あなたは「君が代」を歌いますか? 市野宗彦



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田中哲朗

あなたは「君が代」を歌いますか?

「国旗・国歌」について考える
市 野 宗 彦
(グループ多摩じまん)

 若いころ、「想像が創造を生む」などと生意気なことを考え、以来、「想像」を出発点にいろいろな歌や構成作品をつくってきました。一番よく想像したのは、もし自分が戦前に生まれていたら、まちがいなく天皇の忠実な「赤子」になり、ゴリゴリの軍国少年になっていただろうということでした。そうならないためには、どういう考え方、手掛かりをもっていればよかったのか。そんなことを行きつ戻りつしながら、天皇制、日の丸・君が代について、いくらか自分なりに調べたり考えたりしてきました。そのなかからいくつかのことをお話したいと思います。

1.世界から見た「君が代」


 日の丸・君が代の本質を考えるには歴史的な経緯を追う必要がありますが、その前にまず、現在の時点での問題を「君が代」を中心に見ていきたいと思います。
引用文には
マークをつけてあります。


 
(1) 「君が代」は天皇賛歌


 君が代の歌詞については、戦後ずっと議論が続いてきましたが、今回、政府があらためて「君」は天皇のことであるとはっきり言明しました。正確に言うと、君とは

「日本国及び日本国民統合の象徴であり、その地位が主権の存する日本国民の総意にもとづく天皇」のことだと小渕首相は答弁しています(1999年6月29日・衆院本会議)。


いろいろ修飾語をつけていますが、つまりは天皇を指すということです。
 戦後、君が代の意味をあいまいにするために、「君」とは「あなた」のことだとか、

「国民全部を意味している」(1989年11月10日・石橋文相)

などという一種のごまかしが広く流布されてきたため、君=天皇という政府の見解を聞いて驚いた人も少なくなかったようです。保守派の論客として知られる上坂冬子さんのような方も、それでは話が違うというようなことを述べたりしています。
 しかし、「古今和歌集」や「和漢朗詠集」に載っていた和歌としての「君が代」はともかくとして、ソングとし

−1−

ての「君が代」の「君」が天皇を指すことは、この歌がつくられて以来、疑問の余地のないはっきりした事実でした。そもそもこの「君が代」の歌は1880年、明治天皇の誕生日に天皇賛歌として初演されたものですし、明治初期の教科書が、この歌は

「天皇陛下の万歳を祝するの歌曲として作したるものなり」(1893年、伊沢修二編『小学唱歌』)

と解説していたことなどからも、それは明らかです。日中戦争当時の教科書では、よりはっきりと

「『君が代』の歌は『天皇陛下がお治めになるこの御代は、千年も万年も、いや、いつまでもいつまでも続いてお栄えになるやうに』といふ意味で、まことにめでたい歌であります」(1937年『尋常小学修身書 巻4』)

と、その本質が説明されています。

 さて、今回の政府の語義解釈をもう少し紹介しますと、「君が代」の「が」については「所有の助詞」(7月1日・竹島一彦内閣内政審議室長)、「代」は「国を表す」(小渕首相・6月29日・衆院本会議)と明言していますから、「君=天皇」「の=所有の助詞」「代=国」という三つの語句の解釈をつなげれば「君が代」とは「天皇の国」ということになります。つまり、「君が代は千代に八千代に…」というこの歌全体の意味は「天皇の国が永遠に栄えますように」ということになり、戦前の教科書の説明とほとんど同じことになります。これでは、主権が国民にあることになっている現在の憲法下ではちょっと通用しません。そこで政府は、個々の語義とは別に、「君が代」の歌は全体として

「天皇を日本国及び日本国民統合の象徴とする我が国の末永い繁栄と平和を祈念したものと理解することが適当」(6月11日・政府答弁書)

という、なんだかよく分からない説明をつけ加えています。つまり「君」は天皇を指すけれど、現憲法下では「日本国民の総意に基づく天皇」なのだから、国民主権とは矛盾しないということなのでしょう。


 こういう強引な解釈は今始まったことではなく、戦後まもなくから一貫してあったようです。これに対して、保守派の評論家であった阿部真之助が半世紀近く前に鋭い反論を加えています。

「論をなすものは、『君が代』が天皇政治を謳歌するものだというのは当たらない。新憲法でも、天皇は日本国民統合の象徴として規定されている。『象徴としての天皇の代』とは、とりもなおさず『日本国民そのものの代』ということになると言っていた。・・・そういう解釈も成り立つというだけのことで、素直に歌を読めば天皇政治を謳歌するようになるのも自然である」(「サンデー毎日」1954年7月4日)。


しごくまっとうな意見ではないでしょうか。


 さきごろ、日本の在外公館向けリーフレット(英文)に

「『君が代』は天皇の治世(The Rein of Our Emperor)を意味する」

と記されていたことが発覚し、外務省が「誤解を呼ぶ」として急いで回収したというニュースが伝えられましたが、このリーフレットの説


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明こそがむしろ一番真実に近いものでしょう。真実過ぎて都合が悪かったというところでしょうか。

 ちなみに、このリーフレットでは、君が代について「歌詞が短いので同じ節を二度繰り返す」とも述べてありました。現在、「君が代」はふつう1回しか歌われません。しかし戦前のレコードなどを聞くと、たいてい2回線り返していたようです。また戦前の音楽雑誌に、君が代は何度歌ったらよいのかという疑問に答える形で、

”もともと11小節という半端な小節の歌なので1回だけでは物足りない、しかし3回は歌い過ぎなので2回が適当である” という意味の回答が出ています(「音楽」1907年5月号)。

このリーフレットはたぶん、こうした戦前の資料を参考に書かれたものなのでしょう。そのために君が代は「天皇の治世を意味する」と、その本質についてもはっきり記すことになったのは皮肉です。

 常識的に考えれば、「君が代」が戦前も戦後も天皇の賛歌であることは明白です。「象徴」というあいまいな形で天皇制が残っているとは言え、「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」(第1条)と規定した大日本帝国憲法下で実質的な国歌だった歌を、国家原理が180度変わった(はずの)現憲法下で、そのまま国歌にしようというのは土台無理な話です。タカ派として知られる石原慎太郎氏が今回の都知事選挙前、君が代についてテレビで聞かれ、「歌詞がねえ……」と言っているのを見ました。選挙を意識した発言だったのでしょうが、かなり保守的な人でも、「君が代」が市民的感覚と大きくズレた歌であることは内心感じているにちがいありません。

 ちなみに、英文パンフレットで天皇を指していた「Emperor」という言葉は「王の中の王」を意味するもので、エチオピアのハイレセラシェ皇帝がいなくなった後は天皇を指すときだけに使われるそうです。「Emperor」を戴く国に住んでいるのかと思うと、なんとも気が重くなります。

 (2) 日本は異様な君主賛美の国 

 さて、この「君が代」は世界的視野から見ると、どんな風に見えるでしょう。なにごとによらず、世界的視野においてみると事柄の本質がよく見えることがあります。例えば先日、小渕首相が「20世紀をつくった人々」というアメリカの雑誌の企画に応えて昭和天皇を推薦したところ、掲載されたのが軍服姿の昭和天皇の写真だったので、「昭和天皇の本当の姿を伝えていない」と抗議したというニュースがありました。小渕首相は昭和天皇の「本当の姿」は軍服と無縁の平和主義者だったと言いたいのでしょう。しかし、そんな評価は国際的にはまったく通用しません。

昭和天皇はヒトラー、ムソリーニと並ぶ戦争犯罪人だったとういうのが国際的な常識であり、客観的な事実です。
「20世紀をつくった人々」の一人として軍服姿の写真が掲載されたのはむしろ当然のことでした。
 さて、国王・首長・大公・天皇など、

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呼称はいろいろですが、今も君主制を温存している国は日本を含め29カ国あります。世界には190余りの国がありますから、その15パーセント程度ということになりますが、小国が多いので人口比で言うと8パーセント程度のようです。「先進国」を自認する日本が、いまだに前近代的な君主制を維持していること自体、異様だと思いますが、とりあえずこのことはおいておきましょう。


 この君主国29カ国を「国歌」という観点から整理すると【表1】のようになります。この中で最も特徴的なことは、君主国の中でも、「君が代」のように、全面的に現行の君主を賛美する歌を国歌としている国は日本を含め10カ国足らずであり、その多くは最近まで君主が独裁的な権限をふるってきた国だということです。民主主義が発達したヨーロッパ諸国では、君主制を無条件で称えるような国歌はありません。


