10月5日(金)
「処分より対話を!都教委に『君が代』解雇をさせない!都庁前One dayアクション」の日。7時半に都庁前に着くともう、一人いらしていた。チラシまきを始める8時には30人以上の人がいらして、第一庁舎前と第二庁舎前とに別れ、マイクも2箇所で使って情宣、チラシまきをした。次々と参加者が増え、チラシは瞬く間になくなってしまった。
第一回目のリレートークと出し物を始める9時半には、90人の人になり、1日で総勢400人もの人が駆けつけてくださった。大阪、愛知、三重、宮城、茨城、長野、房総半島の最南端から参加してくださった人たち、仕事にいけば入る賃金を棒に振って参加してくださった人たち、「君が代不起立」をご覧になって遠くから来てくださった今日が初対面の人たち、そして、停職「出勤」で知り合った人たち。皆さん、「処分はおかしい!」と発信したことで関心を持ってくださった人ばかり。石川中の教え子であるNちゃん、Iちゃんも来てくれて発言をしてくれた。Hさんは、仕事で参加できなくて、と丁寧にメールをくれた。とってもうれしかった。
北九州で処分をされ闘っているココロ裁判の人たちは、ご自分たちの裁判の後にチラシまきをして東京の現状を地元の人たちに伝えてくださったり、大阪では、13日に集会を企画してくださったり、はたまた、私たちに呼応してアメリカ、フランス、カナダから連帯のメッセージ、決議や都教委への要請文が届けられた。サンフランシスコ、ロサンゼルスの日本領事館に抗議文を届け、行動してくださった人たちもいらっしゃる。
うれしい出会いがたくさんありました。歌や演奏、詩の朗読と気持ちが癒され、あるいは気持ちが高揚する場面もあり、担当してくださった方々に感謝です。
大勢が都教委の処分に怒っている、ということは都教委に伝わったはずです。
One dayアクション第二弾についてもこれから考えます。
10月4日(木)再発防止研修の基本研修に水道橋の教職員研修センターに行かされた。9時少し過ぎに着くと、都教委への抗議と私たち2人への激励にすでに何人もの人が来てくださっていた。支援者は続々集まってくださり、私たちが建物の中に入る頃には、50人ほどに膨れ上がっていた。ありがたい。
10時10分前、それぞれ指定された部屋に入った。処分量定が違うから別々の部屋にしたのだそうだが、地方公務員法を説明するだけなのだから、別室にする必要はないだろうに。受講者1人に対し、担当者、講師、記録係、校長と4人を配置し、講義が始まった。担当者はS研修部教育経営課長、講師はI企画部企画課長。
今までと同じに講義のはじめは、「所属、職、氏名を言ってもらえますか」で始まった。私は、「私が受講を申請したのではなく、あなた方のほうで私を特定して呼び出し、今日受付で受講票まで出しているのに、なぜ、聞かれるのでしょうか」と訊いた。「研修する上でお聞きしたい」「名前を訊くのは、当然のこと。一般的なこと」との講師の返事。「拒否するのか」とさらに聞くので、私は、「拒否をしているのではない。理由のわからないことには答えられないのです」と言うと、講師は校長に回答を求めた。
講師の2番目の質問は、「教員経験年数は? どんなことに力を注いできたかを話してください」だった。「大勢を一度に呼んでいるのではなく、私を呼び出し、受講させるのに、私についての資料をご覧になっていないのですか? 授業をするにも、生徒たちの状態をつかんでおくのは当たり前のこと。あなたは、当然すべき準備をされていないんですか」と訊くと、「おおよその年数は知っていますが、もっと詳しく知りたいのです。書類の上での情報収集以上に」と言う。名前を訊くことから始めるのは事情聴取の時も同じ。警察の被疑者取調べとも同じなんだろう。
講義に当たって私は、講義の後質問の時間をきちんと確保してほしいことを要求し、この場で回答ができなかったことについては、後日回答をもらえるのかを確認しようとしたが、「5分質問の時間をとっている」「とにかく話を進める」と講師は一方的に言い、原稿を読み上げ始めた。読み上げた内容は、これまでの再発防止研修のときと同じに思えたが、今までよりも踏み込んだところがあるように思われた。
質問したいことはいくつもあった。「信用失墜行為は、勤務時間にかかわらず、個人の行為であっても該当する」と読み上げたことについて私は、「刑法に抵触することならばわかるが、ほかにどんなことが該当するのか」を訊いた。講師は、「こうむ(公務と校務のどちらか?)に悪影響を与える場合」であり、その判断は、「任命権者の裁量」だと言う。
具体例を求めたが答えてくれないので、「今日私たちの支援に集まった人たちの中に教員もいるでしょうが、この場合は信用失墜行為に該当しますか」と訊くと、「そうだ」と言う。後から「一般論」と付け加えたが、この講師の意識は「そうだ」にあるのだろう。聞きたいことがたくさんあるというのに、「時間です」と講師は引き上げてしまった。「よく読みたいのでその原稿を私にください」と今回もお願いしたが、くれなかった。
講義では今までと違い、免職についての言及があった。河原井さんにもなされたそうで、質問をしたかったが、できずじまい。
講師が引き上げた後、報告書の作成を命じられた。「応じようにも講義に対し質問がいっぱい、答えてもらわないと報告書は書けない」と申し出たが、担当者は「お書きください」を連呼する。仕方なく、レジュメを写して報告にした。所感は書き始めたら時間だと言われ、途中で提出をさせられた。12時20分退室。5時間休暇に入り、待っていてくれた人たちにお礼を述べ、報告をした。
4時からは、05年春の処分についての裁判があった。
10月3日(水)、いよいよ生徒と出会った。担当することになった生徒が通学バスから降りてくるのを受けて、一日が始まった。1日も早く気持が通じ合うようにがんばりたい、と思う。下校が済んで、私自身は朝からトイレに行っていなかったことに気づいた。
10月2日(火)、開校記念日で生徒はお休み。午前中、私が入ることになったクラスの教員2人から説明を受けた。職員室に戻ると、愛知のNさんから祝電が届いていた。うれしく、ありがたい。
10月1日(月)
南大沢学園養護学校に初出勤。前夜はいつもより早くに布団に入ったのに、やっぱりほとんど一睡もできずに朝を迎えた。7時半校門前に着くと、もう何人か、校門前「出勤」に同行してくれた人の姿があった。いつも7時50分過ぎに校門を通過する校長がこの日は、私が着いて間もなく出勤してきた。「あら、今朝は早いんですね」と声をかけたが、校長は黙って頭を下げ、中に入っていった。Mさんが作ってきてくれた「根津さんを解雇しないでください」「校長先生、職務命令を出さないでください」などと書いた何枚ものプラカードを読んでもらう間もなく。そこでみんなは、校舎内にいる校長に向かって、プラカードのことばを唱和した。辺りは静かなので、声は校長にしっかり届いただろう。都教委にも報告が上げられているはずだ。
私を激励しに集まってくれた15人の人たちと出勤式をした。私は、「今日は仕事に復帰の日であり、同時に解雇に向かうカウントダウンの日でもあります。でも今は、いよいよ仕事だ、とうれしくて、よっしゃ!がんばるぞ!という気持ちです」と挨拶した。近藤順一さんから黄色のバラの花束をプレゼントされ、とっても感激。たくさんの力を得て、8時過ぎ、校舎に入った。
今日は都民の日で生徒はお休み、教職員もちらほらしか出勤して来なかった。出勤している人と挨拶を交わしながら、皆さんの机上に用意してきたあいさつ文(※)を置いた。朝の職員打ち合わせで校長から紹介され、自己紹介をさせてもらった。
午前中校長から学校の説明があったのだが、冒頭、「発令書を渡します」と言われた。案の定、卒業式での不起立に対する再発防止研修を受講せよという発令書だった。「10月4日」ということで、Iさんと同日であった。何はさておき、最初に発令書を渡す校長に、私はもっと優先してかけることばは持たないのかしら、と思った。
この学校は、開校11年目なそうだが、2年後(?)には小・中学部はなくなり、開校当時の母体校だった多摩養護学校に移転、高等部と職業科の学校に変わるのだと言う。正確には覚えていないが、おおよそこのようなことを聞かされた。この話はいつから出ていたのか尋ねると、11年前の開校から数年(5,6年)後のことだそうだ。
「開校数年で廃校とは、余りに見通しのない計画だったのではないか。卒業した子どもたちの母校がなくなるというのは大ごとだと思いますが、校長はどうお考えですか」と聞いたが、「都教委のやることを実行するのが校長の仕事ですから」と、考えは聞かせてもらえなかった。私は、「現場の声を都教委に伝え、橋渡しをするのが校長の仕事だと私は思いますよ」と言ったが、返事はなかった。この校長ばかりではなく、知る限りどの校長も、校長は教育委員会から派遣された伝達・執行及び監視役と、思い込んでいる。学校教育法上は、教育委員会から独立しているのに。
事務手続きやらで、1日目は終了。
(※)南大沢学園養護学校教職員の皆さま
今日から出勤しました。停職中は、たくさんの方から声をかけていただき、元気を与えられました。子どもたちの顔もずいぶん覚えましたし、送迎される保護者とも多少とも知り合い、私の気持ちは意欲に満ちています。しかし何分にも養護学校は初めてのこと、戸惑いの連続かと思います。
皆さま、どうぞご指導のほど、よろしくお願い申し上げます。
さて、今東京の学校は、子どもたちの声を救いあげ、知恵を出し合い話し合い、教職員の総意で学校が動いていた、民主的で自由闊達なかつての学校とは大きく変わってしまいました。都教委の通達や通知が幅を利かせ、理不尽なことや子どもたちの幸せに背反することが進行しています。パワーハラスメントによって新採用の小学校教員が2年連続して自死に追い込まれもしました。私は一人の教員として、今を看過することができずにいます。若い方には、その比較が難しいでしょうが、長く学校に身をおいてきた私には、現在の学校現場に非常な危機感を持ちます。
足立区での学力テストで、不正や障がいを持った子どもの答案抜き取りがありました。私はこれについて、一人校長の問題ではなく、上意下達の組織の中で、起こるべくして起きたことだと考えています。都教委が地区毎の成績順位を発表する中で、足立区教委は「最下位」を脱却すべく、順位によって学校予算に差をつけようとしたり、練習問題を配布しようとしました。その区教委の指示を果たそうとする余り、校長は判断力を失いました。そして、その校長の誤りを教職員は指摘できませんでした。誰もが、上意下達のピラミッド体制に組み込まれ、「おかしい!」と言える人がいなくなったために起きたことです。職員会議がかつてのように最高議決機関として位置づけられていたら、起こらなかったことでしょう。この事件は、都教委の進める上意下達体制下で組織の構成員が判断力を失い、その結果教育破壊を招いたという一例です。
ところで私は「君が代」で不起立を続けています。子どもたちに一遍の説明もせずに「日の丸・君が代」を強制するのは、教育を否定し、子どもたちを調教することだと思うからですが、同時にこの問題は、上述した学力テストの問題と同じく、上意下達の組織体制の問題であると思います。「君が代」処分は職場を命令と服従が支配する上意下達の組織にするための「最良」の手段です。事実、10・23通達以降職場は、命令が闊歩するところとなってしまいました。
私は、現場にいる私たちがおかしいことにはおかしいと、当たり前に発言することが何よりも大事だと思います。それを取り戻したいです。私たち教職員が、それぞれの教育的信念を持ち寄り、論議を深めることで、責任の持てる教育活動が実現するはずです。また、子どもの成長や幸せを願う気持ちは、教員皆同じですから、話し合いを重ねることによって一致点が見出せ、子どもたちにとっても教職員にとっても楽しい学校をつくれるはずです。私は体験を通してそれを確信します。私だけでなく、年配の人たちは、そうした体験をされてきただろうと思います。
私はそのような学校を取り戻したいです。こんなことを念頭に置き、皆さんに教えていただきながら、ご一緒に仕事をしたいと願っています。
末尾になりましたが、皆さまにご理解していただきたいことがあります。都教委は、「停職は6ヶ月まで」と言います。とすると、来春の卒業式で不起立したら、私は免職にされるでしょう。私はそれには納得できませんし、またそのことは、私一人の問題ではなく、東京の教育全体に及ぶ問題になると思います。ますます東京の教育破壊が進みます。ですから、私は都教委に処分を断念させるべく、闘いをしていかねばなりません。同じ問題として、裁判闘争もあります。そのような事情から、年休を取ることがしばしばありますが、ご理解くださいますよう、お願い申し上げます。
皆さま、どうぞよろしくお願いします。
2007年10月1日
根津 公子
9月27日(木)
鶴川二中最後の停職「出勤」。プラカードには、「来週から南大沢学園養護学校で仕事をします。皆さん、今までお世話になりました。私はこれからも、おかしい命令には従いません。正しいと思えば、命令されなくても、進んでやります」と言うようなことを書いた。プラカードをいつも立ち止まって読んでいく生徒は、私の到着前に登校したようでちょっと残念。
しばらくすると、副校長が校舎から出てきた。今朝も報道人が同行したからだった。「生徒は写さないから大丈夫ですよ」と言ったが、私の監視は仰せつかっている大事な職務なのだろう。私と一緒に登校する生徒に挨拶をかけていた。
