行動は極力避ける。

殺されないのにおびえるな

今、日本の中では言論を理由に殺されることはない。

権力と闘う市民運動の中で、ビラなどに自分の名前が出ることを嫌う人が多い。

趣味やファッションでなく真剣に社会を良くしようとして運動に参加しているのであれば、勇気を持って自分を示すべきだと思う。

言論を理由に殺される時代が来てからでは遅い。

  自分、自分たちに非がある問題が生じた場合は、それを認め、徹底的に謝る。半端ではなく、社会に謝っている姿勢を示し続ける。

その上で、自分に非がある問題が生じたことで、相手の非が解消されるわけではない。それをきっちり主張する。

ほおかむりや言い逃れをするとそれを相手に利用され追及され続け、闘争全体の社会的説得力を失っていく。

行動の方針が間違いであると気付いたら勇気を持って撤退する。

見栄や対面を気にして継続していては矛盾が大きくなり、闘争全体へのダメージが大きくなる。

自らを客観的に見る。

自分がしようとしていることを客観的に見る。自分の欲望が闘いの本質から離れていないか。

見極める。

闘いの目的が社会の理不尽を正すものであるならば、それは見かけは修羅の道であっても本質は菩薩道である。自分の行動が利己的な欲望を満たそうとするだけの修羅の道に陥っていないか、常に見極める。


2003.2.19


追加

恐怖の対象を見つめる。

闘いを始めるとき怖いと感じる。そのようなとき、私は最悪のケースを考えて見ることにしている。

この先、自分の行動によって、どんなことが自分に起こるのか。首になるのか。一家が路頭に迷い飢え死にするのか。職場や地域で孤立するのか。警察に逮捕されるのか。殺されるのか。

しっかり考えてみると、それほど怖ろしいことは起きえないことが分かってくる。

漠然とした恐怖におびえるのではなく、それを見つめる。

自分が、これから起きうる不利益や苦痛をどこまで受け入れられるか、耐えられるかを見つめる。

形だけで、実態のないもの、大して恐れる必要のないものにおびえている場合が往々にして多いものである。

2003.10.29