こう言うと必ず「イギリスがあるじゃないか」という人がいます。確かにイギリスは有名な「ゴッド・セイヴ・アワー・グレイシャス・クィーン・・・」という君主賛歌を国歌にしています。美しいメロディーなのでヨーロッパ中にひろがり、替え歌になって他国の国歌にもなった歌です。しかし、この歌の歌詞をよく読むと、第3節には「あなたが法律を守るなら、あなたを称えよう」というような歌詞があり、無条件の君主賛歌ではないことが分かります。


清教徒革命、名誉革命など、人民の権利を無視する国王であれば処刑したり、追放したりしてきたイギリスの歴史をよく反映した歌でもあるのです。最近でも「王室存続は是か非か」というような討論番組を国営テレビのBBCが放映したりするところを見ても、君主に対する考え方の土壌がイギリスと日本とはだいぶちがうと思わざるをえません。


 さて、ついでに言うと、国歌だけではなく、日本は現在の世界で最も突出した君主賛美国になっています。そのひとつは元号です。元号は君主の治世を示す標識と言っていいと思いますが、現在、世界で元号を使用しているのは日本だけでしょう。唯一の例外は朝鮮民主主義人民共和国で、2年前、キム・イルソン氏の生まれた1912年を「主体元年」とすることにしたというニュースが伝えられました。本当に使われていれば今年(1999年)は「主体88年」ということになります。こんな唯我独尊で正確な歴史認識ができるのだろうかとひとごとながら気になりますが、日本はその先輩格で、今も多くの文書に平気で元号を使っている国なのです。

イギリスがもし元号を使用しているとすれば、今年は「エリザベス49年」。元号のナンセンスさがよく分かるのではないでしょうか。
 さらに付け加えると、日本のように君主の誕生日を国の祝日にしている国もきわめて少ないようです。私が調べたところでは、日本以外にオランダ、タイ、ネパールなどせいぜい4、5カ国ぐらい。日本の場合、さらに前天皇の誕生日(みどりの日)や3代前の天

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皇の誕生日(11月3日)までが祝日になっています。また国民の祝日に制定されている十数日のうち、過半が皇室がらみという異様さです。「建国記念日」 も、まったく架空の「神武天皇」が即位した日をもとに制定されたもの。ほかの国の独立記念日や革命記念日のように、それなりに建国の意味を考えるような日にはまったくなっていません。
 こうして見てくると、「君が代」の法制化を含め、日本は世界の中でも突出した君主賛美のシステムをもっている国だという感じがします。日本はいつまで、こういう時代錯誤的な制度を続けていくつもりなのでしょうか。

 (3)君が代は音楽としても駄作


「君が代」が歌として、大変出来の悪いものであることは、多くの音楽家が指摘してきました。基本的には言葉とメロディーがまったくあっていないということに尽きます。この50年近くの間に出された音楽家の見解をいくつかあげてみましょう。

君が代の旋律は、音楽上の鉄則の前には完全に落第です。正当にことばのアクセントがあっているのは“こけ”というたった一つのことばだけです」(深井史郎「教育音楽」1951年4月号)

作曲コンクールに投稿されたとしても、とても採用される作品ではないことは確かである」(神津善行「東京新聞」1978年6月23日)

歌曲としては欠陥ですね。ぼくは演奏には敬意を表するが、気持ち悪くて歌わない。…自然に聞いて、日本語として分からない」(中田喜直「朝日新聞」1999年7月2日)。

 こうした専門家の批評のほか、曲想が暗く元気がでない、という一般の人の感想もよく聞かれます。「君が代」の擁護者として発言している評論家の西部邁氏も、ある座談会でその本音をこう述べています。

「『君が代』も悪くないけど、よほどうまく演奏してもらわないと、気が滅入る(笑い)」。これに対して黛敏郎氏が「お言葉を返すようですが、あれは・・・素晴らしいメロディーです…」と反論すると、西部氏は「でも、陰々滅々たる感じで、歌うと落ち込む(爆笑)」と正直に語っています(「週刊朝日」1990年5月18日号)。

 また、サッカーの中田選手は

「国歌、ダサいですね。気分が落ちていくでしょ。戦う前に歌う歌じゃない」とインタビュー(「朝日新聞」1998年1月)

で述べたことがあります。この中田選手の発言に対しては右翼が激しく抗議、日本サッカー協会の専務理事が「私が直接、中田に指導します」と右翼に請け合い、その後、中田サイドから、朝日の記事は不正確で迷惑を受けたというコメントが出されたというおまけまでありました。「君が代」を「ダサい歌だ」とコメントすることさえもチェックされる状況になってきたということでしょう。

「君が代」に対する批判は明治時代からすでにあったようです。松岡荒村という人は1904年、「国歌としての君

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表1 世界の君主国の国歌(「」内は歌詞の一部または大意)


【君主の全面的賛歌を国歌にしている国】(9カ国)

ブルネイ・サルダラーム       

「神よ我らが君に長寿を与えたまえ」
■議会は王の任命制。84年以来開かれず

タイ                   

「尊き王のいつくしみ受けさかえゆく我ら」
■王室用。普通は王室賛歌ではない「一般用」を歌っている
 

ネパール              

「君の長寿を祈り我らもともにさかえん」
■90年民主化運動、01年新国王が専制

ヨルダン               

「栄えよ栄えよ気高き王座」
■長らく政党不在だった

オマーン              

「主よ守り給えや我らが君主陛下」
■91年に議会設置。現在は開明君主と言われる

ブータン             

「尊い栄えある統治者」
■98年まで絶対王制

カンボジア


「神よ我らの王を守らん」
■王制・共和制を経て93年立憲君主制

イギリス

「神よ我らが女王を救い拾え」
■3番に「あなたが法を守るなら」ともある

日本

「君が代は千代に八千代に」
■「君が代」とは「天皇の国」の意であると99年、政府が公式見解


【歌詞の一部に君主が登場する国】(8カ国。全面的な君主賛歌とはいいにくいものが多い)

サウジアラビア

■「長命なれわが王」という言葉があるが、歌詞の大部分はアラー賛歌


トンガ

■「王を守れ」という言葉があるが、歌詞の大部分は神の賛歌


モロッコ

■最後に「神・祖国・王」という語句があるが、歌詞の9割以上は祖国への愛情の言葉

一6−

スワジランド

■「我らがよき王」という言葉があるが、歌詞の大部分は神と祖国の賛歌

モナコ

■「公」という言葉が1回出てくるが、歌詞の大部分は祖国賛歌

リヒテンシュタイン

■2番に「侯爵」という言葉が出てくるが、歌詞の大部分は自然と神の賛歌

マレーシア

■「国王の平安を祈る」という言葉が出てくるが、歌詞の大部分は祖国と神の賛歌

クウェート

■「首長」という言葉が出てくるが、大部分は祖国賛歌


【過去の君主の歴史的事象を国歌にしている国】(2カ国)

デンマーク


「帆柱に 立ちてクリスチャン王は」
■400年前の王を歌ったもの。君主賛歌ではない別の国歌もあり、普通はそちらを演奏

オランダ

「ウィルヘルム・ヴァン・ナッソウ オランダの王」
■スペイン支配に抵抗した王を歌っている

【君主ではなく、自然や愛国の情などを国歌にしている国】(7カ国)

サモア

「サモア立ち上がれ」



スウェーデン

「古く自由な北の国」

ノルウェー

「海を渡って嵐が吹く」


ベルギー

「奴隷の日は過ぎてベルギーは立てり」

ルクセンブルグ

「緑の牧場にそよ風吹き」


レソト

「レソト我が祖先の土地」


カタール

「アラーの神に誓う」


【国歌に歌詞がない国】(3カ国)


アラブ首長国連邦


バーレーン


スペイン


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が代」というタイトルの論文で

「君が代の曲は、あまりに君主主義」と批判し、「永久を歌わんとするにあたりただ一個死物に過ぎざる冷たき石をとりきたって陰気なるこけに終わらしめるに至っては、吾人はあまりにその霊活の気なきに驚かざるを得ざるなり。・・・君が代の曲はその楽譜においてすでに哀調、歌詞に至ってはすこぶる寂漠陰鬱をきわめたるもの」

と実に明快にその欠陥を指摘しています。愛国的雰囲気の横溢している日露戦争まっただなかでの勇気ある批判でしたが、松岡はこの論文を書いた3カ月後、25歳で世を去っています。翌年、彼の論文を集めた『荒村遺稿』が出版されますが、すぐに発禁処分を受けました。「国歌としての君が代」が当局の怒りを買ったためと言われています。それだけ松岡の批評は君が代の本質を鋭くえぐるものだったと言っていいでしょう。この「あまりに君主主義」で「霊活の気なき」歌が松岡の没後百年近くたった今、あらためて国歌とされたことを知ったら松岡は何というでしょうか。