いつも元気づけてくれる生徒の一団が登校してきたので、今日は私から手を振った。「今日でここに来るのは最後。来週からは、ここで仕事に戻るよ」とプラカードの「南大沢」の文字を指して告げると、一人が「先生来なくなると寂しい。戻って来て家庭科教えてよ」と言ってくれる。私が隣にいた副校長を指して、「管理職が私を戻してくれると、できるのよね」と言うと、また別の一人が「そこまでしてなら、いいや」。しばしの戯れをして、一団は中に入っていった。背後から私は、「今までありがとう。元気でね!」と声をかけた。この一人は、つい数ヶ月前までは私に罵声を浴びせかけた生徒だった。5月の連休あたりから挨拶を返してくれるようになり、6月頃からは、いつも励ますことばをかけてくれるようになった。何か心に留まるものがあったのだろうが、何だったのだろうか。
来年またここに立つことになるかもしれないけれど、一区切りとして今日が最後。そんなことを思いながら、校舎や校庭をしっかり脳裏に焼き付けた。
最後だからと学区のKさん、Mさんが来てくださった。また。今日はMさんたちが声をかけてくださって、集まりを持ってくださった。幼児や乳児連れで若い人たちが10数人、それにMiさん、Sさんも加わってくださり、教育と今の東京の学校について語り合った。変な損得なしにまっすぐにものを見ている方たちだった。「君が代不起立」や停職「出勤」が取り持った縁である。「日の丸・君が代」に初めから関心を持っていらした方ばかりでないところがとりわけうれしい。こうした「不断の努力」を積み重ねていったら社会や政治は確実によくなることがわかっているから、権力者は、人々を長時間低賃金労働に追い込み、それをさせない。考える機会と力を奪う。
電車に乗ろうと鶴川駅に着くと、Uさんたち3人が、29日町田教組主催の「根津を解雇させるな」の集会のチラシをまいてくださっていた。
帰宅したら、昨日の南大沢学園養護学校の校長が言った出勤時間を知らせる案内が届いていた。昨日ことばで伝えれば済むことだったのに、税金80円を浪費して。
9月26日(水)
南大沢学園養護学校に。プラカードには「来週から学校の中に入ります。皆さん、どうぞよろしくお願いします」と書いて、常連となったメンバーで立った。私の名前を一度で覚えてくれた生徒のTさんは、今朝は近藤さんに名前を尋ねた。3ヶ月の間通い続けた近藤さんを、身近な人と思ってくれたのかな、と思いうれしかった。同僚になる人たちも、「いよいよ来週からですね。待っています」と声をかけてくださる方が何人もいらした。
校長は私の前で立ち止まり、一呼吸置いてから、「来週来て下さい」と言った。「私は出勤時間を聞かされていませんよ」と答えると、「時間(について)は郵送します」と校長。「郵送、ですか?!」。私はびっくりして思わず口を突いて出たが、校長は「はい」とだけ言い、頭を下げて中に入っていった。こんなやり取りさえ、校長は都教委から禁じられているんだろう。都教委の言う、校長の「裁量」は一体どこにあるのか?教えてほしいものだ。
校長の自尊心は傷つかないんだろうか。上意下達の中に組み込まれてしまうと、自分の自尊心が傷つかないだけでなく、他者に対してどんなに人権侵害をしてもまた平気でいられるのだろう。「命令に従うのが、私の職務」と思い込むなんてことがどうしてできるのか、私にはわからない。
10時を過ぎてしばらくして、「お茶に行きましょうか」と切り出すと、初めて見えたSさん、「日記で読んでいて、ずっと待っていたんです!」。「今日はここへの『出勤』最終日だから」とUさんも後から駆けつけてくれて総勢8人、Mさんが用意してくれたお弁当で昼食会をした。「お祝いの日だから、おかしら付きよ」と言って、Mさん、たい焼きも並べた。なるほど、おかしら付きだ。今日は高等部の生徒たちがいなくて寂しかったけれど、ゆったりとしたひと時を過ごさせていただいた。
夕刊に、八王子の中学校副校長が痴漢行為をして逮捕されたという記事が載っていた。校長や副校長の破廉恥行為が発覚することがしばしば、昔よりもずっと頻度が高いように思う。個人の問題だけではなく、仕事のなかで人間性を抑圧されるはけ口として、こうした犯罪が起きることは明らかではないか、と思う。
9月21日(金)
都庁第一庁舎前でチラシまき。22人の方が参加してくださった。今日も初めての方が2人。高齢の方が通勤電車で混雑する中を参加してくださることに、本当に感激する。夏に体調を崩されたIさんがいらっしゃらないのが、気になる。
マイクを持って話をしている私に、笑顔で挨拶をしてくださった方がいらした。私も話しながら、笑顔の会釈を返した。勇気づけられる。
チラシまきに混じって「『君が代』解雇をするな」の署名を呼びかけたSさん、署名に応じてくれたのは、3人だけだったと言う。駅頭でするよりずっと反応が悪い。都庁の前での署名は周囲の目が気になるんだろう。
9月20日(木)
鶴川二中へ。生徒の登校が終わった頃、ご近所にお住まいのMさん母子、Rさんがいらした。私を記録されているSさんたちもいらしていたので、校門前はにぎやか。「今日は大勢だなあ」と学校前にお住まいのおじいさんIさんも加わって、井戸端会議。しばらく後に、Yさんは市民センターで学習会をするというので立ち寄られ、Mさんのお友だちのTさん母子も寄っていかれた。Mさんは、2月に鶴川で開かれた「君が代不起立」の上映会に参加された方。Tさんは、Mさんにその後映画を見せてもらって、関心を持たれた方。Yさんは、昨年ここ校門前で知り合った方。皆さん、校門前「出勤」と映画で知り合った方々だ。
立川と比べ、私に過剰反応し、組織的なバッシングが起きた鶴川の地では、それにおかしいと思われる方が意思表示され、こうして訪ねてくださることもまた多い。そういう出会いが去年も今年もたくさんあった。異動させられる度に、たくさんの出会いがあるのはうれしい。
9月19日(水)
南大沢学園養護学校に。今朝は、近藤さんとTさんの方が私よりも先にいらしていた。やや遅れてSuさんが見え、みんなで生徒の登校を迎えた。生徒たちの登校が終わった頃、西八王子から10km走ってMさんが、国分寺からは若い3人の女性が、そしていつものSさん、Mさんと、総勢9人がいらした。
今日は暑くもなく、いい天気だったからか、外での授業が多く、子どもたちが次々に外に出て行った。私だけでなく、皆それぞれが子どもたちに声をかけ、にっこりする時間を楽しませてもらった。訪問者の半数はもう、お馴染みの人たちになりつつある。
みんなをいつもの喫茶室に案内し、100円のお茶とMさんが差し入れてくれたお弁当で交流した。こうしているとのどかなものだ。
9月13日(木)
鶴川二中へ。先週は台風だったので、今日が2学期始めての「出勤」。
今朝もいつものグループは、ずっと手前から手を振って存在を知らせてくれた。「がんばって!応援してるよ」―「ありがとう。あなたたちも元気でがんばってきて!」。相変わらず無視の態度をとり続ける生徒が多い中で、こんな一言が私に元気をくれる。
学区のKiさん、6月に西東京の公民館講座で私が話しをしたときに参加され、直接には今日が初対面のKuさん、「君が代」再雇用解雇裁判原告のMさんが来てくださった。Mさんも、処分をされたことによって、必然的に自己としっかり向き合い、生き方を問い続けることになった。そういう意味で、今とっても幸せ、とおっしゃる。全く同感だ。
9月12日(水)
南大沢学園養護学校へ。南大沢は先週に引き続き、今日も雨。雨だというのに今朝も早くから、いつもの八王子五中(夜間)の近藤さんに加え、近くにお住まいのSuさん、電車を乗り継いでのSeさんが来てくださった。
みんなで、生徒の登校を迎えた。顔見知りになった生徒や同僚となる人たちと気持ちのよい挨拶を交わす。道の両方向から登校してくるので、登校に私が気づかず、背後から「おはようございます」とさわやかな声をかけてもらって気づくこともある。今日はそれが多かった。握手をしていく生徒もいる。私をここの一員として認めてくれたということなのかな、とちょっとうれしい。
今日も1人のお母さんが少し離れたところから、私のプラカードを読まれ、立ち止まっていらした。「これ、私なんです」と声をかけると、近づいていらして、しばし語り合った。この方は、「戦争は絶対反対です。だから『君が代』で立ちません」とおっしゃったが、教職員に不起立処分があることはご存じなかった。びっくりされていた。新聞等で多少は知っていても、まさか、ここまでとは思われないのだろう。今学校で何が起こっているのか、それによって子どもたちがどうされるのか、知らせていかなくては。
鶴川からここに異動をさせられた3月終わり、これまでの異動時と同じように、資料や教材を運び込んだ。その中に停職中の今使いたいものが出てきたり、あるいは、この学校で使わないだろう物もありそうなので、それらを来週にでも自宅に持ち帰ろうかと思い、校長に申し出たところ、校長は今回も即断・即答はしない。「あとで返事します」と。
荷物を搬出する10数分、学校の敷地に入るのを許可するだけのことなのに。私のことになると、「校長の判断」は許されないのか?「君が代」にかかわる職務命令も校長の人事構想に合わない教員を異動させる時も常に、それは「校長の判断」であって、「都教委が校長に指示命令を出しているのではない」と都教委は言っているのにだ。都教委にお伺いを立てたのだろうか、それとも協議をしたのだろうか?午後、副校長の一人を伴って、「許可」との回答を告げに来た。
今日の訪問者は全部で6人。
夜は、町田の戦争を語り継ぐ会の講演会に参加。安倍退陣を知った。安倍サン一人じゃなく、この人を選んだ現政権の自民・公明党が責任を取り、政権の座から離れるのが筋だろう。
9月10日(月)
今日と13日は今春の「君が代」不起立2回(減給・停職)以上の人を対象に行う再発防止専門研修。私も抗議と激励に研修センターに行った。
今日の支援者は7月に比べ少なく、30数名。やや淋しい。だからか、7月の時には都教委の指導主事(?)ら、にわか仕立てのガードマンは建物から出ては来ず、中からこちらを見ていたけれど、今日は敷地に一歩も足を踏み入れさせないよう、建物から出て敷地いっぱいに立っていた。押すか押されるか、力学の世界。
専門研修は受講させられる被処分者1人を都教委側4人が囲んで行う。圧力を加えることが目的の、だから中身は一方的で、地方公務員法を読み上げるだけ、受講者の質問には答えない「研修」となる。私たちを囲い込もうとするのではなく、私たちの土俵に乗ってこない作戦だ。そんなことで私たちが転向することなどあろうはずがない。私たちは確信を持って着席しているのだから。そのことは都教委の役人たちだって認識しているはずだろうに、しかし、自身が上意下達の中で圧力を受け、圧力を加え続けてきて、また、私たちを説得する理を持ち合わせていないために、それ以外の方法を思いつかないのだろう。圧力にしか頼れないのだろう。
ガードマンをさせられている指導主事たちは、教員から上がっていった人たち。その人たちに、あなたの仕事の中身を問い返そう、と歩道にいる私たち、SさんやFさんは訴えた。
都教委は、午前中5人の被処分者を呼び出していたのに、5部屋の用意をしていなかったとかで、研修の開始が15分も遅れたそうだ。都教委は、受講者にきちんと謝罪をしたのだろうか?
9月7日(金)
もしどなたか来てくださってしまったら、と気になって、いつものチラシまきの時間に都庁に行ってみた。8時半、もう大丈夫と引き上げた。
9月6日(木)
早朝、激しい雨の音で目が覚めた。予報では「午前中から雷」と言っていたので、鶴川に着いてすぐにそれでは行っても仕方ないかと思い、今日は「出勤」しないことにした。皮肉にも日中は昨日より、雨は静かだった。夕刻から激しい降り。明日の都庁チラシまき中止のお知らせを流した。
9月5日(水)
南大沢学園養護学校に。台風の影響で時折激しい雨が打ちつける。ちょうど登校時間帯は激しい降りで、生徒に「おはようございます」と声をかけるが、声がかき消されてしまうほど。近藤さんは、手作りのいつものゼッケンを着けて一緒に生徒を迎えてくださった。お近くにお住まいのCさんが、「これからは私も毎週立つわ」とおっしゃる。Dさん、Eさんもいらした。
雨がやんだ少しの時間は、いくつものクラスが外に出てきた。生徒は楽しそう。その生徒たちに声をかけながら、私、もうしばらくしたら中に入ってこの子たちと一緒にいるんだなあと想う。
7月までと同じように昼食前は、高等部の生徒が活躍する喫茶室に行ってゆっくりさせてもらった。
午後、小・中等部の下校が終わり、激しい雨の中座って仕事をしていると、落雷の音。早々に退散した。
9月3日(月)
立川二中へ。9月の月曜日は、今日が初日で最終となる。来週の月曜日は、今春の卒業式での、私を除く被処分者に対する再発防止研修。そこに抗議と支援に行くので、立川二中には今年は今日が最後だ。
遠足を迎える子どものように、昨夜は布団に入ってから寝付かれずに3時間、やっと3時半ころ眠りに入ったが、今度は夢の中で「起きなくちゃ」としきりに言っている。そうして5時半起床。
登校時は夏休みの間「出勤」しなかったからか、「あれ?また来たの?」という表情の生徒がかなりいた。一人は、「がんばってくださーい」と元気な声をくれた。訪問者が3人いたので、おしゃべりに興じてしまったせいか、道行く人と話をすることがなかった。いつも通りがかりにクラクションを鳴らしてくださる市議のAさんが、今日も鳴らしてくださったので、挨拶を返せただけ。
午後は、防災の日にちなんで、集団下校。生徒はいったん下校して、まもなく、今度は部活動に再登校をする。今度は、とっても元気。挨拶の声が弾んでいた。今年は9月1日が土曜日、この日に防災訓練をするために土曜日を始業にしたり、初日の訓練では混乱するといけないからと始業を8月終わりにしたりした区市や学校も出現した。もっとも夏休みを1週間もカットする学校がしばらく前から出ているが…。週休2日制の意味などとうに葬り去られている。
昼下がり、青年が自転車を止め、「根津先生ですか?」と声をかけてきた。私が着任する前の卒業生で、妹さんから話しを聞いていて、会ってみたいと思い、何度か訪ねてやっと今日会えたと言う。妹さんは、私が教えたBさんと言う。
彼と、「日の丸・君が代」の強制と教育との関連問題、強制することや「愛国心」について語り合った。今日掲げていたプラカードに書いた「『立たない教員がいると、生徒は立たなくてもいいと受け取ってしまう』と都教委は言います。しかし、これは教育ではなく、洗脳でしょう」を見て、「確かにこれは洗脳ですね」から始まって、「学校は考えを刺激するようなことはしてくれない。社会科は、事件の背景を考えたいのに、年号ばかり覚えさせられた」と言う。考えることの楽しさや大切さを知っていることがわかる。もっともっと知りたい、考えたいと思っているのが伝わってくる。私に会いにきたのも、会って話をして考えたいと思ったのだろう。自分を持っている青年(少年)で、とてもいい感じを受けた。
しかし、今まじめな青少年がちょっと知ろうと手を伸ばすと、そこにあるのは、日本の戦争はアジア諸国を開放したとする、勝手に塗り替えた歴史の書物が圧倒的に多い。彼もその歴史を信じている。無理からぬことだ。学校教育が事実をきちんと教えていないことが元凶だ。「アジアを開放した、と主張するのは、日本の右翼の人たち。当のアジア諸国の人たちや政府が、『日本が開放してくれた』と主張しているかしら?」。彼も聞いたことはないようなので、「各国の歴史教科書に日本の侵略がなんと書かれているか、解放してくれたと書いてあるかを調べると、政府の見解がわかると思うよ」と話した。優に1時間は話していった。
ここ何年か、大学生に話をする機会があり、そこで、改ざんされた歴史を真実と勘違いしている人が年々多くなっているのを感じる。でもまた、事実をしっかり提示すると、「始めて聞きました」とまじめに捉えようとする学生もかなりいる。そこに希望を見るのだけれど、公教育に携わる教員たちの姿勢が問われている。
7月18日(水)
南大沢学園養護学校へ。
今朝も私が7時40分に着くと、近藤さんはすでにいらしていた。しばらくすると、連絡を受けていたバンクーバー在住で一時帰国されているバンクーバー9条の会のNさんが訪ねていらした。3人で生徒たちを迎えた。近藤さんは今朝も校長に、私の扱いについての「お尋ね」を封書で手渡した。校長は、どのように答えてくるのだろう。
Nさんは、インターネット上で「君が代不起立」の映画を知り、バンクーバーで上映会をされたのだそうだ。映像の威力もインターネットの威力もすごいものだ。この上映会に参加された一人の方がNさんに託された、私宛ての手紙をいただいた。読ませていただいて、胸がキュンとなる・・・。お手紙をくださったお気持ちを想う。
今日の訪問者は、他にあと2人。熱心に質問をされるNさんに答えながら、外での授業に出かけ、あるいはそれから帰ってくる子どもたちに、ことばをかける。午後は初訪問のMさんを、公園内の喫茶室に案内した。喫茶室の実習は今日がはじめてという高等部1年生の生徒たちが、注文を訊き、飲み物を運んでくれる。何人かは、顔見知りになった。どの生徒も皆、一生懸命だ。その姿を見ながら飲む飲み物はおいしい。
訪問者が帰りしばらくして、下校の時間。書きものをしていると、声がする。気づいて顔を上げ、軽やかな発声で挨拶をすると、その生徒は納得し、からだ全体で気持ちを伝えてくれた。「お友だちだよ」「受け入れるよ」ということなのかな。また、仲良しになったAさんは、「ねづきみこ先生!」と言って、手を上げてさよならを告げてくれた。握手をして挨拶をしてくれる生徒もいたり。卒業生のBさんとは、今日も立ち話をした。プラカードを読んでいく生徒もいる。3ヶ月間の校門前「出勤」で、生徒たちと随分と顔見知りになった。9月まで「さようなら」。
7月12日(木)
鶴川二中へ。登校時、今までは私の挨拶に無視をしていた一人の生徒が、ちゅうちょしながら「おはようございます」と挨拶を返してくれた。こうしたちょっとしたことに、ほっとする。
今朝も登校時の挨拶に立っているとSさんがやってきた。しばらくして、先週電話で申し出のあった大阪の大学院生Tさんがいらした。インタビューを受けた。近所にお住まいのKさん、Mさんも立ち寄ってくださった。
皆でおしゃべりをしていると、自転車で通りかかった60過ぎと思われる女性が、プラカードを見ていらっしゃる。「これは、私のことなんです」と言うと、「えっ」と絶句され、やや置いてから、「なぜ国歌を歌わないんですか。国歌なのだからいやでも歌うのが当然でしょう」とおっしゃる。「生徒には歌の意味も歌う意味も教えず隠して、起立させ歌わせますが、これは学校のすべきことではないと思います」と私が言うと、「そうですか、教えないんですか。教育委員会に教えるよう要求しましょう」と言いながら、話し途中で自転車をこぎ出して行かれた。
午後は最後の聴講を断念して、研究のため来日されているフランスの教員であり、大学院生であるKさんに会った。「君が代不起立」の映画が取り持った縁である。東京の「君が代」処分について、4月にお会いしたフランスの記者がおっしゃっていた「フランスでこのようなことが起きたら、教員たちは黙っていない」と言われたことを話すと、彼女も即座に、「フランスならすぐにストライキですよ」とおっしゃった。ストライキは正当性を示すことなのだそうだ。それを見て人々は多くが、理解し、支持するようになるのだとも。つい最近では、彼女の住む町で博物館の公務員が賃金upを要求して2週間ストライキをしたと言う。同じ地球上のこと?!7月11日(水)
南大沢学園養護学校に。雨が降ったり止んだりの空模様。
今朝も早朝から近藤さんのほかにTさんがいらして、一緒に挨拶に加わってくださった。途中からSさん親子も加わった。外での授業の子どもたちが通るたびに一言かけたり、それに対してにこにこ顔と握手で返事をくれたり、またその合間におしゃべりに花を咲かせてのゆったりとした時間を過ごす。瞬く間にお昼ご飯。お昼は、喫茶室に行ってオール100円の飲み物を注文し、そして12時に持ち込まれる共同作業所のパン屋さんの天然酵母のおいしいパンを買って楽しんだ。食パンやフランスパンは、そのまま何もつけないで、食パンの持つうま味が十分味わえるのでお勧めだ。なんと、Sさんは今日の大きな目当てが喫茶室だったそうな。
下校時、卒業生のBさんがしばらく話しこんで行った。東京の「君が代」処分についての話しをすると、彼は、「強制はよくないです。おかしいですよ」と言っていた。
7月9日(月)
立川二中へ。「1日中曇り、最高気温は26度」の予報を聞き、防寒対策をして「出勤」。ところが予報は見事に外れ、午後は日差しもかなり強く、帽子をかぶっていてもコンクリートの照り返しで、帰る頃には日焼けで体がひりひり状態だった。
夜中からのひどい頭痛とそれによる睡眠不足で、学校到着がいつもより遅く、すでに半分くらいの生徒は登校していた。今朝はNさんが私と一緒に生徒たちへの挨拶に参加してくださった。1人で10人分もの声量の、それでいて柔らかい音色のNさんの「おはようございます」に、生徒たちはかなり自然に挨拶を返していた。なんかほほえましい風景だった。
気づかない私に、「お疲れ様です」と声をかけて通られた初老の男性、車のクラクションを軽やかに鳴らし、手を振ってくださった顔見知りになった大学教員の方。こういう人たちの一言に励まされる。
お昼頃から隣の北多摩高校の生徒が下校し始めた。高校はもう午前授業に入ったのかと思っているところに、卒業生のAさんが通りかかった。私はいすに座ってほとんど居眠り状態だったが、偶然にも目を開けて彼の姿が目に入った。ほとんど寝ぼけ面で、あわてて立ち上がって挨拶をした。彼は、眠っているから声をかけないほうがいいか迷っていたのだそうだ。お腹が空いているだろう彼と長いこと話をし、引き止めてしまった。こうして卒業生と話をしていると不思議なもので、頭痛も眠さもかなり軽減している。
二中生徒たちの下校時間。Nさんを見て、「今日も1日、元気でがんばってください」と朝の彼のことばを真似る生徒もいた。子どもって、本当によく覚えているし、うまく真似る。3年生の集団は、あれこれ声をかけてきて、「根津先生は間違っていないです!」と大きな声で言いながら、帰って行った。「先生のインターネットを見た」と言った生徒もいたことから考えると、「間違っていない」は、停職1ヶ月の初めての校門前「出勤」の時に、私がプラカードに書いたことばを使って言ったのだろう。まったく、うまいものだ。脱帽だ。
7月6日(金)
都庁第一庁舎前でちらしまき。今日も、初めての参加者が4人。Iさん、Sさん、Yさん、Aさん。総勢18人。皆さん、お忙しい中、時間をやりくりして駆けつけてくださる、そのお気持ちが心に沁みる。とっても励まされる。今日からは新品の、会所有のマイクで訴えた。長い闘いになることは間違いないし、いつでもどこででも使えるように、会でマイクを買おうとしていたところに、Fさんから代金カンパの申し出があった。ありがたく、乗らせてもらった。Aさん、今まで貸してくださって、ありがとう。
今朝はちらしの受け取りがとってもよかった。それをみんなが実感した。Oさんは4回も「ください」と言われたそうだ。
7月5日(木)
急用ができてしまい、鶴川に「出勤」することを断念した。訪ねてくれる人がいらしたら申し訳ないと思いつつ、すでに朝。どうすることもできなかった。
SAさん、Mさん、Sさんが訪ねてくれてしまった。ごめんなさい。
7月4日(水)
南大沢学園養護学校に。今日も雨模様。
今日は特記すべき日となった。1ヶ月前からここに来てくれている「君が代」被処分者とは、八王子5中夜間学級の近藤さん。今朝は私が「出勤」した7時35分にはすでに到着していた。彼は、下に示す「根津公子教諭の解雇を避けるための要請書」を前回校長に手渡そうとしたが、受け取ってもらえなかったので、今日こそは渡したいと思って、早くに来てくださっていたのだった。
7時52分、校長が歩いてくる。近藤さんは校長に名を告げ、挨拶をし、「校長に読んでいただきたいと思い、手紙にしてきました。受け取ってください」と渡そうとしたが、校長には歩を止めて対応する様子が見られない。「待ってください」と2人で何度か言うと、やっと一瞬歩を止め、手紙を受け取った。そして、そそくさと玄関に入っていった。
「外に開かれている学校」などと都・市教委は言うが、開かれる対象はしっかり校長・教委が選別している。
近藤さんが、意思表示をしてくださったことにとっても感激し、励まされる。
彼の校長宛手紙は――
2007年7月4日
南大沢学園養護学校 学校長 様
八王子市立第五中学校夜間学級
近藤順一(被処分者)
根津公子教諭の解雇を避けるための請願書
貴校の根津公子教諭は、現在、不当にも東京都教育委員会より停職六ヶ月の処分を受け、正常な校務が遂行できない状態にあります。処分の理由は、私と同様、卒業式における国歌斉唱時に不起立・不斉唱を行ったこととされています。根津教諭の行動は、卒業式を混乱させたり教育活動を妨害することではなく、生徒や保護者をはじめとする卒業式参列者の思想及び良心の自由が守られること、特に生徒諸君が自ら考え行動することの大切さを訴えるものです。このことを根津教諭は一貫して述べています。私たち、公務員は、憲法九九条にもあるように、この憲法を擁護し尊重する義務があります。私たち、教育公務員が生徒の学習の自由、自由な思考を保障することこそ、その義務の根本であると思います。
学習指導要領に国旗、国歌を「指導するものとする」とあるのは承知しています。国旗、国歌(日の丸・君が代)については、「国旗、国歌法」が成立してはいますが、その歴史的評価や国際的評価について、日本国内外において様々な見解があります。そこで、学校教育の場でこそ、多様な意見が採り挙げられ、慎重に、児童・生徒がよく考えられるように提示される必要があります。貴校で学ぶ児童・生徒や、私の職場の外国人生徒には、特に丁寧に指導する必要があると思います。このように考えてきますと、儀式の場で、一律に外形を整えるのは、教育の本質に逆行していると思います。貴校の実態をぜひきかせてください。
学校という社会のソフトな分野では、自由な意見、行動が最大限保障される必要があります。もちろん、私たちは、勝手気ままにやることはできません。しかし、その自由に対して、処分や、まして完全に身分を奪う解雇など、決してあってはならないと思います。
私は、根津教諭が正常な校務に就けるよう、また、解雇されることがないよう次のことを要請します。
1,停職期間中も、根津教諭が、貴校管理職と話し合いの場が持てるように取りはからってください。
2,停職期間中も、勤務時間の内外を問わず、根津教諭が、貴校教職員と接触し、話し合いが持てるように取りはからってください。
3,解雇処分がされないように、校長として執りうる措置を講じてください。
以上、よろしくお願いいたします。
今朝は次々に訪問者がやってこられた。近藤さんのほかに、報道関係のMさんにDさん、そしてSさん、Oさん、SUさん、Tさん。
9時20分頃、校長が副校長を伴って私のところに来た。「用事はここで聞きます。何でしょうか」と。朝、近藤さんが校長に手紙を渡した際に、私が校長に「用事があるので後で校長室に伺います」と告げた、そのことで来たのだった。朝は何の反応もなかったので、さて聞こえたんだろうか?と心配だったのだが、聞こえていたのだ。返事くらいしてくれたっていいだろうに、と思う。
「停職中は根津を校地に入れない」と堅く決めた校長は、今日も雨の中、外に出てきて私に対応した。4月に質問をした時も、その回答を告げた時も雨であったにもかかわらず、訪ねた私を外に追い出し、傘を差しての異様な対応をした。こうした対応は、私にはとっても滑稽なのだけれど、校長や同伴した副校長には滑稽に映らないのだろうか?と思いつつ、用件を話した。
用件とは――。10日ほど前に私は公民館活動の講師を引き受けた。その謝礼(交通費込み)が支払われるということで手続きをする際に、公務員の兼業兼職との問題が生じるかも知れず、市にその旨伝えた。そこで結局は、私が校長に事後に申請をすることにし、その日以降で初めて校長に会った今日、校長にこれまでのいきさつを説明し、申請を申し出た。