(4)「定着論」のウソ


 さて、君が代や日の丸をめぐる議論が行き詰まると、推進派から出てくるのが、”とにかく君が代も日の丸もすでに国民の間に定着しているではないか”という意見です。今回の法制化の論議の中でも、しきりに政府が口にしました。しかし本当に君が代や日の丸は定着しているのでしょうか。
 マスコミ各社が、君が代と日の丸の法制化に賛成か反対かという世論調査をしています。朝日新聞の今年6月の調査では、

日の丸の法制化に賛成59%、反対35%。君が代の法制化に賛成47%、反対39%。また「今国会で成立させるべきか」という問いには賛成23%、反対66%となっています(「朝日新聞」1999年6月30日)。

また、若者に人気のあるTBSのラジオ番組「アクセス」の調査では、君が代を国歌にすることに賛成35%、反対54%という結果が出ています。調査によってだいぶ幅はありますが、少なくみても3分の1から半数の人が日の丸君が代の法制化に反対の意志や疑問をもっていることは確かでしょう。
 数字だけでなく、実感としても、君が代や日の丸が生活の中に定着しているとはとうてい思えません。私は今年、国民の祝日の「海の日」(7月20日)に近所の中野周辺を回って調べてみましたが、日の丸を掲げていたのは1軒のお寺だけでした。地域によって多少の差はあるかもしれませんが、どこでも大体こんなものでしょう。永六輔さんは

「ー家そろってさ、日の丸あげて、君が代歌うっていう家族がいるかね。いたとしたらさ、気味が悪いよなあ」という庶民の言葉を紹介しています(無名人語録=「週刊金曜日」1999年6月18日号)。

本当にそんな家族がいたらお目にかかりたいくらいです。


 だいぶ古い話ですが、1973年6月13日NHKのラジオ放送の番組が突然中断され、第1放送・第2放送・FM放送のすべてが、いっせいに「君が代」

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を流し始めたという事件がありました。
原因はコンピューターの故障で1分半後には元に戻ったそうですが、

「重大臨時ニュース、と息をのんだ」という人や、「右翼の乱入」と思った人がいたと当時の新聞は伝えています(「朝日新聞」1973年6月14日)。

今でも同じことが起これば似たような反応になるのではないかと思われます。つまり、君が代や日の丸は国民全体のもの.というより、右翼や国粋主義者のシンボルのようなものだという認識が一般には強いのではないでしょうか。

 知人に聞いた話では、スウェーデンの人たちは国旗が大好きで、誕生日など個人的なことでも、おめでたいことがあると自分の家に国旗を掲げるのだそうです。国旗が掲げられている家があると、この家には何かうれしいことがあったのだと周囲の人は思うのだとか。国旗への愛の深さが日の丸などとはまるきりちがうようです。

 また、中国の天安門事件のときや韓国の光州事件のとき、ポーランドの連帯運動が盛んだったとき、学生や労働者が国家権力と厳しく対立するなかで歌っていたのは、それぞれの国の国歌でした。これらの国の国歌は、もともと民衆の歌として生まれたもので、反体制的な人たちにも愛唱されてきたのです。

 ラトビアやエストニアなどバルト諸国の人々が国民こぞって集う合唱祭で、国歌を涙ながらに合唱しているのをテレビでご覧になった方もいるかもしれません。1990年、ラトビアもエストニアも、長い間禁じられたきた国歌を勇気を出して歌うことをきっかけにソ連からの独立をかちとりました。

「われわれは、歌で権力に勝ったのです」とエストニアの運動家は語っています(「朝日ジャーナル」1990年12月28日号)。

国歌へのあふれるような思いが伝わってくるようです。実際、ラトビアの国歌もエストニアの国歌も.、美しく簡潔なメロディーと温かみのある言葉で、実に魅力的な歌なのです。

 日本の場合、君が代も日の丸も民衆とは関係なく、明治以来、権力側が学校に持ち込み、イデオロギー教育のひとつとして無理やり浸透させてきたものに過ぎません。権力の強制なしでは浸透しないような国旗と国歌なので、今も卒業式での実施率を調べ、掲揚・斉唱しない学校になりふりかまわず圧力をかけているわけです。こんな愚かな統計をとっている国は日本だけでしょう。小学校の音楽の教科書には1年から6年まで「君が代」が載っていますが、歌詞についての説明は一切ありません。子どもたちは訳も分からず呪文のように歌わされ、ばかばかしい、統計の数字にされるのです。

 沖縄の学校の卒業式での日の丸掲揚率が1985年から1987年までの2年間でどう変わったかを示す数字があります。

      (1985年)  (1987年)
小学校  6.9%  →98.1%
中学校  6.6%  →98.1%
高 校  0%     →100 %




 これは1986年に沖縄で国民体育大会が開かれるのを機に、文部省が強引に日の丸を導入したためです。短期間に


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実施率を0%を100%にしてしまう国家権力のすさまじさに驚くばかりです。
こういう強制で実施率がどんなに上がったとしても、これを「定着」と言えないことは言うまでもありません。

 (5) 推進パンフレットの見当違い


 ここに持ってきたのは「国旗国歌推進会」という団体が出した『国際的視野から国旗と国歌を考えよう』というパンフレットです。自民党の機関紙に広告が出ていたので申し込んで買いました。学校の管理職は、こういうものを参考にして説明や議論をすることが多いようです。

 このパンフのキーワードはタイトルにもあるように「国際的視野」で、外国の例をさかんにひいて日の丸・君が代の正当性を論じているのが特徴です。
普通の人はあまり知らない外国の国旗・国歌事情を都合のいいようにアレンジしていて目に余ります。私も先に、「世界的視野からものを見ると事柄の本質がよく見えることがある」などと言いましたが、それはあくまでも真実を見ようという意志があってのこと。都合のいい事実だけつなぎあわせるのでは「国際的視野」も有害です。

 たとえば、このパンフの第1章は、「日本の国歌は軍国的で、外国の国歌は平和的か」というタイトルで、アメリカ、旧ソ連、中国、フランス、イギリスの国歌を例にあげ、これらの国の国歌の戦闘的な歌詞に比べて「君が代」がいかに平和的な歌詞であるかを述べています。大体、他国の国歌をけなすことによって君が代を擁護しようという発想は

「我が国の国旗と国歌の意義を理解させ、これを尊重する態度を育てるとともに、諸外国の国旗と国歌も同様に尊重する態度を育てるように配慮する」(1998年告示「小学校学習指導要領・社会6年」)

という精神にも反します。

 アメリカの国歌はイギリスとの独立戦争の中で、中国の国歌は侵略してきた日本との戦いの中で、フランスの国歌は革命をつぶそうとする周囲の国々との戦争の中で、それぞれつくられ民衆が歌ってきた歌です。独立や祖国防衛の戦いの中でつくられた曲ですから勇ましいのは当然でしょう。

中国の国歌の「起て、奴隷となるな!…敵の砲火をついて進もう」という歌詞は、このままでは日本のために祖国が滅びてしまう、みんなで力をあわせて立ち上がろうというせっぱつまった必死のよびかけです。歌詞の「敵」はむろん日本のこと。こういう歌の背景を説明し、学ばせれば、歴史や他国への理解も深まるでしょう。それを歌詞の断片だけをとりあげて「きわめて戦闘的」とか「殺伐たるもの」(黛敏郎)とけなして軽侮し、君が代の「平和」な歌詞をきわだたせようとするのは本末転倒というしかありません。

 第7章「国旗や国歌を大切にしない国があるか」では、アメリカ・旧ソ連・中国・韓国・イギリスなどを例にあげ、これらの国で国旗と国歌がいかに大切にされ親しまれているかが述べられています。しかし、これらの国の国

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旗や国歌には、民衆がともに歌い、うちふってきた歴史があり、人々に親しまれるだけの理由がちゃんとあるのです。国家が強制してきたに過ぎない日の丸や君が代とは基本的にちがう。それを説明しないで、外国と比べて日本では「祝祭日に国旗をかかげている家を探すのに苦労する」と嘆き(事実の認識は私と同じなので笑ってしまいますが)、こんなことになったのは「無国籍の教科書」のせいだ、などと見当違いの方向へ話をもっていくのです。
君が代と日の丸自身に問題があることに気づかず(認めたがらず)、外国の話を都合よくアレンジして宣伝する。これはもうデマゴギーと言うしかありません。

2.日の丸・君が代の歴史的経緯

 「君が代や日の丸が歴史の一時期、誤用されたことは事実だが、だからといってすべてを否定するのは無理だ。旗や歌には責任はない」というような議論があります(1999年7月、中央公聴会での小林節氏の発言など)。
 しかし、こうした認識はまちがっていると思います。君が代や日の丸は「歴史の一時期」「誤用」されたのではなく、その成立以来(少なくとも、国旗・国歌扱いされるようになった1890年代以降)、一貫して天皇絶対主義を支える道具として「正しく」使われてきたのです。