しかし、回答は「事前申請」だと譲らない。「かつて市の講師を引き受けた時には、市と校長との間で話しは済み、私が申請する必要はなかったので、体験上私は、その認識にあった」ことを話し、「事前に校長から説明を受けていなかったのだから、事後申請を校長の裁量で認めてほしい」と要求したが、にべもない。
「1つ目、事前申請ではない。2つ目、停職期間中。3つ目、申請しても許可しないことがある。内容によって判断する」と校長は繰り返し、私の話しはまるで聴こうとしない。「2つ目」がどういう意味なのかを訊いたけれど、「事実を言っているのです」と言うのみ。さっぱり関連性が理解できない。理解させるつもりなど、そもそもないようだ。
「では今回、どうしたら、事後申請が可能となるか」と訊いても、「ありません」。そして引き上げていった。校長からも副校長からも、冷酷さしか感じられない。
訪問者を公園の喫茶室に案内した。みんな、ゆったりした時間の流れと、おいしい飲み物オール100円に喜ぶ。
午後は多摩中裁判。
7月2日(月)
立川二中へ。雨。
登校時、走り寄ってきて「先生、まだですか」と1年生。月が変わったのに・・・と思ったんだろうか。「まだまだよ」と答えると、「がんばってください」とぺこんと頭を下げて友だちの中に入っていった。
車の中から2人が、自転車でも2人の人が手を振り、あるいは頭を下げ、声をかけて通って行かれた。いつもの70歳近くの男性、そして70代くらいの女性と挨拶を交わす。こんなちょっとしたことが、心をほんわかさせてくれる。
ぼーっとしていると、通りかかった青年がバイクを止めて、「先生、ぼく石川中の卒業生です」と言う。「う・・・?」と首をかしげると、「Aです」。10年近く経ち、スマートになっていたので、わからなかったが、目を見ているとすぐにかつての顔が浮かぶ。仕事の途中なのだと言う。「まだこういうことやっていたんですか」――「アッタリ前でしょ」。「元気でね!」と互いに言い、後姿を見送った。
普段は部活で早くに登校し、私とは顔を合わすことのなかった生徒が、早くに下校すると言う。「何をしているんですか」と訊いてきた。ざっと説明をすると、「強制は私もいやです。それで処分なんて、変ですよね」としばらく話していった。
北多摩高校は今日がテスト第1日目で下校が早い。ここに進んだ卒業生のBさんが、わざわざ立ち寄ってくれた。気遣いが心に沁みる。
6月29日(金)
都庁第二庁舎前でチラシ撒きとマイクでの情宣をした。今日は映画「君が代不起立」をご覧になって、また、集まりで私の話しを聴かれて、応援しようと参加してくださった方がお二人。TiさんとYさん。
大阪からは、チラシまきのために夜行バスで上京してくださった方がいらした。初対面のFさん。事故による渋滞に2度も巻き込まれ、チラシまきには間に合わず、とっても残念。交通費だけがかさんでしまわれたが、お気持ちがうれしく、励まされた。
停職3ヶ月が過ぎようとしている。河原井さんは、今日も「全国行脚」をしているが、来週から学校に復帰だ。9ヵ月後、都教委に私を解雇させはしない。
6月28日(木)
鶴川二中へ。
学校の少し手前で毎朝お会いする女性といつものように挨拶を交わした。いつもそれだけのことだったが、今朝はその女性が、「何かの調査ですか」と訊かれた。私が座っているところもプラカードも見てはいらっしゃらないので、1年間不思議に感じていられたようだ。わけを話すと、「抗議していらっしゃるんですね。立派ですね。がんばってください」と言ってくださった。
今朝は登校するTさん親子とも会うことができた。Tさんはここで知り合ったかわいいお友だちである。4月にTさんがプレゼントしてくれた桜とたんぽぽがきれいにドライフラワーになっていることを手紙かメールで知らせようと思っていた矢先の対面。そのことを告げると彼女もにっこり。素敵な1日の始まりとなった。
校門の前に立ち挨拶の声をかけていると今朝もかなり遠くから、「おー」と声をあげながら登校してくる数人の一団。立ち止まって、「強制は反対だよね。おれも強制されるのはいやだ」「おれたち、ねずみの仲間。がんばれ!」と言って行く。3ヶ月前との違い。何をきっかけに彼らは、このように思い始めたのであろうか…と思いつつ、とにかく、彼らに考えるきっかけを提供できたのだと思った。
9時少し前、牛乳運搬車が止まった。いつものように挨拶を交わす。とっても感じのよい、健康的な初老の男性で、荷降ろしの前後に毎日挨拶を交わしていた。いつもはそれだけだったが、今日は互いのことを少しおしゃべりした。
おじさんは朝3時半には仕事を開始、夜7時まで15時間こうして配送、荷降ろしをされているのだという。働けるうちは働くんだと、とっても前向きの方。やっぱり印象どおりの、人間性豊かな方だった。
Bさんから私のことを聞かれたTさん、Mさんが訪ねてくださった。3人は、学区に住まわれる若いお母さんだ。「Bさんから聞くまでは、『日の丸・君が代』のこと、考えたこともなかった」とおっしゃる。そういう方が、考えたこともなかった分野の扉を開けてくださるのはとってもうれしい。
10時からは鶴川の、若い人たち主催の集まりに。そして午後は聴講に。
6月27日(水)
A大學の授業に招かれた。
6月25日(月)
立川二中へ。
梅雨空。今日は定期テスト、子どもたちの声さえ聞こえてこない。
午前中は、土曜参観の代休というのでSさんが訪ねてくれた。
昼過ぎ、本を読んでいると、「先生、またかね」と声がする。私もすぐにわかった。「まあ、おじさん、お久しぶりです。お元気のようですね」。昨年も一昨年も通院のためにここを通られ、いつも長い時間私のところで道草を食っていかれた80歳に近いOさんだった。今年は初めての出会い。今日も長い時間あれこれ会話をし、「先生、(話をして)少しは元気になったかね?応援しているから、がんばるんだよ」と言って、病院に向かわれた。Oさん流の癒しをあり難く受けた。
そうこうしているとすぐに下校時刻になった。「雨降っているのに大変ですね。がんばってください」と3年生の一団が下校する。1年生の集団に「テストお疲れ様でした。がんばれましたか」と声をかけると、「はい、できました」という声が返ってきたり、にっこりしたり・・・。
下校する生徒たちを見送ったところで、私も「退勤」し、会議のために都心に向かった。
6月22日(金)
都庁第一庁舎前で8時から1時間、チラシ配り。
今日も14人の人が集まってくださった。大勢で配ると活気づき、チラシの受け取りもいい。都庁の中からも声をあげてほしい!と思いながら、訴えた。
ちょうど終わろうとするところに、富山に「全国行脚」に行っている河原井さんから電話が入り、河原井さんからの「ありがとう」をみんなに伝えた。
6月21日(木)
鶴川二中へ。
「根津先生おはようございます」と大きくさわやかな声をかけてくれる何人かの集団。「オーイッ」とはるか前方から声をかけてくれる集団。「がんばってください」といつもの何人かに元気をもらい、今日も始まる。
まったく私を知らない1年生の中に、私の挨拶に返事を返さない生徒が現れてきた。流言飛語を信じてしまう社会現象は、そのまま子どもの社会にも起きるわけで、この1年生たちも、信じ込まされ始めたのだろうか。
この連鎖を断ち切るのに必要なのは、自分の頭で考えることを大事にする教育。
しかし、自分の頭で考える教育と対極にある、国の考えを刷り込み、国に従順な人間をつくるための教育関連3(4)法が昨日成立してしまった。
こんな社会状況だからなおさらのこと、私は私の受けた処分を、身体ごと晒し、発信していく。
通りかかった2人の方が会釈をしてくださった。どちらも初老の方だった。
せっかくの休日を使ってSAさんが訪ねてくださった。こんなにゆっくり話しをしたのは初めてのこと。75年生まれの彼女と感じ方考え方がびっくりするほど似ている。話せば話すほど、そのことがわかった。いいひとときを過ごさせていただいた。
少し遅れて聴講へ。
6月20日(水)
南大沢学園に。
Kさんは校長に、根津を支援する気持ちを書いた手紙を手渡そうと思って早朝からやってこられた。校長が出勤し、私と挨拶を交わしている2メートル後ろにKさんの姿があった。門の中に入っていく校長に私は、「この人は私と最近知り合った人です。校長に話をしたいとのことですから、聴いてください」と言い、Kさんも言い始めたが、校長は頭を下げると背中を向け、中に入ってしまった。その後Kさんは先週のボール紙ゼッケンを胸にかけ、私の隣で子どもたちを迎えた。
ここに出勤する人たちを降ろしたタクシーがUターンしてきて、私の隣で止まり、後ろの扉が開いた。と思うや、運転手さんが「がんばってくださーい」と身を乗り出して大きな声で言ってくださった。うれしかった。
出勤時に今朝も何人もの教員が労いのことばをかけてくださった。「Cと言います。ご苦労様です。何かできることがあったら、言ってください」と新たに声をかけてくださった方も。
ほとんど人通りのない道だけれど、ここで人と待ち合わせていると言う女性が、「新聞で見ています。応援しています」と言ってくださった。
また、来校された男性は、車を停めて出てこられ、「どこまでもがんばってくださいね」と言って行かれた。
午前中のお茶タイムは、いつもの喫茶室へ。今朝初めてことばを交わしたCさんおすすめのアイスココアを注文した。なんたって、100円なのが、魅力。
Uさん、SUさんが訪ねてくださった。
6月19日(火)
95年3月に嘱託採用拒否をされた田畑さんの裁判を傍聴した。当時の豊島区教委N室長への尋問、そして田畑さん本人への尋問と長時間にわたった。
不採用の理由は、「田畑さんが仕事の意欲に欠け、社会性に欠けると判断した」というもの。「仕事の意欲に欠ける」としてあげた「事実」に、「補教をしない、拒否した」がある。
原告代理人がN室長に、1年間に43回補教に当たったことを記録した出席簿のコピーを示し、「都教委に面接結果を具申する際に、43回の補教を知っていましたか」と訊くと、成田室長は「知りませんでした」。事実を知らずに、「意欲に欠ける」と判断し、都教委に採用しないよう具申したのだ。
公簿に記録が残るものについてこの通りなのだから、記録が残らないものについては、やりたい放題の創作をしたことは、言うまでもない。
また、室長が「社会性に欠けると判断した」のは、「採用に当たっての面接時に、田畑さんが許可も得ずにメモを用意し、時折メモをしていたから」と言う。
よほどの偏見がなければ導き出せない結論だ。おかしいことをおかしいと主張する彼女への報復であり、はじめに結論ありきであったことが、傍聴していてよくわかる。
再雇用採用を拒否されてから12年、田畑さんは闘い続ける。
6月18日(月)
立川二中へ。
生徒たちの登校が終わって、仕事を始めようとしたところに、Sさんの訪問。語り合った。
今日出会った人たちは――。
信号待ちで私の前に止まった車の窓が開き、40歳前後の男性が身を乗り出し、笑顔で手を振ってくださった。私も立って、手を振り、「ありがとうございまーす」と大きな声で答えた。
2人目は、私より10歳ほど年長と見られる女性。プラカードを見て、私に話してこられた。「なぜ国歌を歌わないの?」「国歌なんだから歌えばいいじゃない」と。話してみて、そこはかみ合わなかったが、その女性、「でもこんな処分はひどいよね」とおっしゃった。
「国旗国歌は尊重するもの」とおっしゃる方の中にも、「処分はやりすぎ」と感じていられる方は結構多い。
3人目は、70歳前後と見られる女性。「随分長いねえ」とおっしゃる。初めての方かと思って尋ねると、「いつも見ているよ」と。「いったい国は何を考えているんだろうね」と言われたことに対し、私が「戦争したいんじゃないんでしょうか」と言うと、この女性、「えっ、戦争はいやだよ」と条件反射的に言われた。戦争体験がそう言わせるのだろう。
4人目は、今春卒業したAさんのお母さん。今年はこの道を通られないなあと思っていたところでの出会いだった。お子さんの近況を伺ったりして、楽しいひとときであった。
今日は定期テスト直前で、原則一斉下校。何人何組かが立ち寄って話していった。
3年生のBさんは、「先生、治安維持法で捕まっちゃうよ」と言う。「治安維持法の時代と同じ、と私も思うよ」と私。彼はこうも言った。「卒業式の日の朝配っていた紙(チラシ)の歌の意味を見て、ホントにむかついた」と。彼は、チラシ回収隊のおじさんに渡さずに、今もこのチラシを大切に保存しているのだそうだ。
校門の前で撒かれたチラシを、校門に入ったところでそれを回収する回収隊。無理に回収すれば、彼のように、そこから「なぜ?」と考える生徒が出現するのは当然のことだ。別れ際彼は、「がんばってください」と言ってくれた。
二人連れの1年生。じっとプラカードを見ていて、「おかしいですよね」「がんばってください」と言う。「どういうことかわかるの?」と訊くと、「はい、わかります」。もう一人は、「軍国主義です。お姉ちゃんが言ってます」と。
じっとプラカードを見る生徒に学年を尋ねると、どの生徒も「1年生です」。「何のことか知っているの?」と訊くと、大半が「知っています」。
登校時に元気な声で挨拶をしてくれるのも、私のことを一応知っていてのことなのだと、わかった。
他にも何人かが、「がんばってください」と言ってくれた。
曇りの予想が外れ、晴天。アスファルトの照り返しがきつかった。
6月15日(金)
都庁第二庁舎前でチラシまき。17名もの方が参加してくださった。
今日は「教育改悪をみんなでとめよう!全関西の集い実行委員会」のメンバー、KさんとTさんが幟を持って参加してくださった。「東京の『君が代』処分は、異常です。大阪では大勢が座っていますが、処分なんてされていません」「兵庫でも東京のような処分はありません」とマイクで訴えてくださった。
都教委の「君が代」強制・処分、教育破壊に怒っている人は全国にたくさんいるのだということが、都教委の役人たちに伝わっただろうか・・・?
その後は国会前に。今日も北海道教組の人たちが座り込んでいたので、そこに参加した。北海道の人たちは、東京の「君が代」処分についても非常に危機感を持っていられる。「君が代不起立」の映画もたくさんの方が見ていられる。
今日は沖縄から、高校日本史の教科書検定で、「集団自決」をめぐる記述から「日本軍の強制」が削除されたことについて、沖縄戦の歴史歪曲を許さない!県民大会実行委員会の代表の方々が、国会要請行動にいらしていた。
署名提出(92338筆)、院内集会があると聞いて、参加した。高嶋伸欣さんの報告等をお聞きし、沖縄の新聞報道を見せてもらい、東京ではまったくと言っていいほど報じられていないこの間の動きを知った。
6月14日(木)
今日は鶴川二中を休んで、朝から国会に行った。
午前中は、北海道教組の旗のところで座り込んだあと、参院文教科学委員会を傍聴した。子どものことが何も出てこない、茶番としか言いようのない質疑と答弁だった。教育関連法3(4)法を通過させてはいけない。
午後も裁判開始の時刻を逆算して、座り込みをした。北海道教組は、連日、交替で年休を取っての参加ということだ。
「日本政府は日本軍性暴力被害者に謝罪と賠償を!」と集まった大勢の人たちの国会前集会にも少し参加させてもらった。
4時からは、「君が代」処分を受けた東京教組組合員10人で訴えた地裁の第一回目。たくさんの方が傍聴してくださった。
6月13日(水)
南大沢学園に。
気温がやや高めだけれど、湿度は低いらしく、日陰に入ると涼しい。さわやかな気候。
私が到着すると間なしに、Sさん・Mさんが取材に来られた。Kさんは先週に続き、今日も子どもたちの登校時から来られた。「根津さんの解雇 『君が代』強制 やめよう」と書いたボール紙を胸につけて私の横に立ち、元気な声で子どもたちに挨拶をかけてくださる。彼は、「根津さんを応援している教員がいることを、校長たちに具体的に示すんだ」とおっしゃる。とってもうれしい。
今日は朝からSさん、S2さん、S2さんのお友だち、大学生のTさん、そしてMさんと次々にやってきた。
大勢だし、日差しも強いので、学校の隣の小山内裏公園の喫茶室に行った。メニューを見て、飲み物オール100円に皆歓声をあげる。一生懸命に実習に当たる生徒たちとあったかーい雰囲気のスタッフの方々とのやりとりが、私たちをも幸せにしてくれる。
今日は喫茶室の半分で、赤ちゃん・幼児連れの若いママ・パパの触れ合い交流が繰り広げられていた。こんなに大勢の赤ちゃんを近くで見たのはとっても久しぶり。
こういう空間に身を置く心地よさを感じながら、訪ねてくれたみんなで盛り上がった。
下校の時間はいつものように見送りをした。
今日は出勤・退勤時に「同僚」となる何人かから、うれしいことばをかけられた。
「給料もボーナスも出ないんですか」(「もちろん出ません」)「ひどいですよね。それでも信念を貫かれて・・・ありがとうございます」
「本当は私も座らなくてはいけないのに・・・。」「私たちにできることはしますから、言ってください」等々。
6月11日(月)
久しぶりの立川二中。
今日も朝の短い時間しかいられないのだけれど、登校する生徒たちを迎えるだけでもと思い、学校に向かった。家を出るときには晴れていたし、今日は短時間だからと合羽を持たずに出発してしまったところ、立川に入ったところで雨が降ってきた。困ったと思いつつ、幸いにも強い雨にはならず、傘だけで何とかしのげた。
登校する生徒たちと挨拶を交わし、また、北多摩高校に進んだ二中卒業生と挨拶を交わし、1週間の始まりを感じた。
今朝は福岡から上京されているAさんが、時間を割いて校門前を訪ねてくださった。
6月8日(金)
都庁第一庁舎前でチラシ配り。今朝は、「都合がつかない」という連絡が数人から入っていたので、心配していたところ、新しい方の参加もあり、いつもより少ないながら、10人の方が参加してくださった。本当にありがたい。
マイクを持って「来春『君が代』で、私を免職にさせないよう、お力をお貸しください。都教委、都庁の中から反対の声をあげてください」と訴えると、私に視線を向ける方が何人かいらした。聴いてくださっている方に、私の、そして私たちの気持ちが届いただろうか・・・。
6月7日(木)
鶴川二中へ。先週「がんばれ」と言ってくれたCさん、今朝は、3人連れでかなり遠くから大きな声で「ねずみー」と呼び、近くに来ると「戻ってきてよ。もう、戻れないの?」と言う。そして、「おれたちだけかもしれないけど、戻ってきてって、言うのは」と付け加えた。思い込まされていた何かが氷解しつつあるのかなと想像しながら、うれしく挨拶を交わした。
「がんばってください」「ご苦労様です」といつもの何人かが、今朝も気持ちを伝えてくれた。
今朝もジョギング帰りのDさんが立ち寄られた。「こんな処分よりももっとやることあるのにねえ。石原都知事は何を考えているんだろうね!」とおっしゃる。しばらくおしゃべりをし、「がんばってください」と言って帰っていかれた。
学区にお住まいのKさん、Yさんが立ち寄ってくださった。とっても気持ちが通じ合うお二人とのおしゃべりは楽しく、勉強にもなる。もう少しおしゃべりを続けたかったが、午後の予定があったので、早くに引き上げた。
午後は大学の講義で話しをした。話をしていて、何度も学生と目が合った。よく聴いてくれたような印象を受けた。
6月6日(水)
南大沢学園に。登校する生徒たちを挨拶で迎えている中、私が「おはようございます」と言うと、「お名前教えてください」と近寄ってきた生徒がいた。プラカードの名前を指で指して自己紹介し、続けて、「あなたのお名前を私に教えてくれますか」と言うと、「ABです」とにっこりして教えてくれた。認めたよ!ってことかな?と勝手に想像して楽しくなる。
生徒の登校に混じって、とっても親しみのある笑顔の、どこかでお見かけした覚えのある男性の姿が目に入った。こちらにやって来られる。「はて、どなただったか?」と記憶をたどりながら、私も男性に向かって2、3歩、歩を出した。「Kです」と名乗られて、ああそうだったとわかる。「君が代」処分を受けたKさんだった。彼も、私の横で登校する生徒を、笑顔と元気な挨拶で迎えてくれた。
車が止まり、スーツ姿の男性が出てこられた。目で追っていると私の前で止まられ、「がんばってください」とおっしゃって、私に握手を求められた。私がここに立っていることを知り、通勤途上に立ち寄ってくださったのだとおっしゃる。お心遣いに感激する。
今朝も一人の保護者がプラカードの前で立ち止まり、読んでいらっしゃった。近寄って名乗り、説明をすると、「こんなことがあるんですか」と驚かれた。まだまだ、東京の学校で起きていることを知らない方が多い。
今日は訪問者が多数。早朝からいらしたKさんの他に、Sさん、Mさん、Tさん。校外学習に出かけ、あるいは帰って来る子どもたちに声をかけながら、Kさんとじっくり意見交換ができて、濃密な時間を持てた。下校時は、Tさんが持参したギターでクラッシックを奏で、それをバックミュージックに、子どもたちに「さようなら」と声をかけた。
5月31日(木)
鶴川二中へ。私の挨拶にかなりの生徒が無視したり、目を合わさないようにしたりしているが、今日も楽しいことがあった。昨年私に反抗していたBさんが、先週あたりから表情が違うなと思っていたら、今日はにっこりし、「がんばれ!」と声をかけてくれた。「はーい、がんばります!」と軽やかな声で返した。人は刻々変化する。だから楽しい。
生徒たちの登校が終わり、腰を下ろしたところに、一人の保護者らしき人が私に軽く会釈をされて学校の中に入って行かれた。数分で出てこられた彼女は、「根津先生ですか。娘から聞きました。先生の勇気、すごいですね」と話しかけてこられた。Cさんのお母さんだとおっしゃった。「国民投票法の18歳、徴兵制の年齢と関係すると思うんです。息子が取られる。そう思うと怖くて」「どうしてこの国は異なった意見が認められないんでしょう」と。こういう保護者に出会えて、とっても幸せな気持ちに包まれた。
今日はいつものおじいさんの訪問がないなと思っていたら、ジョギング帰りのDさんが、おじいさんは不在だと教えてくれた。Dさん、「日の丸・君が代」に対する評価は私とまったく違うのだけれど、筋を通して生きる、そのためには全力を挙げるということについては、考えが一致する。私に対して偏見は持たれない。非常な努力家でいらっしゃる。しばらくおしゃべりを楽しんだ。
午後は大学の聴講へ。
5月30日(水)
南大沢学園養護学校に。校長は挨拶の後、今朝も遠慮気味に、しかし、都教委の指示に忠実に(としか受け取れない)、「できれば、やめていただきたいんですけど・・・」と言って校門をくぐった。
「権力の末端」の哀れさを感じさせる。しかし、その「権力の末端」である校長が、一人の教員のクビを切る。南大沢学園養護学校長が、私のクビを切ることになるのだ。その時、「命令に従っただけ」と済ますことができるかな、この人?そんなことがふっと脳裏をよぎる。
「午前中は曇り、のち雨。4月の気温」という天気予報だったので、その対策をしていったら、午前中は見事に外れ、日差しが強かった。子どもたちの登校時間帯の1時間半はそのまま直射日光を浴びるほかなく、登校が終わってから雨傘を差し、日除けをしたが、すでに首の辺りがヒリヒリした。
でも、いいか。天気で、子どもたちが外に出られたのだから。
外に出る子どもや教員たちを見ながら、あと4ヵ月後は私も、この中にいるんだと想像してみる。
高等部の人たちが実習をする喫茶室に、今日も昼近くに行った。今日は訪ねてくれた友人3人と。後からもう一人の友人が加わった。どの生徒も接客に一生懸命だ。
昼過ぎから雨。Aさんも立ち寄ってくれた。
5月29日(火)
昨日は多摩中・減給3ヶ月処分撤回を争う裁判の進行協議(多摩中での処分:02年、『従軍慰安婦』の授業をしたことをきっかけに、校長・教委は私を「指導力不足等教員」にしようと企む。その過程で校長が乱発した職務命令の一つが、「指導」のための協議会出席であったが、私がそれに応じなかったことから処分となる)。
そして今日は、河原井純子さんの「君が代」不起立減給1ヶ月及び6ヶ月取消の第2回裁判。
東京の教育破壊攻撃は、当時河原井さんがいた七生養護学校の性と生の教育に対する攻撃から始まったこと。10・23通達は、河原井さんが教員として大事にし、子どもたちに伝えてきた、「イエス・ノーを言っていいんだよ。女だから男だからではなく、一人の人間として生きよう」ということを否定することだった。だからその職務命令に従うことはできなかったし、これからも教員である限りできないこと。その気持ちを陳述した。
陳述が終わると傍聴席から拍手が起き、やがて大きな拍手になったけれど、裁判長は制止しなかった。きっと裁判長もよく聴いてくれたのだろう。
帰りは都庁前に立ち寄って、道行く人にマイクで訴え、チラシを配った。チラシの内容は、片面が、起立しない教員がいると子どもは立たなくていいと受け取ってしまうから、それは学習権の侵害である、と言う都教委の主張に対する批判。もう片面は、教育3法の改悪について。
20人もの方がチラシまきに参加してくださった。感謝です。
5月25日(金)
都庁第二庁舎前で情宣活動。チラシの片面は、教職員の不起立は、『生徒の学習権への侵害』と言い、教職員が皆起立するのが、『無形の教育』と主張する都教委を批判。もう片面は、教育3法の批判。都教育庁に働く皆さん、仕事の中で吟味し、内部告発をしてください、ともに考え行動しましょう、と呼びかける。
「がんばってください」と声をかけてくれる方が結構いらっしゃる。
今日の参加は13人。Lさんも駆けつけてくださった。
その後午前中は国交省前での座り込みに参加。
午後は、入学式での不起立・不服従者に対する処分発令に抗議し、不服従者を激励する行動に参加した。雨が降る中、80人もの方が駆けつけた。
今年の不服従・被処分者は、7人。若いのに不起立3回目で減給6ヶ月の方に、思いを馳せる。高校の人が6人、養護学校が1人(都教委発表では、養護学校を「特別支援学校」と呼称を変更していた)。
5月24日(木)
鶴川二中へ。今日も朝から照りつける。今日は中間テストだと言う。私の挨拶に無視をする生徒がかなり多いが、「がんばってください」「応援しています」と一言付け加えてくれる生徒もいる。そのどちらにも、私の今を、社会を考えるその題材にしてほしい。そんなことを思いながら、生徒を迎える。
朝早くから前の家のおじいさんが出てこられた。今朝は白のワイシャツ姿でパリッとされている。「木曜日」を待っていてくれたのだそうだ。私がいる午前中の時間のほとんどを、私とともに過ごされた。
午後は、聴講、そして裁判の打ち合わせ。
5月23日(水)
南大沢学園に。家を出てから40分後、鶴川への道を走っていることに気づいた。苦笑。大きく迂回してしまったから学校前に着いたのは、7時50分。でも校長の出勤よりも早かった。
出勤してきた校長は作り笑顔の様子で、私のところで立ち止まった。「おはようございます」――「おはようございます」。挨拶だけで無言である。
「今日は何かおっしゃることはないのですか」(私)――「できれば・・・」(校長)
「できれば、ここにいてください、ですか」――「いえ、できれば、いないでいただきたい・・・」
「ここにいてはいけないことの根拠となる法令を示してください、と前から申し上げているでしょう」と答えた私のことばには返さずに、校長は私に一礼をして校門をくぐって行った。
この「指導」=管理が、校長にとっての「職務」なんだろうが、彼の自尊心は傷つかないのだろうか、と思う。自尊心を麻痺させ、「内心」と切り離してする「職務」行為が、社会を腐敗させることに考えを及ばせてほしい。
今朝は朝から暑い。湿度が低い分、しのぎやすいが、予報では7月下旬の暑さと報じていた。ブレザーを着て、汗ばんだ顔の生徒もいる。「暑いですね。大丈夫ですか」と声をかけてくれる高等部の生徒。「暑いですから、(お茶に)来てください」と言ってくれる。
高等部の実習が終わらないうちにと思い、お昼少し前、喫茶室に行った。アイスコーヒーを注文し休ませてもらった。訪ねてくれた友人のIさん、Jさんも一緒。
異動を通告された3月30日に、教材教具類をこの学校の運び込んでおいた、その中から必要なものが出たので、副校長に校舎への立ち入りをお願いした。
それに対しては許可が出され、今日のところは無事済んだが、別の副校長がやってきて、「9月30日までは、校舎への立ち入りは禁止です。これからはこういうことは止めてください。トイレも緊急の時だけです」と言う。「みだりに入ってくるわけではないでしょう。必要があれば、私物を見ることなど、これからもあります」と答えると、「止めてください」。「いいえ、止めるとは言えません」と私。そのままに玄関で別れた。
副校長と言い、校長と言い、都教委の指示による言辞の多いこと!
今日は部活がなくて下校の早かった立川二中の卒業生であるKさんが、話し込んでいった。彼は私が二中に転任した時に学年集会で話しをしたことを鮮明に覚えていて、それを告げてくれた。「強烈な印象でした」と言う。
ここ数年、私が生徒たち全体の場で話をする機会など、自己紹介を除けば皆無である。その1回の話を覚えていてくれたなんて・・・。3年も前のことを。感激!、です!!