 日の丸君が代が歴史のうえで果たして来た役割を便宜上、4つの側面に分けて考えてみたいと思います。

@天皇絶対主義を日本の青少年に注入するための道具として(1890年代〜1945年)

A同じく天皇絶対主義を日本の植民地であった朝鮮・台湾・「南洋」群島の青少年たちに注入するための道具として(1910年代〜1945年)

B日清戦争・日露戦争・日中戦争・太平洋戦争で侵略や占領の標識として、また後方での世論喚起の道具として

C東南アジア侵略後の現地支配の道具として(1942年〜1945年)

 まず@から見ていくことにしましょう。

(1)天皇絶対主義注入の道具として


1889年、大日本帝国憲法が発布されると、翌年には教育勅語が発布され、「御真影」の配布が開始されます。以後、「君が代」は「御真影」とセットになって天皇絶対主義を子供に注入するための不可欠な道具となっていきます。

 「御真影」が「拝戴」されたときの記録が各地の学校に残っています。1890年9月、兵庫県の豊岡小学校の「拝戴」の記録によると、「御真影」を受け取るために校長と教員、生徒700人が「拝戴」と記した旗を先頭にひるがえして郡役所まで行進、「御真影」を受け取った後、生徒は君が代を斉唱、学校にもどって「御真影」を安置した後、また君が代を斉唱、学校の玄関にはずっと日の丸を掲げていたとあります。同じ年の富山県八尾小学校の記録でも、「君が代」のラッパによる吹奏や斉唱とともに御真影の「拝戴」式が

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行われたことが記されています。1902年、沖縄の佐知城高等小学校への「拝戴」では、校長や郡長らが「警官を先駆、次に国旗及び校旗を翻し」て学校まで行進、街道沿いで奉迎する職員生徒らは「君が代」を歌ってこれを迎えたとあります。

 いずれも主役は「御真影」ですが、日の丸と君が代も天皇制国家の権威を演出するうえで、なくてはならない道具になっていたことが分かります。
1893年、文部省が祝日の儀式に学校で歌う歌のトップに「君が代」を選定・公布して以来、「天長節」(天皇の誕生日)など学校で行われる儀式では必ず「君が代」が歌われるようになりました。重々しい儀式を通じて忠君愛国のイデオロギーを注入するのが大きなねらいでした。

「若しそれ、尊厳なる式場に列し、崇敬する職員に従いて『君が代』の国歌を唱し、御影を拝し、加うるに校長が渾身の熱誠を傾倒して説くものあるにおいては、何者かよく至情を動かされざるべき。かくて養われたる至情は、やがて孝順忠誠となり、遵法愛国となり、以て完全なる国民として格勤するに至るべきものなり」(「小学校の儀式に関する研究」1911年)

という一文にそのねらいを読み取ることができるでしょう。
教科書が、日の丸と君が代の「ありがたさ」を教えこむうえで大きな役割を果たしたことは言うまでもありません。


「此の国歌を奉唱するとき、我々日本人は、思わず襟を正して、栄えます我が皇室の万歳を心から祈り奉る」(1933年、国定教科書「国語」5年)

「日本のしるしにはたがある。 

朝日をうつした日の丸のはた。…  

日本のしるしにうたがある。

ありがたいうた、君が代のうた。」(1941年、国定教科書「国語」1年)

 また、日の丸・君が代をテーマにした歌もたくさんつくられました。


・ 日の丸の旗 高く掲げて
 

 我らいざ 祈りまつらん
 

 天皇の 御国の栄 (乗杉嘉寿「国旗掲揚の歌」・1937年)

 ごらんよ 坊や あの旗を
 

 風はそよ風 日の丸よ
 

 坊やも起って 高らかに
 

 今に「君が代」歌うわね  (板谷節子「母の歌」・1937年)

 白地に丸のくっきりと
 

正しく強く美しい
  

何のしるしのくれないか
  

燃ゆる忠義を象った
  

尽くす忠義を象った
 

げにこの御旗の下にして
 

男児は笑みて死ぬるなり  (佐藤春夫「日章旗の下に」)


 日の丸については、赤い丸は天皇の祖先である天照大神を示しているのだという説も広く説かれ、その神聖さが強調されました。

「日の丸の中にも、私共は常に必ず天照大神の霊光を拝し奉るわけである。日の丸を仰げば仰ぐほど尊い神々しい感じがするのも、決して偶然ではないことが分かるであろう。…これほど神聖な国旗が、世界のどこにあろうか」(自亘章三郎「日の

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丸の国旗」1944年)


 こうして子どもたちは、日の丸・君が代を通して、天皇のためなら自分が殺されることも、他国の人を殺すこともいとわない人間に仕立てられていったのでした。


(2)植民地「皇民化」の道具として


 日の丸・君が代を通して天皇のために身も心も捧げる教育を受けたのは日本人だけではありませんでした。早くから日本の植民地になっていた朝鮮・台湾・「南洋」群島では、日本の国内以上に「皇民化」教育が徹底して行われました。


 朝鮮の教科書で日の丸がどう取り上げられていたか、朝鮮総督府発行の教科書を時代を追って見てみましょう。

「8月31日は今上天皇がお生まれになった日で、天長節と称するのである。帝国の臣民は、いずこも同じ各戸に国旗を掲揚して慶祝の意を表す」(1911年「朝鮮語読本」)


「我が国の国旗には、日の丸が描かれています。祝祭日にはそれぞれの家で旗を掲げます。私たちの学校では正門に大きい旗を掲げます。旗が風にはためいている様子は、見ていて気持のよいものです」(1915年「朝鮮語及び漢文読本」)

「大日本帝国は天皇陛下のお治めくださる国でございます。それで皇国と申します。天皇陛下は私ども国民をわが子とおぼしめして御いつくしみ下さいますので、一億の国民は、みなしあわせなくらしをしています。・・・朝日にかがやく日の丸の旗は、ほんとうによく我が国をあらわしております」(1938年「国史地理」)


「今日は愛国日です。…国旗を高く掲げ、二列に並んで誠心誠意で宮城遥拝をしたのち、国歌を二唱しました。そのあと、振興会員のこえにあわせて、皇国臣民の誓いを全員声高く暗唱しました。そして直ちに、大きな声で天皇陛下万歳を三唱しました」(1939年「朝鮮語読本」)

「日本のせんしゅが勝つと『君が代』の音楽とともに、日の丸の旗が高くあげられます。こういう時に、勇ましい日の丸の旗を見上げると、日本人の胸は、国を愛する心で一ばいになり、思わず涙が出るといいます。日の丸の旗は、日本のしるしですから、私たち日本人は、だれでもこれを大切にします」(1939年「修身」)


「校庭の国旗掲揚台に、高く上がった日の丸の旗・・・。同じ日の丸の旗が、昭南島にも、スマトラにもソロモンにも、さしのぼる大東亜の朝日にかがやきひらめいているのだ。・・・ああ、かがやく日章旗、ぼくらは東亜の少国民だ」(1941年「国語読本」)

 こういう教科書で学ばされた朝鮮の子どもたちの中には、第2次大戦に日本兵として動員され、敗戦後、戦犯として連合軍に処刑された人もいました。
処刑直前、「君が代」を歌い、「天皇陛下万歳」を叫んで死んでいった朝鮮人も少なくなかったといいます(内海愛子『朝鮮人BC級戦犯の記録』)。

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日の丸と君が代がつちかった「皇民化」教育の罪深さを思わないわけにはいきません。
 台湾や「南洋」群島もはぼ同じでした。どの植民地でも、子どもたちは朝、登校するとまず「御真影」と教育勅語が納められている奉安殿に最敬礼し、朝礼では全校生徒が整列して日の丸を掲揚し、「君が代」を斉唱、皇居遥拝を行うのが一般的なやり方だったようです(石上正夫『母と子で見る南の島の悲劇』など)。


1935年、台湾で大きな地震があったとき、負傷した徳坤という少年が、死の床で「君が代」を歌いながら死んだという美談が、日本国内で使われた教科書(「国語3)に載っています。これが事実かどうかはともかく、こういう少年を育成することが天皇制国家のめざすものであったことを如実に示しています。
 

(3)侵略戦争のシンボルとして


 日清戦争・日露戦争・日中戦争・太平洋戦争など日本が次々に行った一連の侵略戦争では、日の丸が戦闘の最前線に掲げられたり、占領地に掲げられたりして、まぎれもなく侵略のシンボルとなりました。それぞれの戦争期につくられ広く歌われた歌の歌詞から、日の丸の果たした役割をうかがうことができます。


皇国につくす皇軍の
 向う所に敵もなく
 日の大御旗うらうらと
 東の洋を照らすなり
 (佐佐木信綱「勇敢なる水兵」)


 これは日清戦争のときの歌。まだのどかな感じも残っていますが、日露戦争になると

いっせい射撃の銃先に
 敵の気力をひるませて
 鉄条網もものかわと
 躍り越えたる塁上に
 立てし誉れの日章旗
 みなわが歩兵の働きぞ
   (大和田建樹「日本陸軍」)


と、かなり露骨になってきます。このころ


 朝日にかがやく 日の丸の旗
  閃く御国の軍艦どもよ・・・
  敵の軍艦 幾百あるも
  千尋の海へと 沈めてしまえ
    (外山正一「我が海軍」)


という歌もありました。


 日中戦争や太平洋戦争になると、日の丸を掲げての侵略は、より大規模になり、日の丸を扱った歌もいっそうたくさんつくられるようになりました。

去年の秋よ強者に
 召し出だされて日の丸を
 敵の城頭高々と
 一番乗りにうち立てた
 手柄はためく勝ちいくさ
  (有本憲次「日の丸行進曲」)

国を発つ日の万歳に
 痺れるほどの感激を
 こめて振ったもこの腕ぞ
 今その腕に長城を
 越えてはためく日章旗
 (福田米三郎「皇軍大捷の歌」)


…香港破り マニラ抜き

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 シンガポールの朝風に
 今ひるがえる日章旗
 (読売新聞社制定「十億の進軍」)

…いま大陸の青空に
  日の丸高く映えるとき
 泣いて拝む鉄兜
(福田節「父よあなたは強かった」)

 日の丸のイメージで少年たちを奮い立たせる歌もたくさんつくられます。

国を思えば 血が躍る
 胸のしるしも 日の丸の
 我らは日本少国民…
  (星野尚夫「少国民愛国歌」)

…やがて大空飛び越えて
 敵の本土の空高く
  日の丸の旗立てるのだ
(上村数馬「勝ち抜く僕等少国民」)

 朝鮮半島の少年向けには、こんな歌もつくられました。


御国晴れた 半島の
 銃後を担って 逞しく
 汗と感謝に 立ち上がる
 進め我らは 日本の
 希望輝く少国民


 日の丸高く皇軍の
 手柄たたえて この胸に
 固い決意が わいてくる
 進め我らは 日本の
 力あふれる少国民
    (斎藤悦「少国民の歌」)


 歌の場合、3番まであれば3番に、4番まであれば4番に「日の丸」を歌って「しめる」手法が広く行われたようです。
 文学者も日の丸・君が代を美しく、勇ましく歌って少年たちの心をあおりました。

君が代歌ふあの声は
 インドネシアの少国民
 椰子の葉風に、潮鳴に
 声を合して歌ふのか


 白地に赤く染めぬいた
 日の丸かざし、進むのか
 行けよ愛国行進曲
 列を正して歌ふのだ
      (北原白秋「あの声」)
 

遠いはるかな北のはて
 アリューシャンにも立っている
 あかい日の丸、日のみ旗
 うれしい今年の明治節
  (百田宗治「今年の明治節」)


日、米英開戦の朝だ
 校庭は静まった
 寒さはけしとんだ
 「君が代」の声がふるえる
 するすると大空へ
 国旗があがる
 ひるがえる旗、旗
 日本の旗!
 この旗の下に
 僕等も戦うのだ
 戦い抜くのだ
    (滑川道夫「開戦の朝」)


 元教員の北村小夜さんは教育についてシャープな意見を述べられる方で、よく参考にさせてもらっていますが、戦争中「愛国少女」だった彼女は学校に貼ってある地図に日本軍がどこまで進んだか、日の丸の旗を刺していく仕事をやりたくてたまらなかったそうで


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す。また、幼いころ、日の丸の小旗を大勢の人が打ち振るのを見て「なにかしら湧いてくるものがあるのを感じました」と語っています(『日の丸・君が代が人を殺す』)。侵略の現場で打ち振られた日の丸は、後方でも人々を戦争に立ち上がらせる大きな役割を果たしてきたのでした。

 (4) 東南アジア支配の道具として


 期間としては短いのですが、日本がマレーシアやシンガポール、インドネシアなど東南アジアの国を侵略し支配した3年半ほどの間、日の丸と君が代が支配の道貝として使われたことも忘れてはならないと思います。朝鮮・台湾などのように組織的なものではなかったようですが、それだけに野蛮な押し付けも多かったようです。
 たとえばマレーシアの現行教料書にはこんな風に書かれています。

「日本の支配はイギリスよりずっとひどかった。…すべての学校で日本語が教えられた。・・・学校ではまた、日本の生活様式が教えられた。そこでは日本人の挨拶の仕方や日本の慣習、歌が教えられた。いつも愛国的な歌が教えられた。当時、日本の国歌『君が代』は全国でよく知られたものだった」(中学2年『歴史の中のマレーシア』)


 シンガポールの教科書にはこんな記述があります。

「日本軍が島を占領した三年半の間は、さらに大きな被害と困難が待ち受けていた。・・・昇る太陽を示す日本の旗が家の前に掲げられた。毎朝、生徒は日本の方向に遥拝して、そして日本の国歌を歌わねばならなかった」(中学初級用『現代シンガポール社会経済史』)


 インドネシアの場合は、日本は初め、インドネシアの人々のオランダに対する抵抗の中から生まれた「インドネシア・ラヤ」(現在の国歌)という歌を日本から盛んに短波放送で流したり、オランダに対する抵抗のシンボルだった二色旗(現在の国旗)を大量に持ち込み、インドネシアの人々の歓心を買おうとしました。しかし、いったんインドネシアを占領するとこれらを禁止、かわりに日の丸と君が代を強制しました。東南アジアの人々にとっても、日の丸と君が代は日本の侵略と分かち難く結び付いているのです。


 (5)“旗や歌に責任はない”か


 天皇賛歌である君が代はともかく、日の丸はデザインもいいし、それ自体まずいところはないから認めてもいいのではないかという意見もよく聞かれます。しかし、すでに見たように、侵略戦争で日の丸の果たしてきた役割は君が代と同じように大きいものがありました。アジアの人々にとっては意味不明の君が代より、侵略の先頭に掲げられた日の丸の方が視覚的に恐ろしかったことも事実のようです。日本の航空機についている日の丸を見ると未だにこわいという人もいます。
 ‘旗や歌には責任はない’というのもおかしな論理です。アメリカで銃の規制に反対する人たちが“銃に責任はない、使い方が悪いのだ”と言うのと

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似ています。これまで見て来たように、日の丸も君が代も、特定のある時期にまちがって使われたというようなものではなく、日本の近代以降、一貫して天皇制支配と侵略の道具として使われてきたものなのです。“使い方が悪かった”のではなく、それ自体が否定されるべきものです。

 今回、日の丸・君が代の法制化が日程に昇ったとき、アジアのマスコミはこんな論評を載せました。

「軍国主義の亡霊を思い起こさせる日章旗と君が代を義務化することは、『間違った過去』への復帰を意味する」
      (韓国「東亜日報」)

「今回の決定は軍国主義の亡霊がまだなくなっていないことをあらためて思い起こさせる」 (香港「明報」)

 当然の指摘であり危惧でしょう。しかし、最も大切なことは、アジアの人々がどう思うかではなく、私たちが自分自身の問題として、こんな歌や旗を免罪していいのかということです。ありえないことですが、アジアの人たちがたとえ「気にしなくてもいいよ」と言ってくれたとしても、私たち自身がこんな旗や歌は許せないという感性をもつべきでしょう。

(6) 戦争責任をとらないシンボル


 ヒトラーは「これまでの革命が失敗に終わったのは、革命の本質が権力掌握ではなく、人間の教育であることを指導者が認識していなかったからだ」と述べたそうですが、日本の支配者はまさに「人間の教育」こそが侵略の根幹であることをよくわきまえていたと言っていいでしょう。

1890年代から1945年まで、国内でも植民地や占領地でも、日の丸・君が代・教育勅語・「御真影」・国定教科書などによって、天皇制ファシズムの担い手を育成することに成功してきたのでした。そして戦後も日の丸・君が代を学校現場に強制することによって、支配の構造を強化しようとしています。

 ヒトラーの支配したドイツでもむろん青少年のイデオロギー教育が組織的に行われました。「奉仕的かつ献身的であり、みずからの民族に根ざし、その国家の歴史と運命とに全面的にかつ分かちがたく結びついた政治的人間」が理想的人間像とされ、徹底したイデオロギー教育が行われました。その中で、当時、実質的な国旗となっていたハーケンクロイツ(ナチス党旗)と、「なによりもドイツ、この世界でなによりもドイツ」と大ドイツ主義を歌った国歌が、日の丸・君が代と同じようにおおいに利用されたことは言うまでもありません。