その話とは、こうだ。ボールか何かを見せて何に見えるかを問い、では、皆から見えないところはどうなっているのだろうと問い、物事は見やすい1つのところから見るだけでは見えないことがある。裏側から見ると違って見えることがある。いろんな角度から見て、考えよう。見えないところには想像力を働かせよう。という主旨の話しをしたのだった。
感激いっぱいで帰路に着いた。
5月22日(火)
今日は「出勤」せずに事務作業日に充てている日なのだけれど、国労の1047名解雇20年の闘い・国土交通省を話し合いのテーブルにつかせる要求を掲げての座り込み行動に参加した。
5月21日(月)
立川二中へ。朝生徒たちと挨拶を交わすひととき。校門をくぐった生徒が一人戻ってきてプラカードを読む。1年生のようだ。「これは私のことよ。2年前、わたしはここの教員だったの」と言うと彼は、「がんばってください」とぺっこり頭を下げ、にっこりした。「ありがとうございます」。
いつものように北多摩高校に進んだ二中卒業生とも挨拶を交わす。「先生、がんばってください」――「あなたはテストをがんばって!健闘を祈ります」。
今朝も市議会議員のAさんが、通りながら車のクラクションを軽く押してくださり、挨拶を交わす。今朝もいつもと同じようにスタートした。今日はB社のCさんの取材があった。
読書タイムなのに集中できずに行きかう車を眺めたり、校庭に運動会の練習をフェンス越しに見たりしていると、4月以来ずっと気になっていた方の姿が見えた。待っていれば私の前を通られるのだけれど、それが待てずに私は駆け寄って「お久しぶりです。お元気でしたか」と言い、続けて停職6ヶ月にされたことついて報告をした。この方は、昨年も一昨年も10時と12時頃に健康センターの往復にここを通られ、私が気づかない時にも、「先生がんばってください」と声をかけてくださった、70代終わりか80代の男性で、今年はお会いしなかったので気になっていた。だから今日はお会いできて勝手に一安心した。
70歳前後と思われる男性がプラカードの前で自転車を止め、私が声をかけようかと逡巡している間に走り去り、しかし引き返してこられた。「ここの先生ですか」と切り出された。昨年も一昨年もここを通るたびに見ていられたのだとのこと。
「停職処分はひどいけれど、親のしつけができなくなっているからある程度形をきちんとさせることも必要なのではないか」とおっしゃる。「親の問題もありますが、子どもは社会を見て育ちます。国会議員や要職にある人が自身の不正を正せば、子どもたちのよい教育になるのではないでしょうか」と私。
憲法に話が及び、「9条があるから日本は戦争をしない」とおっしゃる。国民投票法案をめぐって意見交換をした。とても温和な方で、最後は私の失職を心配しておられた。処分はひどすぎる、というのは、都民の大半の感じ方のように思う。
もう一人、30代後半と思われる男性がプラカードを見ているので、声をかけた。「こんな処分はおかしいですよね」と言われ、「署名でもあればします」と申し出てくださった。
昼食休憩の時間を割いて、Dさんが訪ねてくださった。
下校時は今日も卒業生が訪ねてくれた。Eさんは中間テストが終わったからと立ち寄ってくれ、Fさんは5時に立川駅から電話をくれ、駆けつけてくれた。テスト前で部活がないからと訪ねてくれたのだった。昨年以来の対面、随分と大人っぽくなっていた。2人の気遣いがうれしい。
やはりテスト前で下校が早かったGさんHさんが帰り道、私に気づき、道草をしていった。
卒業生たちから、あったかーい気持ちをプレゼントしてもらった。月曜日、さあ今週もがんばろう!って、自然に元気がみなぎる。
7時50分に「出勤」して、今日も10時間「勤務」・・・?!
5月19日(土)
昨日は新横浜で「どがんすっとね?日本ば!パレスチナば!」の集会、今日は「憲法9条を語ろうin八王子」の集会に参加した。
どちらの集会も若い人たちの企画・運営で、彼らの思いが伝わってくる集いだった。若い人たちにつけを残してはいけない!という思いを、また同時に希望を抱く。
八王子の集会では、元市長の波多野氏(=確か2002年くらいまで市長であった)が、不戦の決意を柱とする現憲法を熱く語られた。氏がPKO法にも強く反対してこられたことを私は今日、初めて知った。氏はオールド自民党・・・。
図らずも、この数年間の右傾化の激しさを確認することになった。
この数年間の右傾化の激しさを、大勢の人が確認することが、はじめの一歩と思う。
鶴川二中へ。昼過ぎまで雨。長靴を履いてくるべきだった。体は、停職1ヶ月の時に田中哲朗さんがプレゼントしてくれたゴアテックスの合羽の上下を着、傘を差しているから快適そのものだったが、靴は生徒を迎える間だけでたちまちぐじょぐじょになってしまった。ビニールで覆ったが、すでに遅し。
私のした挨拶に対して一人の生徒が、「わたし、今年がんばっているよ」と。「知っているよ。今日も1日がんばって!」とこたえる。
今日はほとんど人が通らない。雨がかかってもよい雑誌を読んで過ごした。
午後は、大学で聴講をした。知らない事実を知る喜びとともに、どのような教材を選び、どのようにそれを提供するかという点がすごく刺激となる。これが本来の研修だ。
今日教育関連3法案が衆院を通過した。伊吹文科相は地方教育行政法の「改正」で、「生徒の教育を受ける権利が侵害される場合、文科相は教育委員会に是正要求(=命令)ができる」とすることについて、その事例としてつい半月前は、いじめ自殺や履修漏れを挙げていた。
しかし、ここに来て本音で事例2つを出すに至った。たった半月で。一つは、学校が卒業式などで国旗を掲揚せず、国歌も斉唱しなかった時、2つ目は、全国学力調査の実施を教員が妨害したにもかかわらず、教委が放置した時と。
黙っていることは、悪政に加担していること。
11時から河原井さんと私の停職処分の裁判、4回目の法廷。それまで南大沢学園に「出勤」した。水曜日は2週続けて用事が入ってしまい、「出勤」できなかったので、今日は少しの時間でも南大沢に行きたかった。
校門前に着くと数分で副校長の一人が出てこられた。「私の監視ですか」と訊くと、今日は、「いいえ、ご挨拶です」ということだった。
しばらくして、校長が出勤してきて私の前で足を止め、「できればやめていただきたいのですが」と控えめにおっしゃる。「できれば、ですか」と私。校長はそれには返事を返さずに、校門をくぐって行った。
4月初めの言い方とは随分違った。どういうことなんだろう? 悪意があるわけではない普通の人が、多少ためらいながらも、指示・命令を「職務」として実行に移してしまうことが、私には怖い。
出勤する同僚には都庁前で撒いたチラシの残りを手渡した。「お世話様です」「読ませていただきます」「もらえません」「・・・」。反応はさまざまだ。
生徒たちにはとびきり明るい声で挨拶のことばをかけ、顔見知りになった保護者と挨拶を交わした。ここでは保護者の何人もの方が、労いのことばをかけてくださる。9時半、荷物をまとめて裁判所に向かった。
11時、開始時刻ぎりぎりで法廷に到着した。傍聴に来てくださった方々が着席されているところを原告席に座った。当事者が最後で申し訳なかった。
今日はこちらから準備書面(2)と(3)を提出し、弁護士さんがその概要を陳述した。
・起立の強制は憲法19条「思想及び良心の自由」を侵害すること ・思想・良心の変更強要を求める累積加重処分の違憲性 ・処分が比例原則・平等原則違反など裁量権を逸脱・濫用し違法であること、したがって、地方公務員法32条違反(職務命令違反)も33条違反(信用失墜行為)も成立しないことについてである。
傍聴してくださった皆さん、ありがとうございます。裁判長は傍聴者の数や様子で事件の社会的関心度を量るのだろうから、傍聴者がいないことには始まらない。今日の傍聴者の中には、国会への働きかけで上京された福岡の方3人がいらした。本当にありがたい。
裁判の後は都庁に行き、チラシまきをした。福岡の3人の方も参加してくださった。
5月14日(月)
立川二中へ。3年生は修学旅行の代休でいないので、登校する生徒は知らない顔ばかり。でも、気持ちよく挨拶をしてくれる。
読書をしていると、私の前で車が止まったような気がして顔を上げた。見覚えのある車だ。「先週の方、ですよね?」――「そうです。こういう者です」と名刺を差し出された。大学の教員をされている方だった。「ノンポリなんですが、これ(=「君が代」強制と処分)は絶対に許すことできませんからね。がんばってください」。そうおっしゃって、再びアクセルを踏まれた。
午後は、友人のAさん、Bさんの訪問を受ける。
卒業生の訪問者は、CさんとDさん。「私がここにいること、よくわかったわね」と言うと、「お父さんが教えてくれた」のだと。「先生、有名な問題児だから皆先生のことを知っているんだってば」と言われてしまった。
ここを黙って通り過ぎる方も、私の行動を無視したり、敵視しているのではないということなんだ、と思った。
登校前のあわただしい中を、Cさん、Dさん、ありがとう。
もう一人の訪問者は、Eさん。明後日から定期テストというのに風邪を引いて辛そう。それなのに立ち寄ってくれて。なんてありがたいこと! 早く治ってね。テスト勉強に支障が少ないようにと祈る。
5月11日(金)
8時、都庁第一庁舎前でチラシを配る。河原井さんと私の他に13人もの人が来てくださった。
昨年熱い思いをつづった手紙をくださり、チラシ撒きは今日が初参加のCさん、先月知り合ってすぐにチラシ撒きに来られ、今日が2回目のDさん、仕事を休んで参加してくださったEさん、ありがとう。
毎週のチラシまき・情宣は、無理を押して来てくださる人たちがいなければ成り立たないこと。皆さんに、ほんとうに感謝です。
チラシ撒きの後は、会報の印刷発送作業をした。
国民投票法案が、参院憲法調査特別委員会で採決され、可決された。またも参院の機能果たさず。憲法9条2項を削除し、「戦争のできる国」に踏み出す。
戦後、「教え子を戦場に送らない」と決意した教職員組合は、今の事態を「教え子を戦場に送」ってしまう事態と、どの程度認識しているのか?「君が代」の強制と処分もまた、これと同一線上にあることだと、どの程度認識しているのか?
連休を境に暖かくなったので、とても楽になった。
5月10日(木)
鶴川二中へ。登校する生徒たちの何人かが、挨拶だけでなく、「がんばってください」「いつもいつもご苦労様です」と声をかけてくれる。私も、「ありがとう。君も1日勉強がんばってきてください」と返す。
今日の訪問者は、早かった。生徒の登校時にすでに到着していた。この訪問者と話をしているところを何人もの人が通った。60代と思われる男性は、「石原都知事になってしまいましたからねえ」と声をかけてこられた。怪しい空模様ではあったが、昼まで天気がもって、助かった。
午後は、大学で聴講。学ぶことにわくわくした。
5月7日(月)
立川二中へ。今朝はいつもより早くに校門前に到着したので、正門を利用して登校する生徒たちのほとんどを出迎えた。4月に「出勤」した時には会わなかった3年生が「お久しぶりです」と声をかけてくれたり、にやにやして通り過ぎたり。いろいろな反応が面白い。
生徒たちの登校が終わるといつものようにいすに座って、仕事にかかる。
しばらくして、私の前を通る車が速度を落としたかと思うと、窓が開き、男性が身を乗り出すようにして「がんばって!」と言い、再びスピードを上げた。私も立ち上がって、「ありがとうございます」と大きな声で返した。お顔はわからなかったけれど、車や声の感じから、きっと昨年も声をかけてくださった方だと思った。朝早くに元気をもらうと、1日がいい気分で始められる。
今日は、プラカードを見て歩を止められた人が2人。一人は70代の男性。お兄さんが特攻でなくなられたことから、「愛国心」を否定することはお兄さんの死を否定するとイコールになってしまうようで、「愛国心」も「君が代」も大事だとおっしゃる。「でも、こんな処分は変だ」とも言われた。
60代後半と思われる男性は、「(処分は)ひどすぎるよね。滅茶苦茶な世の中だよ。がんばって」「ここにあなたが立つこと、それが意味のあることです」と言って行かれた。私が全身で私を表現し、東京の教育の異常性を訴えようとすることを、「意味がある」とおっしゃってくださり、勇気を得た。
午前中の訪問者は3人。
1時から増田都子さんの分限免職処分取り消し訴訟の法廷があったので、途中抜け出して傍聴をした。再び校門前に戻ると3時半。今日は5時間授業だったから、下校時間には間に合わなかった。
5時、そろそろ帰ろうかと思っているところに電話が入った。隣の高校に進んだAさんからだった。高校に近い南門で待ち合わせ、そこにBさんも加わり、おしゃべりを楽しんだ。南門は高校の門より100m手前に位置するので、駅に向かう高校生はここを通る。AさんBさんの友人たちが、「Aのお母さん?」「何してんの」と声をかけていく。
高校の最終下校時刻の6時を過ぎるまでおしゃべりをしていたので、他の二中卒業生とも会えた。
Aさん、楽しい時間を作ってくれてありがとう。Aさんはインターネットで私の「停職『出勤』日記」を読んで、訪ねてくれるようになった卒業生だ。
4月27日(金)
都庁での情宣、チラシ撒き。今日は9人で。河原井さんは10人以上の方に、「がんばってください」「応援しています」と声をかけられ、あるいは、チラシに自分から手を出されたと言う。
今回のチラシは、片面が、「集団自決」から「軍強制」を削除した教科書検定について、そして今国会で先に成立ありきの教育関連3法案について。もう片面は、1972年の新聞記事から。この記事は、大阪の高校で「日の丸掲揚」に抗議した組合役員の行為が「違法、不当とはいえない」とした判決について。判決は、「校長は教職員が納得するまで話し合うべきだ」とも言っていると言う。職務命令と処分で脅す現在と、何と違うことか。この頃の感覚を皆が取り戻し、流されないようにしなくてはいけない。
11時半、都教委教育情報室の課長、係長に面会し、署名の扱われ方や他にいくつかのことについて質問を伝え、メモを渡してきた。
夜下高井戸シネマで行なわれた「君が代不起立」上映会に駆けつけた。昨日のDさんも参加されていた。
4月26日(木)
鶴川二中へ。久しぶりの晴天。
先週満開だった八重桜は、このところの低温でまだかなりその状態を保っていて、目を楽しませてくれる。生徒たちの登校が終わり、その景色を楽しんでいるところに、いつものおじいさんが、私を見つけてやってこられた。「あんたはまじめだなあ」とおっしゃる。「まじめが取り柄なの」と私。