われらの旗が先頭にひるがえる
 われらの旗は新たな時代
 そう旗は死より重い

というヒトラーユーゲント団の歌は、日の丸の下で死を誓う日本の歌とよく似ています。
 戦争が終わりナチスが滅びた後、ハーケンクロイツの旗は廃止されて国旗は本来のドイツ国旗である三色旗にもどされました。国歌は領土拡大の意志が露骨な1番、2番をやめて3番だけ

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を歌うことになりました。同じ枢軸国のイタリアでは、ファシスト党と連携した王政は廃止され、国旗から王章がはずされることになりました。また、国王賛歌の国歌も別の歌に変えられました。不十分な面もありますが、ドイツもイタリアも国旗や国歌、政治体制のうえで侵略戦争の責任をそれなりにとったと言えるでしょう。


 戦争中、ドイツ・イタリア以外にハンガリー、ルーマニア、ブルガリアが枢軸国側につきましたが、いずれの国もその責任を問う形で戦後、王政は廃止されました。連合国側では、デンマークでは戦争中、国王自身がナチスとの戦いの先頭に立ち、オランダでは女王が亡命先からナチスへの抵抗をよびかけたことが国民から評価され、戦後も王政が温存されました。一方、ベルギーではレオポルド3世がナチスに屈服したため戦後きびしく批判され、退位しました。日本だけが日の丸・君が代をそのまま残し、侵略の最高責任者だった天皇も責任を問われずに居座ることになりました。これは日本が侵略戦争を心から反省していないことの象徴でもあります。


 「終戦の詔勅」をお読みになったことがあるでしょうか。戦争の終結を宣言した有名な文章ですが、驚くべきことに‘神州不滅’‘国体護持’というような言葉が相変わらず使われ、敵が残虐な爆弾を使ったので仕方なく戦争をやめるということが書かれています。
謝罪の言葉は一言もありません。これが天皇自身も含む日本人全体の当時の認識だったと言えるでしょう。日本の国民が多少なりとも加害の重さ、深さに気づくようになったのはずっと後のことでした。しかし、戦争責任をちゃんと果たすことこそが日本の未来を切り開くと考える人はまだまだ少数です。
日の丸・君が代の法制化は、日本が加害者としての痛みに鈍く、夜郎自大のまま大国になってしまっていることをあらためて世界に示すことになってしまいました。


3.教育の問題・「内心」の問題


 すでに学校の現場では日の丸・君が代の強制は、ほぼ完成しているといっていい状況でした。法制化によって教師たちはさらにがんじがらめになりその苦悩はいっそう深くなるでしょう。
「君が代」を教えることを強いられる教師のことを思うといても立ってもいられない気持ちになります。学校関係者でない市民も自分自身の問題として考え、行動することが迫られています。八方ふさがりに見える状況の中で、どんなことをよりどころにしていったらよいのでしょうか。

 (1)強制しないサミット加盟国


 すでに触れたように、日の丸も君が代も民衆の中から生まれ育ったものではなく、権力によって強制的に浸透させられてきたものでした。その最大の場が学校でした。それは明治時代も現在も変わっていません。国際的に見ると、これはかなり異常なことです。

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表2 主要先進国の学校における国旗・国歌の扱い
(『世界の国旗と国歌』=1991年・岩波ブックレット掲載の各国大使館回答による)
. 〔学校での扱い〕 〔学校行事での国旗掲揚〕
イギリス とくに教えない しない
イタリア 由来は教えるが扱いは学校一任 学校の判断による
オーストラリア 扱いは学校に一任 学校の判断による
カナダ (多民族国家なので国旗は必要。あらゆる場合に掲揚) .
スイス 歴史の授業で。学校一任 学校の判断による
スウェーデン (国旗には親しみをもち個人的な祝いにも揚げることがある) .
デンマーク 教えない 掲揚しない
ドイツ 学校に一任 比較的まれ
ノルウェー 学校に一任 掲揚しない
フランス 歴史の授業で教える 掲揚しない
ベルギー 学校に一任 しない



 【表2】にあるように、サミット加盟国で日本のように学校で国旗・国歌を強制している国はありません(イギリス系住民とフランス系住民の融和に心をくだいているカナダが「あらゆる場合に掲揚」と答えているのが唯一の例外です)。

アメリカ在住の文学者・米谷ふみ子さんが最近、新聞に書いた文章からも、このことはうかがえます。

私の息子の嫁が、ドイツ生まれオランダで育ったから、『学校で国旗に宣誓とかあったの』とたずねると、『そ−んなことドイツでもオランダでも、したことはなかったわ』と驚いたように言われた。フランスの領事館に電話してたずねてみると『フランス人に政府の言うことを聞けと言えると思いますか? そんなこと法律にしたら革命が起こりますよ。ネバー』ということであった。日本の文部省は何が教育であるか熟考したことがあるのだろうか?」(「朝日新聞」1999年6月14日)

 そもそも、これらの先進国の多くは入学式や卒業式などを仰々しく行う習慣はないようです。国によっては子どもが生まれた月ごとに、それぞれ入学したり卒業したりするそうです。日本では明治以来、儀式を天皇イデオロギー教育の場として重視してきたため、現在でも儀式をおおげさに考える風潮が残っているように思われます。

 外国での国旗・国歌の扱いが国会の場でも取り上げられたため、日本政府はサミット加盟国で学校において国旗・国歌を強制している国はないことを認めざるをえませんでした。すると今度は、“サミット加盟国だけが外国じゃない方というようなことを言い始めています。確かに、新興国や、アメリカに抑圧されている国ではナショナリ

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ズムが非常に強く、国旗や国歌を学校で扱う国も多いようです。「ここがヘンだよ日本人」というテレビ番組を見ていても、アジア・アフリカ諸国の人はよくも悪くも強烈なナショナリズムの意識をもっていることが分かります。
それは歴史的に見てよく理解できます。それにしても日ごろ、アメリカ一辺倒で、これらの国のナショナルな主張に耳を傾けないことの多い日本政府が、国旗・国歌の強制のときだけ、引き合いに出すというのは笑止です。


 (2)「知性と精神は侵せない」


1958年以来、学習指導要領では、学校行事での日の丸の掲揚と君が代の斉唱を「望ましい」と記していました。その後30年あまり、指導要領は何回か改定されましたが、この文言は変わりませんでした。「望ましい」が「指導するものとする」に変わったのは1989年の学習指導要領の改定のときでした。

日の丸・君が代をより露骨に強制するための手掛かりをつくったわけですが、この中の「ものとする」というややあいまいな言い方について、当時の文部大臣は「私立の学校もあるので、宗教行事もあり、‘する’と断定はできない」と説明しています。宗教に配慮するということは、人がそれぞれ信じるものを尊重するということにほかなりません。それなら、当然、無宗教の人の良心や信念も尊重されねばなりません。神を信じるものも信じないものも、日の丸に敬意を表したくない、君が代を歌いたくないという気持ちをもっている人は同じように尊重されるべきです。信仰は「内心の自由」の一つの形に過ぎないのですから。

 「内心の自由」を考えるときに、よく引き合いに出されるのがアメリカの「バーネット判決」です。

1942年、学校で国旗に対して敬礼をしなかったウェストバージニア州のバーネット家の娘が退学処分を受けました。当時、同じような理由で全米で2000人以上の生
徒が退学になったといいます。バーネット家は、これは憲法違反ではないかと提訴、1943年、連邦最高裁は「国旗に対する敬礼や忠誠の強制は・・・知性と精神の領域を侵している」としてバーネット家の主張を全面的に認めました。


ナショナリズムが最も高揚している第2次大戦の真っ最中にこうした判決が出たことは理性の輝きを感じさせます。


当時、娘だったバーネットさんは、なんと今も健在で、つい最近「すべての子どもたちが学校に戻れ、しかも今国旗敬礼を強制されず、うれしく思っています」(「赤旗」1999年5月10日)


と語っているのを読みました。「バーネット判決」は、時代や国がちがっても、権力が人間の「知性と精神の領域を侵す」ことはできないことを高らかに宣言して、今も私たちを励まします。

(3)「内心の自由」を貫くために


 私は歌が好きで、自分でもつくったり歌ったりしてきましたが、歌は楽しいだけでありません。賛美歌や労働歌、軍歌などが典型ですが、共同でことに当たったり、団結を高めたりするうえ

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で大きな役割を果たすし、人の思想や感性を静かに変えていく力もどこかにあります。この力はプラスにもマイナスにも働きます。皇国臣民をつくりだすうえで歌が大きな役割を果たしたことはいうまでもありません。歌はこわいものだとしみじみ思います。私自身、歌にだまされないために、歌の意味をよく考えること、いやな歌はきっぱりと歌わないこと、歌を生み出した背景を調べたり考えたりすることなどをできるだけ心掛けるようにしてきたつもりです。


 しかし、「内心の自由」を長い間貫き続けるのは、なかなかむずかしいことだと思います。日の丸・君が代の押し付けについても、1年たち2年立つうちに「まあ、いいか」ということになりかねません。信念を持続するために大切なのは、「内心の自由を大切にする」という観念ではなく、日の丸や君が代がいかにくだらない愚かなものであるか、あるいはこわいものであるかを、具体的にいつも感じていることではないかと思います。

 そのためには、戦前のさまざまな歌や教科書などを通して、自分がそこにいたら、どう感じたかをイメージすることも大切なのではないでしょうか。

日の丸が青空にへんぽんとひるがえる美しさ、日の丸の小旗がさざなみのようにひろがる快さ、それを感じれば感じるほど、日の丸が侵略の道具となっていったことの恐ろしさが痛感できるでしょう。また「君が代」が初めの斉唱から「千代に八千代に」の部分で和音がわっと広がっていくときの一種の荘厳さを感じていれば、人々の心を天皇にからめとっていくものの構造が見えてくるでしょう。天皇を信じ、天皇のために命を捧げることをいとわないようになった少年少女たちが読み、歌い、見たものを追体験することによって、それらにだまされない力を養う手掛かりがつかめるかもしれません。すべてに封をして近寄らないままだと、同じものが繰り返されたとき対抗できず、再びからめとられてしまうこともありえるでしょう。

4.国旗・国歌は本当に必要か

 (1) 国旗・国歌の本質を考える


 君が代は現在の日本にふさわしくないという議論の延長で、ではどんな歌がふさわしいかという話がよく出て来ます。新聞紙上などでは「ふるさと」「さくら」「上を向いて歩こう」などの代案がよく見られます。「君が代」を「民が代」にしたらいいという意見も必ず出て釆ます。また戦後、君が代にかわる国歌をつくる動きも民間にいくつかあり、「緑の山河」「我ら愛す」「この土」「若い日本」などの歌がつくられました。どの歌もあまり広まることなくはとんど忘れられてしまったようですが。

 私は代案を考える前に、国歌や国旗は何のためにあるのか、今本当に必要なのかという根本から考えることが大切ではないかと思っています。
 国旗・国歌をプラス面から見ると、


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国の統一・団結、独立や革命、強国への抵抗のシンボルとしての役割などがあげられるでしょうか。マイナス面から見ると、自国民や他国民への支配・隷属・同化・侵略・占領の道具としての役割などが考えられます。国の統一・団結のシンボルという役割も必ずしもプラス面ばかりでなく、行き過ぎると他国を敵視したり軽視したりすることに通じます。


 実際の国歌や国旗のルーツはたいてい、独立をかちとる過程で歌われたり、掲げられたりしたものが多いようです。

独立をめざす時点では、これらの旗や歌は意味がありプラスの働きをしたのでしょう。しかし、いったん独立や革命が達成されると、その旗や歌が支配者にとって支配や統合のための都合のよい道具になりマイナス面があらわになてくることも確かです。

 韓国の国歌(正式には愛国歌)は日本に対する抵抗の歌として生まれた大変美しい歌です。日本の支配下では禁止されていましたが、独立とともに国歌になりました。しかし、朴政権時代、国旗(大極旗)とともに国歌が強制されるようになります。

「いまでは映画館で映画が始まるまえに、大極旗が画面ではためき、愛国歌が流れる。一同は起立して、この荘厳な儀式に参加しなければならない。そして毎日、午後6時には、国旗降納式というのがあって、街を行く市民もすべて足を止めて『気をつけ』をして愛国歌に耳をすまさねばならない。なんというこっけいな光景であろうか」(池明観「朝鮮人から見た国旗・国歌」1989年)

という文にその実態がうかがえます。現在ではだいぶ緩和されているそうですが、こうした強制を通して、国歌が嫌いになる人が多くなったそうです。せっかくのいい歌も、強制されて民衆の愛を失ったのでしょう。

1998年のワールドサッカーのとき、各国の選手がセレモニーで自国の国歌をどれくらいちゃんと歌っていたか、テレビ画面を全部チェックして調べた人がいます(「ホリイのずんずん調査」「週刊文春」)。興味深かったのは31カ国中、韓国が最下位近い27位、斉唱率36.4%だったことです。スポーツ選手は一般の人より国歌を歌う率は多いのではないかと思われますが、それでもこんなに低率だったのは、かっての強制の反作用ではないかと思われます。

(2)国旗・国歌がなくても困らない


 私は、今の日本に国歌・国旗は必要ないのではないかと考えています。これ以上、日本人としての一体感やら帰属意識をもつ必要はまったくないし、むしろ有害だと思います。
 不要論を述べるとまず、国歌や国旗がないとオリンピックのときに困るではないか、という人がいます。オリンピックは単なる国際スポーツ大会で、オリンピック委員会もナショナリズムがあまり持ち込まれるので、1980年、国旗・国歌はやめて「選手団の旗・歌」にしようと決めたくらいです(実際には守られていません)。かつて南北朝

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鮮や、東西ドイツが統一チームを組んで国際大会に出場したときには、地図をデザインした旗や、「アリラン」や「歓喜の歌」などの歌が使われました。
大会ごとに選手のユニフォームを決めて発表するように、“今回の選手団の旗と歌はこれ”というようにすれば十分です。大体、国家の威信をかけて競技するなど馬鹿げたことです。テニスの国際大会はあくまでも個人同士の競技で国旗や国歌は無関係。ダブルスもちがう国の人同士がよく組んでいます。これからの国際競技はこんな風でありたいですね。

 国旗や国歌がないと、国賓が来たときはどうするのだという人もいます。
国賓をめぐるセレモニーなどどうでもいいことですが、1971年、昭和天皇がイギリスを訪問したとき、イギリスの楽隊が本来イギリス国歌を演奏するはずのところを「グリーンスリーブス」を演奏したことが思い出されます。天皇への反感もあったのかもしれませんが、こんな風にその国の代表的な音楽を演奏すれば十分でしょう。ダイアナさんが香港を訪問したとき、香港の軍楽隊がイギリス国歌のかわりに、第2の国歌とも言われる「威風堂々」という曲を演奏したのも同じような例です(ダイアナさんへの反感もその底にあったのかもしれません)。国歌がなくて困ることは何一つないと断言できます。

 国旗がないと戦争のとき、外国から攻撃されるから困るという人もいます。
国旗を掲げるのが戦争のルールだという人もいます。ガイドラインの問題が起きたとき、海員組合の人が、湾岸戦争のとき、大きな日の丸を掲げていたのに攻撃されてしまったという話を聞きました。日本がアメリカに味方していたからです。国旗の有無ではなく、戦争に加担するかどうかの方がずっと基本的な問題だということが分かります。ルールを守って戦争をするより、戦争をしないことの方が大切であることは言うまでもありません。

 市町村や学校、会社にもたいてい旗や歌があります。しかし、実際には旗は一種の飾りに過ぎず、歌ははとんど有名無実。これらの旗や歌がなければ困るというようなことはほとんどないでしょう。国旗や国歌の場合もほぼ同じです。そのくせ、妙にもったいぶって神聖なものめいて扱われ、支配や侵略の道具に使われかねません。

 教育評論家の森毅さんは「どこの国にも、国旗や国歌があるという人がいる。ぼくは、このことは20世紀後半に地球上に流行した、人類の野蛮な習慣に過ぎないと考えている」(「教育評論」)と述べています。私は心からこの意見に賛成です。森さんはさらに「学校がこれ(国旗・国歌)にあうのは、学校というものが、共同体への忠誠の場になっているということを意味しないか」と述べています。示唆に富んだ見方だと思います。

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5.なぜ今、国旗・国歌の法制化か


 (1)自民党議員の本音


 この時期、あらためて国旗国歌の法制化が強行されたのはなぜでしょうか。
 一言で言えば、やはりガイドラインによってアメリカと提携して世界に乗り出すという動きに見合っているものだと思います。「周辺事態」の後方支援では日本人に死傷者が出ることも考えられます。これまで以上に戦争がちゃんとできる体制、国家のために行動する意識をもった国民をつくっていかねばならないということでしょう。