学区に住まわれる小学生のお子さんを持つAさん、次には、学校から5分の距離に引っ越していらしたBさんが訪ねてくださった。Bさんは、今までに何度か訪ねてくださって、今日初めて会えたのだとおっしゃる。私のことを気にかけてくださっていたことに感謝する。
自転車で通りかかった女性がしばらくプラカードを見ていて、声を出された。
「またですね」。どう受け取ったらいいのか分からず、「どういう意味ですか?」と尋ねると否定的なことばを一言言われ、「でも受賞もされているんですよね」とおっしゃる。「新聞を見た」のだと。そして、「受賞といういいこともして、著名な人なのだから、こんなところに立っていないで、力をいいことに注いたらいいじゃないですか」とおっしゃり、私の返事は待たずに自転車のペダルをこぎ去ってしまわれた(注:受賞とは、多田謡子反権力人権賞のこと)。
処分と受賞との対比を、その中身で判断するのではなく、帯で判断するこのような人は、案外多いのかもしれない。13年前の被処分時にも八王子のある中学校で、私についてこれに類似した話がされたという。
10時半過ぎ、昨日連絡を受けた横浜の学生たち3人がいらした。社会のこと、自分の生き方をまじめに考えていることが、話をしていてびんびん伝わってくる。彼女らとは1時間ほどの約束で、午後は聴講を予定していたが、彼女らの熱意に動かされて予定を変更。そのままじっくり語り合うことにした。Bさんのご厚意を受け皆で、Bさん宅で昼食をいただいた。
校門前に戻ると、置いていったいすの上に、たんぽぽと八重桜で作った花束が置かれていた。束ね方を見て、すぐにわかった。Cさん(小学3年生)だ! とっても幸せな気持ちに包まれた。帰宅して「ありがとう!」のメールを送ると、案の定Cさんだった。1時間もお母さんと私の帰りを待ってもらって、ごめんね、Cさん。
下校時間帯に1年生の一人がプラカードをじっと見て、「うちのお母さんも、立たないって言っているよ」と話してきた。「君が代」の歌詞の解釈について、話しになった。
夕方からは、映画学校の学生3人の訪問を受けた。この学生たちもとてもまじめな、自分を持っている人たちだった。とりわけ韓国からの留学生Dさんは、私の書いたものをほとんど全て読まれたのではないかと言うほどに準備をされていた。
4月25日(水)
南大沢学園に。雨。今朝も出勤してきた校長は私に、「O校長です。できれば、これをやめていただきたいのですが」と言う。「その法的根拠を示してからおっしゃってくださいと、前から申し上げていますでしょう」と返事をするが、校長は何も言わずに中に入っていってしまった。今朝は3人の副校長のいずれも、私の横に立たなかった。
登校してくる生徒たちに挨拶をしていると、何と懐かしい顔がある。立川二中の卒業生。お互いにすぐにわかって、再会を喜んだ。保護者の一人が「入学式の時は、その場では分からなくて」と声をかけてこられた。私が配った自己紹介の手紙を読まれて、声をかけてくださったのだ。「6ヵ月後にいらっしゃるのを楽しみにしています。がんばってください。応援しています」と。じっくりプラカードを読んで会釈をされる保護者もいらしたりする。同僚となるはずの人たちからも友好的な感触を受ける。
先週、経営企画室の担当者に尋ねたことへの返事を聞きに行った。ところが返事は、「上司の命令」により校地外ですると言う。驚いて聞き返したが、埒が明かないので仕方なく言われるままに門の外に出た。すると何と、担当者は校長同伴で出てきて、メモを私に渡した。私は、経営企画室の職務範囲のことなのに、校舎内で対応はしないというのはどういうことかと校長に質した。校長曰く、「私の判断です」「停職中だからです」「ここにいられるのは迷惑だ。やめてほしい、と言いましたよね」。会話にならなかった。
「根津を校地に入れるな」と、校長は都教委にきつく言われているのだろうけれど、良質の判断というものがあってもいいんじゃないか。対面した人とのやり取りで、臨機応変、その場の判断が必要となることはないのだろうか?これは、停職である私に対してだけのことではなく、職員に対しても、生徒たちに対してもだ。この一件も、上意下達で縛られた今の東京の学校が、思考停止の人間を生み出している一例だ。
先週ほどではないけれど、たくさん着こんでもやっぱり寒い。隣の喫茶室で、友人の持ってきてくれた昼食を食べ、体を温めた。
下校する生徒たちを見送り終わるともう4時。
4月20日(金)
8時、都庁に。出勤する人たちにチラシを配り、マイクで訴えた。チラシ配りは初めてという若い人の参加もあって、総勢14人。マイクの訴えも2箇所で行なって、楽しいチラシ配りになった。
その後都教委教育情報課に「処分をしないでください」の署名の追加分を、処分は発令されてしまったけれど、署名してくださった全国の人たちの気持ちを届けに行った。
教育情報課のある30階は、恒例の、私たちだけにする差別的な警備体制が敷かれている。入り口を閉め、「東京都教育委員会」の腕章をつけた2人の職員が立って、私たちの入室・面会を妨害する。「集団で来るから」妨害するのだと言う。警備員も数人配置されている。
面会を求めても私たちは中に入れてはもらえず、しばらくして係長を名乗る人が出てきて、室外で対応した。教育情報課の係長は、入れ替えがあったとのこと。後任の係長だった。前任者は1年で異動。1年じゃ、仕事を覚えるだけで精一杯で、発展的継続的な、都民の利益に資する仕事などできるはずがない。都教委、都庁での部署の異動も、石原都政になってから、特にこの数年は短期間過ぎて、職員の間でも批判が多いと聞く。都政及び都教育行政を都知事の嗜好で弄ばないでもらいたい。
来週面会する約束をし、その時間と場所をファックス連絡することを確認して終えた。
午後は、鶴川二中の離任式に参加した。それぞれの離任者一人ひとりに、代表の生徒が「ことば」を述べてくれ、花束の贈呈。私は授業を受けての、身に余る「ことば」をもらい、うれしくありがたかった。
私からの挨拶は、何日かあれこれ考えたうえで、生徒たちが私に対し、ずっと疑問に思ってきた、なぜ起立しないのか?ルールを守らないのか?について、その疑問に答えようと少しだけ話しをした。「人と違うことを言うのは、60に近い私にとっても、勇気の要ることです。だから今、どきどきしています」と前置きして。
「私は『君が代』が嫌いだから立たないのではありません。知り考えることをさせずに、ただ立ちなさい、歌いなさいというのは、学校がしてはいけないと私は思うから、立てないのです。皆さんは、『君が代』の歌詞の意味や歴史を知っていますか?教育委員会がなぜ皆に歌ってもらいたいと思っているのか、知っていますか?考えたことありますか?
『斉唱』の前に、『君が代』について学び、考え合う。それが学校のすべきことだと私は、思うのです。行動する前に考えるのは、『君が代』に限りません。
私は30数年間教員として生徒たちに、『考えて行動しよう。みんながやるから、誰かから言われたからやるのではなく、自分で考えて行動しよう』と言って来ました。私自身もそう生きようとしてきました。人間は考える葦である、と言うでしょう。人間は考えるから人間なのです。皆さんには何事も、自分の頭でよく考えて行動していってほしいと願います。
常識、と言われることについても、です。『それは常識』、で済ませるのではなく、疑問を持ち、考えていってほしいと思います。時代や社会によって、常識も変わります。一例を挙げます。今『戦争反対』と言うと、誰もそうだ、と思うでしょう。でも、60数年前は、牢につながれたという歴史があります。
どんなことについても流されずに、自分の頭で考え、行動していって下さい。そして、思いっきり自分を生きてください。1年間ありがとうございました。お元気で」。
4月19日(木)
鶴川二中へ。家を出る時には降っていた雨が、学校に着いた時には上がっていたけれど、今日も寒かった。登校してきた一人の生徒が、「石けんありがとうございました」と言ってくれた。3学期の授業で廃油を使って作り、寝かせておいた石けんが配られたのだった。この生徒の気持ちがうれしかった。
午後は、「日の丸・君が代」裁判の傍聴と集会のはしごをした。
4月18日(水)
今日も雨が降ったり止んだりの寒い1日。南大沢学園養護学校へ。7時45分頃到着すると5分経つか経たないかで、副校長の一人が私の見張り役で出てきた。
出勤する職員や生徒たちに挨拶をしていると、一人の男性が私の前に立って言った。「校長のOです。ここに立たれると迷惑なんですが」。入学式の朝、苦情を言いにやってきた時が初対面、今日は2回目で顔を覚えるまで行っていなかったので、「校長でいらっしゃいますか」なんてとぼけたことを言い、何が迷惑なのかを訊いたが、それには答えずに、中に入ってしまった。隣にいた副校長に同じことを訊くと、「近所から何か言われるかもしれない」とのこと。「そういう場合は、直接本人に言ってください、とおっしゃってくださいね」と伝えた。でも、ここは全く人通りがないから、近所から苦情が来るなどということがあるだろうか?
再び校長が出てきて私に、経営企画室から書類が郵送されたかを訊く。昨年から都立学校は「事務室」とは言わず、「経営企画室」といういかめしい名称が使われている。私は校長に、「事務の方にお聞きしたいことがたくさんあるので、後で訪ねます」と言うと、「訊きたいことは電話でお願いします」の一点張り。立て続けに3度「電話でお願いします」と言うと、校長は門の中に入って行った。
ここから見える、門から10メートル先にある経営企画室の人に直接訊くのは禁止とは、停職被処分者に対し何と形式的な、非人間的な対応をするものや!などと思っていると、今度は校長、副校長1人、経営企画室の方2人が「話があるなら外で聞く」とやってきた。いやはや・・・。都立学校では、これが常識なんだろうか?校長の判断ではなく、都教委の判断であることは明々白々。校長はどんな気持ちで私に対面しているんだろうか?
お子さんを送ってこられたおかあさんが、プラカードの文字をじっと見ていらっしゃる。「これ、私なんです」と自己紹介をし、なぜ立てないか、どんな処分なのかを説明した。「立たなかっただけで、(この処分)ですか?!」と驚かれる。「今まで疑問にも思わず、立って来ました。なぜ、なんて考えてもみませんでした」とおっしゃる。これをきっかけに考えてもらえたらうれしい。
体の大きい男子生徒もプラカードを見て、どうしたのかを訊く。「卒業式で『国歌斉唱』があるでしょ。私、そのとき立たなかったの。そしたら、9月まで学校に来てはだめって言われたの」と話すと、「かわいそう」と言う。
この学校の人以外道を通る人はまずいないので、始業と同時に読書を始めたところ、次々に子どもたちが教員たちと何組も出てくる。走るクラス、お散歩に行くクラス。「行ってらっしゃい」と声をかけると、返事が返ってくる。手を握って応えてくれた子もいた。名前を訊かれたり、私も訊いたり。エプロンと三角巾を着けた生徒たちに、何をするのかを訊くと、「喫茶です」という。道を挟んで隣接する公園の一角にある建物で毎週水曜日に喫茶室を営業・実習するのだそうだ。早速行ってココアを注文し、暖まらせてもらった。
今日は訪問者が2人。
夕方は、新宿でフランス人記者の取材に応じた。10・23通達と都教委の攻撃・弾圧についてインタビューに答えると、記者は、「フランスでこのようなことが起きたら、教員たちは黙っていない。皆立ち上がります。日本の教員(組合)はなぜ、おとなしいのですか」とも訊かれた。この差は、やはり教育にある…。
4月16日(月)
八王子は朝から雨。立川は、2時間くらいは何とかもったが、あとは冷たい雨。3月の気温とか。たっぷり着込んだつもりでも、午後は寒かった。
朝は道が混んでいて、遅刻ぎりぎりの生徒が駆け込む時刻に到着した。「朝ごはん食べてきた?」「目覚めた?がんばろう!」などと声をかけ、校舎内に入っていく生徒たちの後姿を見送った。
通行人はとても少なく、でも2人の方が声をかけてくださった。一人は立川市の職員とおっしゃる男性。「何かしなければ、と思います」と。もう一人は、70歳前後と思われる女性。「世の中、右に向かってますね」と。この門の前に立つこと3年目にして、初めて出合う人がいるものだ。
昼休みには3年生が初めは2人、次に5〜6人、「がんばってますね」と言って面会に来た。見ると、その一人は朝駆け込んだ中の一人だった。彼らが1年生の時に3時間ほど授業をした、それだけの関係だったのだけれど…。「おれの名前、おぼえている?」「ぼくは?」――「ゴメン。顔は覚えているよ」。5校時を告げる予鈴がなり、「じゃあね」と走っていった。
下校時は、まだ部活動が始まっていない1年生に「さようなら」の挨拶をかけた。違和感なく、挨拶を返してくれる開放的な生徒がかなりいた。
今日は寒さと雨に耐えながら、原稿を書いて過ごし、3時に「退勤」。
4月13日(金)
8時、都庁へ。出勤する人たちにチラシを配りマイクで訴える。昨年の停職から始めたので、2年目になる。河原井さんと私を含め9人。いつもより少し寂しいが、協力してくれる仲間がいて続けられること。声をかけてくださる方、ご自分から手を出してくださる方もいる。
10時からは、東京地裁で多摩中事件(2002年3月の減給処分撤回を求める)の進行協議。
そして午後からは、京都へ。大学の新入生歓迎学習会で話をするためだった。「君が代」不起立の映画を途中まで観て、続けて私の話し、そして質疑。
質疑の終わり近くになってあどけさの残る表情の新入生が発言した。「私は、先生がいた調布中の卒業生です。先生に家庭科を教わりました。・・・」
名前を名乗られ、じっと彼の顔を見ていると、3年前の顔が浮かんだ。私は思わず、甲高い声を発してしまった。小説のような話し。彼は、たまたま手にしたチラシで知って参加したのだと言う。
当時の同級生たち何人かで会うと、根津の話題が出ると言う。当時は気づかなかったけれど、根津から大事なことを教わったと。「他の先生たちとは違っていた。当時はただびっくりだった」家庭科の授業もよく覚えてくれていて、「ウインナーソーセージの食べ比べやだし汁の味比べ。こんな授業は初めてで、驚いた」。障がいを持った人を招いての授業、「忘れません」とも。
新聞報道でその後の私への処分も見て気になっていたとも語ってくれた。
都教委はこの年から、嫌がらせ、みせしめをする目的で異動要綱を改訂し、1年での異動、片道2時間の通勤を可とした。私はそれに漏れずに、調布中は1年で出された。でも、その1年の中で、他の教員とはちょっと違って映った私の言動から、考えるきっかけを少しでもつかんでもらえたのなら、本当にうれしい。調布中に在職した意味があったのだから。こんなに素敵な出会いをつくってくださった、学生の皆さん、ありがとう!