 この先の展望については、自民党議員が新聞ではっきり語っています。


「日の丸・君が代問題の次は有事立法、さらに憲法改正と、三段階で日本の21世紀を担う政党はどこかが明らかになる」(矢野哲郎=「朝日新聞」1999年5月1日)。

こんなにあっけらかんと言っていいのかと思うくらいですが、これが自民党、財界の真意でしょう。

 (2) 戦後史のなかで


 戦後、君が代・日の丸の法制化は執拗に持ち出されてきました。1950年代にももちろんありましたが、この時期は経済成長が何よりも求められていましたから、それほど強い動きにはならなかったように思われます。やはり70年代の石油危機をきっかけに高揚してきたナショナリズムがこうした動きを前に進める力になったのではないでしょうか。それでも70年代半ばの昭和天皇「在位50周年」記念式典には革新知事や公明党が出席を拒否していました。この十数年の動きの早さに驚かされます。

 日の丸・君が代・元号・靖国神社などといった時代措誤的なもので世の中を動かせるはずがない、と私たちは思いがちですが、こういうことを熱心に進める勢力を侮ってはいけないと思います。「日本会議」(かつて「日本を守る国民会議」と称していた団体)は今年4月の総会で、平成天皇の在位10周年奉祝式典をすること、日の丸・君が代の法制化運動をすることを決めたといいます。自民党はこういう右翼的動きをどんどん吸い上げているんですね。

6.天皇制に正面から向き合う


 
(1) 歴史をどう見るか


 君主制から共和制、資本主義から社会主義という風に、国家の基本原理が変わると国歌も国旗もたいてい変わります。国歌も国旗もその国のイメージを示すものですから、これは当然のことでしょう。日本の場合、天皇主権の「大日本帝国憲法」から国民主権の「日本国憲法」に変わったことによって国家の原理は変わったと考えるのが普通です。当然、国旗も国歌も変わらなければおかしいということになります。

 ところが、君が代・日の丸を推進する人たちは戦前も戦後も、基本的な原理は変わっていない、日本は明治以来、

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連綿と続いている国家だと考えたいようです。

「僕は、1945年8月15日において、不連続な変化、革命的変化は日本に起こらなかったのだと解釈する。明治このかた、ブレがあったにせよ、大筋において、立憲君主制という体制に変化がない以上、国のシンボルに変更がないのは当然なんです」(西部邁「週刊朝日」1990年5月18日号)

という意見が最もはっきりそのことを語っています。
 こういう意見の根幹にあるのは日本が天皇の名において他国を侵略したことを認めたくないという願望です。

「私は大陸への進出、あれはあくまで『進出』であって『侵略』ではないと思っています。犯罪的意図は全くなかったわけで、そのことを恥じて『日の丸君が代』をやめる必要は豪もない」(黛敏郎「週刊朝日」前出)

 つまり、日の丸・君が代をどう考えるかは、日本の近代史をどう捉えるのかということと分かち難く結び付いていると言っていいでしょう。さらに一歩進んで、日本をどういう国にしたいのかということとも深く関係して来るように思います。

(2)気軽に言いたい天皇制の廃止


 そこで、はっきりさせておかなければならないのは天皇の存在です。驚くべきことに天皇が戦争の責任をとることなく、戦後も「象徴」として残ってしまった。これが、すべての災いの元凶だと言ってもいいでしょう。

 明治から現在までの日本の歴史をのっペらぼうのひとつながりと言い張り、日の丸・君が代を推進する人の最大のよりどころになっているのは憲法に厳然と残っている天皇の存在なのです。

 ならば、私たちも事柄をはっきりさせるために、ためらうことなく天皇制なんてやめよう、天皇なんていない国のしくみにしようとはっきり言う必要があるでしょう。憲法にどう書いてあろうと、人間に身分の差があることがおかしいことだということは小学生だって分かる。西部氏流に言えば、それこそ「多少のブレがあっても」君主制の廃止は人類の歴史の大きな流れです。

 200年前、共和制の国は世界にフランスとアメリカぐらいしかなかった。今世紀の初めにも世界の過半は君主国だった。しかし、平等の原理にそむく君主制は年を追うごとに減っていき、戦後だけでも、イタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、エジプト、イラク、イラン、リビア、ギリシア、エチオピア、アフガニスタン、ラオスなどが次々に共和制に変わっています。
これこそ人類普遍の原理といっていいでしょう。天皇制をやめようと主張することは過激でもなんでもないのです。

 私は日常の普通の会話の中で「今日は暑いですね。ところで天皇制やめません?」という具合に気軽に言っていこうと思っています。
 でも憲法には「第1章天皇」とちゃんと書いてある、と心配する人もいるかもしれません。革新派はこの条項を見て見ぬふりをすることが多かったのも確かです。


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 しかし、忘れてならないのは憲法より思想や良心といった「内心」の方がはるかに大切なものだということです。

戦争放棄のことを例にあげましょう。

日本の憲法には、「平和を愛する諸国民を信頼して」一切の武力はもたないということが前文と9条にはっきり書いてある。これは長い間の人類の願いを結実させたもので、他国の憲法にはない画期的なものです。ところが、これを誰よりも守るべき国会議員や官僚がアメリカの意を受け、率先して破り続けてきました。だから、私たちが「憲法を守れ」とか「憲法の精神を世界にひろめよう」と主張してきたのは当然だし、これからも主張していかなければならないでしょう。しかし、それは、たまたま日本の憲法に書いてあるから、そういう表現になるだけで、本来、憲法にどう書かれていようと、一切の武力を放棄することは私たちの根本的で普遍的な願いであるはずです。


 戦前、天皇制や日本の侵略戦争に反対した少数の勇気ある人たちがいました。大日本帝国憲法はむろんのこと、彼らがよりどころとすべき法律など、どこにもなかった。でも彼らは命をかけて正しいことを主張した。それは彼らの良心がそうさせたというしかありません。「内心」がつかみとった正義はなによりも強いと思います。

 今、天皇制の廃止を主張しても、にらまれたり脅されたりすることはあっても大逆罪に問われることはありません。自分自身の良心をなによりのよりどころにして、みんなで堂々と、気軽に、日の丸・君が代・天皇制はやめようという声をあげていきたいものだと思っています。

【主要参考文献】


■金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌』(講談社文庫・1977〜82年)


■歴史教育者協議会編『日の丸・君が代・紀元節・教育勅語』(地歴社・1981年)


■増補・復刻『荒村遺稿』(不二出版・1982年)


■山中恒『少国民ノート』(辺境社・1982年)

■内海愛子『朝鮮人BC級戦犯の記録』(剄草書房・1982年)


■櫻本富雄『少国民は、忘れない』(マルジュ社・1982年)


■内海愛子・田辺寿夫『アジアから見た大東亜共栄圏』(梨の木舎・1983年)


■石上正夫『日本人よ忘れるなかれ』(大月書店・1983年)


■李淑子『教科書に描かれた朝鮮と日本』(はるぷ出版・1985年)


■『日の丸・君が代』(エイデル研究所・1985年)


■藤原彰『沖縄戦と天皇制』(立風書房・1987年)


■今野敏彦『「昭和」の学校行事』(日本図書センター・1989年)


■ひと編集委員会編『日の丸・君が代をどう教えるか』(太郎次郎社・1989年)


■浜林正夫ほか『世界の君主制』(大月書店・1990年)

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■教科書問題を考える市民の会『世界の国旗と国歌』(岩波ブックレット・1991年)

■『君が代資料集成1』(大空社・1991年)

■歴史教育者協議会編『子どもと学ぶ日の丸・君が代』(地歴社・1992年)

■越田稜『アジアの教科書に書かれた日本』(梨の木舎・1995年)

■山中恒『ボクラ少国民と戦争応援歌』(クリエイテエブ21・1997年)

■北村小夜・天野恵一『「日の丸・君が代」が人を殺す』(社会評論杜・1999年)

■藤本卓編『公論よ起これ!』(太郎次郎杜・1999年)

■歴史教育者協議会編『日の丸・君が代50問50答』(大月書店・1999年)

■原田一美『ナチ独裁下の子どもたち』(講談社・1999年)

■千本秀樹『天皇制の侵略責任と戦後責任』(青木書店)

■『日本教科書大系・唱歌』(講談社)

■『白秋全集』28巻(岩波書店)

■『戦時歌謡大全集』10・11(日本コロムビア)

■「朝日新聞」「週刊朝日」「赤旗」バックナンバー/各種教科書

 この文章は、1999年7月25日に開催した労学舎講座『あなたは「君が代」を歌いますか?- -「国旗・国歌」について考える- -』(『生き活き通信』同年8月号に掲載)を整理・編集したものです。

 今回増刷にあたり、初版の誤字・脱字の訂正、6・7頁の表1の改訂を行ない、2006年2月再版として発行しました。


    「生き活き通信」編集部

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