2004年調布中での卒業式は、10・23通達が発出されて初めて迎えた卒業式だった。私は、卒業式が近くなってから授業があった3年生半分のクラス(注:家庭科の授業は2週に1度しかないので)で「君が代」に起立できない私の気持ちを話し、着席した。
起立しなかった「強制に反対する」私の気持ちをその日の夕刊が報じたところ、校長は激怒し、全職員がいる前で私を怒鳴ったが、同僚が校長のそれを制してくれた。保護者や生徒何人もから、根津の言っていることはよく分かる、という声が届けられた。通達を出した初年度の2004年はまだ、「強制」への抵抗感を持った人たちが多くいた。3年後の今と隔世の感がある。
4月11日(水)
鶴川二中へ。前回「出勤」した日から5日が経つ。八重桜とつつじがつぼみをつけ、咲き始めている。葉を出し始めたばかりだった柿の葉の緑も数倍に広がっている。そう、昨年もここで木々の成長に命を感じていたことを思い出す。
そんな感慨にふけっているところに、次々に訪問者。20年もの間不当解雇と闘ってこられた国労闘争団の方が7人。学区にお住まいのAさん、Bさん、Cさんも立ち寄ってくださった。
闘争団の方々は、1ヶ月の予定で九州、北海道から上京され、行動されているのだという。ご自身のことでお忙しいのに、と申し訳ない気持ちになる。闘っている人たちがいるから、私も闘えると、いつも思う。
Aさんは、小学生のお子さんが私宛に書いてくれた手紙と朝摘んだ草花をくださった。今朝お子さんが、登校時に私に会えるかもしれないと用意してくれたのだとのこと。どうも1,2分の差で会えなかったようだ。
手紙を開けると、「先生がんばれ KIMIKO ファイト!」。さらに開くと、3年生になっての近況や私への応援が、とっても丁寧にきれいに書かれている。紙面いっぱいに彼女の気持ちが溢れている。気持ちがうれしい。相手を想う気持ちは年齢や知識だけではないことは、いつも感じてきたことだが、小学校中学年でもこんなふうに感じることができるのだ。しばらくの間もらった手紙や花を眺めていて、気づくと私の顔の筋肉はにっこり状態で固まっていた。この小さいお友だちとは、昨年の停職「出勤」中に知り合いになったのだった。
Bさんは、「ここの1年生にも根津さんを想う生徒がいるよ」とその生徒の話をしてくれた。
下校時には一人の生徒が、プラカードをしばらく見ていて、それから私の方を向き、「先生、がんばってください」と丁寧に言ってくれた。ファシズムの空気が漂うこの地域で、生徒からこう言ってもらえることは、ことのほかうれしい。
3月中に「教職員定期評価本人開示通知書」(業績評価の開示)を受けていたが、急に異動をさせられたので、評価についての説明をしてもらわないままに3月が過ぎてしまっていたところ、今日その説明を受けた。開示通知をみんなで公開したら、業績評価制度はぐらつくのだけれど・・・。
4月9日(月)
午前中は南大沢学園養護学校へ。昨夜、今日が入学式であることを知り、お祝いのことばと私の自己紹介を書いた保護者宛手紙を、校門前で保護者に手渡し、子どもたちには声をかけた。見ず知らずの私に挨拶を返してくれる子どももたくさんいた。
私が校門に立ってほどなく校長が副校長ら3人(うち、1人は都教委の人)とともに私のところに来た。
校長「晴れの日なので、ここでチラシ配りはおやめください」
根津「どういう権限でそれをおっしゃるのですか」
校長「教育公務員ですよね」
根津「職務命令ですか、停職中の私に」
校長「南大沢学園の教職員ですよね」「ご理解ください」
校長はこれだけ通告すると、私の返事など聞かずに校舎内に戻った。他の3人は一言も発せず、校長に続いた。時計は7時42分を指していた。
またしばらくして、今度は副校長2人が校門に出てきた。訊くと、「いつもこうして子どもたちを迎える」のだということだった。
午後は立川二中へ。入学式が終わり、下校がほぼ終わるところだった。その中には顔を知る在校生もいて、挨拶を交わした。
「こんにちは。お久しぶりです」と笑顔で応えてくれる生徒。「お久しぶりです。僕のこと覚えていますか?また、君が代ですか」(――「そうよ。おかしいことには、どんなに脅されても服従しないのよ」)「生活できるんですか」(――「何とかします」)と言う生徒。(何で?)という顔つきをする生徒も。
新入生親子には、カメラマンを買って出た。
中学生が帰ると入れ違いに、この3月卒業した生徒が新しい制服に身を包んで何人、何組もやってきた。懐かしい対面。
私立高校に進んだというAさんは、「高校じゃ先生たち、君が代の時立たなかったよ。校長先生もだよ」と告げてくれた。都立高校に進んだBさんは、「入学式で私は『君が代』、歌わなかった。なぜ歌うのか分からずに歌うのは嫌だったから」「他の人がなぜ歌わなかったのかは知らないけれど、歌う人はあまりいなかった。そしたら、都教育委員会の人が、お祝いの言葉の時に『国歌をきちんと歌いなさい』って怒っていた」と憤慨していた。
高校2年生になった生徒も何人かと出会ったり、嬉しいことに、時間をやりくりして私に会いに来てくれた卒業生もいた。石原都知事の3選に怒りまくるCさん。「間に合った」と駆けつけてくれたDさん。
何人もの卒業生が、「新聞見たよ!」と告げてくれた。9ヶ月ぶりの会話で、この年齢の人間の成長のすごさにハッとし、感動することしばしば。
石川中の卒業生Eさん他、二人の訪問も。たっぷりエネルギーをいただいた。
4月6日(金)
今日は始業式、7時40分、鶴川二中の校門前に「出勤」した。友人が同行。暖かい、いい天気。
「進級おめでとうございます。/『君が代』不起立で不当にも停職6ヶ月処分です。/『君が代』の歌詞の意味を知っていますか。知って歌っていますか?/今は戦前のようです。」(趣旨)と書いたプラカードを立てかけて、登校する生徒や出勤する、数日前まで同僚だった人たちに挨拶をした。元気に挨拶を返してくれると、心が弾む。
生徒の登校中ずっと、忙しいだろうに、副校長が昨年と同じように私の横に立った。「1年間付き合ってきて、私が静かな人間だということも、生徒に何か心配なことをしないということもよくわかったでしょう?ここに立って、監視する必要なんかないですよ」と告げると、
副校長は同意する表情や言葉を出した。個人的にはいい人なのだ(いや、だからこそ怖い社会だと思う)。それでも、始業時刻まで立っていた。彼はこれを、「職務」と思わされているのだろう。
この鶴川の地域では1年前の着任早々、私について「ルールを守らない教員」「引き取り手がなかったこの教員を校長先生が預かってやったそうだ」等々のことばが流されていたと聞いていた。また、10・23通達以降の、戦争に突き進む世の変化、人々の意識の変化はすさまじい早さだ。そうした影響を受け、私を排斥する声は、「正義」の声となり、生徒たちの間にもたちまちのうちに浸透した。
生徒からのバッシングはとてもきつかった。しかし、70年前を再現させる状況に、めげてはいられず、気持ちを整理し、ことに当たってきた。
3月、この学校では今流行りの、生徒からの「評価」があるのだが、そこにこんな風に書いてくれた生徒もいた。「先生がこの学校に来てくれて、私はいやなことはいやだと言っていいことが分かった」「先生は意志が強いですね。すごいと思う」「新聞で読みました。がんばってください」など。
とりわけ、「いやなことはいやだと言っていいことが分かった」という、たった一人かもしれないけれど、私の行動から学んでくれたその生徒の言葉に、私がこの学校にいた意味があったと思えた。うれしかった。それを支えに、私はまた、先に歩むことができる。そんな風な気持ちで、今日ここに立った。
登校が終わり、ボーッとしていたところに、「またですか」「またですか」と敵意むき出しの表情で私をにらみつけ、吐き出すように言って通り過ぎ、学校に入っていったPTA関係者。
それからしばらくして、表情やしぐさから(公安警察?)と直感させる男性が、プラカードと私に目をやり、通り過ぎて行った。
それに続いて、その数分前から100mほど離れたところに止まっていた濃紺の車が、私の前をゆっくり通り過ぎたところで、その男性を乗せて走り去った。
公安警察間違いなし!と確信するような風景だった。友人はその前に、停車を続けていたこの車から降りたこの人が、学校に入っていったのを目撃していたと言う。ますます、確信した。時計を見ると、8時50分だった。
また一方、忙しい時間をぬって4人の地域の方が訪ねてくださった。お二人は、初対面の方。昨年ここで知り合った○○さんから電話を受けていらしたのだった。
同じ鶴川地区のある小学校では、先日の卒業式で「君が代」の際、卒業生の保護者の2/3が着席されたそうだ。何があったのかは分からないが、すごいことだ。そんな話しに盛り上がった。
学校の前にお住まいの、いつも挨拶を交わす方たちとも、楽しく話しをした。
今日生徒は、午前で下校。始業・着任式で校長から話があったのだろう。「もう、いなくなっちゃうの?」「先生、新しい学校に行っても、僕のこと覚えていてね」と声をかけてくれる生徒もいた。「半年間はまだ、時々ここに来るからよろしく」と変な会話を交わした。
かつての生徒の一人□□さんからのメールが、校門前「出勤」に勇気を与えてくれます。
「去年 先生にお会いしたとき、実際生徒が先生の姿を見て、問題の存在を認知できることはすごく大切なことだと思いました。その時すぐに問題を理解して行動に移すのは、おそらくほとんどの生徒には無理です。私も無理でした。
でも 日本国内には同じような問題がまだまだ沢山あって、先生が異動した分だけ(先生には大変ですが)それらの問題を疑問視できる将来の社会人が増えるのではないかなと思うのです。(中略)
私自身も、最近「愛国心」と「祖国愛」をわけて考えるようになりましたが、それは石川中での平和教育だけでなくて、今の先生の活動を知ってるからだと思います(後略)」。有難いことです。
4月2日(月)
朝、真っ先に外に出てみた。夜中の雨はほとんど上がり、時折霧雨が降る程度。まずはほっとした。今日は、大沢学園養護学校に「初出勤」。
30日に校長面接に行った折、「2日に行われる職員紹介で私を紹介してほしい。自己紹介もさせてほしい」と校長にお願いしたけれど、「都教委に訊かなければわからない」とのことだった。この日帰宅すると、「参加はできないことを都教委と確認した」との返事がファックスで入っていた。
でも、このままでは6ヶ月間、私は“ユウレイ”にされてしまう。いやだ。あれこれ考えて、出勤する職員に手紙を手渡そう、と決めた。
7時40分、校門前着。友人2人が同行してくれた。「おはようございます。今日からここの職員になりました根津と申します。『君が代』で停職6ヶ月の・・・」と自己紹介し、一人ひとりに手紙を手渡した。あるいは手渡そうとした。
「新聞で見ました。がんばってください」「私たちの代表でやってくださっていて、と思っています。ありがとうございます」「来られたこと、友人から聞いています」などと言ってくださる方もいて、一人じゃない、とうれしかった。でもやっぱり一方には、手を出してくれない人や、「中に入るようになってからいただきます」という人も。まあ、これが社会だけれど。
手渡し始めてまもなく、2人の副校長が、「止めてほしい」と言いに来た。学校管理者側の「職務」を意識して来たのだろうか。その割には、2人は、あっさりとしたもので、すぐに中に入ってしまった。
今日は、短時間で「退勤」した。
以下は手渡した手紙。
南大沢学園養護学校教職員の皆さま
4月1日付でこの学校に異動になった根津公子と申します。31日付新聞報道でご存じかと思いますが、今年もこの3月の卒業式の際の「君が代」不起立・不伴奏で35名の教職員が懲戒処分を受けました。私は、停職6ヶ月に処され、ここの職員になったにもかかわらず、中に入ることができません。自己紹介だけでもさせてほしいと校長にお願いしたのですが、「都教委との確認」で承諾できないとのご返事でした。
そこで、紙面をもって自己紹介等させていただきたいと思います。どうぞ、最後までお読みくださいますよう、お願い申し上げます。そして、1年間どうぞよろしくお願いいたします。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
1950年生まれの56歳。担当教科は家庭科です。新任校は江東区立大島中学校でしたが、第一子の喘息で八王子に転居。喘息が軽減するまでの数年間市内の小学校に、その後は同じ市内の中学校2校に10年ずつ在職し、担当教科の授業づくりだけでなく、学年職員集団で平和教育等に情熱を注いできました。とっても楽しい日々でした。
2000年に八王子から多摩に、2003年以降は、調布、立川、町田の各中学校に1〜2年での異動を強行されてきました。
ですから、養護学校の経験は全くありませんし、知識もありません。皆さんから教えていただくことばかりだと思います。よろしくお願いします。
ところで、停職6ヶ月の先はもう猶予はなく、次は免職です。ですから、1年後の卒業式で、校長が起立を求める職務命令を出さない決断をしてくれない限り、私は免職にされます。免職覚悟で、おかしいことにはおかしいと言い、行動していくつもりです。
私は「君が代」が国民主権の憲法に抵触し、歴史的清算も終わっていないと考えます。しかし、だから起立しないのではありません。「君が代」に限らず、強制に反対なのです。
私は生徒たちに、こう話してきました。「ここにいる人におまんじゅうをあげる、と言われたら喜んでもらう。でも、全員が食べることを強制されたら、私は食べたくても絶対に食べない。食べたくない人の権利を侵害することになるから。君が代に反対するのも同じ理由です」と。
強制の行き着く先は、自由と民主主義が奪われた社会、ファシズムです。70年前に日本の歩んだ道を想起すれば、これを良しとする人はいないでしょう。大きく前提として、このことがあります。
加えて、都教委が進める「日の丸・君が代」は教育行為に反し、教育を破壊することだと考えます。知識や資料をもとに考え合うのが教育です。「日の丸・君が代」について生徒が考え意見形成できる資料も機会も提供せずに、起立・斉唱を指示することは、調教に他なりません。子どもたちを戦争に駆り立てた戦前の軍国主義教育と同じです。
また不服従の教員を処分することで徹底させるこの強制の仕方は、生徒たちに「命令には考えずに従え」「長いものには巻かれよ」と教えるようなものです。子どもたちを時の政権担当者の好みの色に染め上げることは許されないことです。
私は生徒たちが自分の頭で考え判断できる人に、「真理と平和を希求する」(改定前の教育基本法)人になってほしいと願い、仕事に当たってきたつもりです。ですから、私はこうした都教委に加担はできません。
さて、養護学校の子どもたちとの接触がなかった私がここで養護学校と「日の丸・君が代」、あるいは「君が代」について申し述べるのはおこがましいことですが、誰を対象としても、教育の条理に違いはないと思います。強制で縛るのではなく、自分の気持ちを出し合い、考え合い、尊重し合ってともに進んでいくことが、大事だと思います。
とりわけて知的障がいや学歴に対する偏見・差別が根強く残る日本社会において、ここに通う子どもたちが、自己に誇りを持ち、正当に自己を主張し表現して生きていくことを学び取ってほしいと思います。そのとき、「君が代」の強制は子どもたちの学びを妨げるものになるはずです。
東京の教職員で、都教委の「君が代」強制・処分に賛成する人はほとんどいないだろうと思います。校長たちも賛成ばかりではないようです。
私は2年前の卒業式での体験で、もう自分に嘘をつくのはやめよう。おかしいことにはおかしいと言っていこうと決めました。治安維持法下では、生命の危険に晒されましたが、今はまだ生命の危険はないですし、56歳の私には養育義務も家庭責任もありません。懲戒免職になっても何とか生きてはいけます。だから、大して迷うことなく、この決断ができたのだと思います。将来があり、家庭責任がある若い人たちの分も声をあげたいと思っています。
停職期間中、私は不当処分に納得していませんし、仕事をする意思が十分ありますので、「君が代」処分を受けた当時の学校(立川、町田)、そして今日から着任するはずだったここに、順繰りに校門前まで「出勤」します。また、都教委には抗議に行きます。
皆さま、どうぞご理解ください。声をかけてくだるとうれしいです。
2007年4月2日
根津公子
(ここに住所と電話番号を書いた)