日の丸君が代を推進している人は、これにより日本社会の国家としての団結心、日本人としての誇りを高め、また社会に欠如している秩序や、規律、倫理、道徳、従順さといった概念を高めたい、と考えられているのだろうと、私は思います。
一方、日の丸君が代の「強制」に反対している人の考えは、国家権力は過ち、不正を犯し、時に、人権を抑圧する性格を持っており、国民にはそれを監視し、正す責任があり、「強制」の現状は、権力に従順、無批判な国民を作り、万一国家権力が過ちを犯し、暴走を始めたときに国民がそれを正す能力を失っておりかねない危険を感じる、というものだと思います。
現実に今、「強制」に反対の意思表示をする良心的な教員が処罰を受け、教育現場から排除されつつある状況があります。このことは、学級崩壊、いじめ等の問題を抱えている現在の学校教育をさらに萎縮させる深刻な問題だと思います。
私は、前回の討論で、日の丸君が代の問題は二つの価値観(秩序と自由)のぶつかりあいであると感じました。どちらの価値も軽視することは出来ず、要はその方法や程度が適切であるか、という問題ではないかと思います。
世間では、その人の思想を右、左で分けて判断しがちですが、私は、自分の利益しか考えない人と、社会の成り行きに責任を持とうとしている人、との分け方で人を見ることにしています。
左右どちらの陣営にもわがままな人もいれば、よりよい社会を目指し、社会の成り行きに責任を持とうとする人はいると思います。ここに集る人は後者であると信じて「日の丸君が代問題を語り合う会」を続けて行きたいと思います。
前回の話し合いは「罰則で強制することによって日の丸君が代を推進する事で、子どもたちの教育、日本の未来にどのような良いことがあるのか」という私の問いに何らかの答えが示されたり、意見の一致が見られたわけでは有りませんでした。
しかし、日の丸君が代に反対している人達は、共産主義国の手先であり、また推進している人達は、軍国主義者で、日本を戦争に巻き込もうとする人達に違いないといった、お互いの先入観は、前回参加された人の中では、一部改められたのではないかと期待しています。
@ 国家や人の集団が強制力を持ち、何らかの強制をすることは社会秩序を保つためにやむを得ない。法律、規則を守ることが求められ「上からの命令」に従うことは当然である。ある程度の「自由への規制」があってもやむを得ない。
A 人の集団にはシンボルとなる旗や歌が必要であり、日本の国旗国歌は日の丸君が代が適切である。
B 反対している人は日の丸君が代が嫌いだから反対しているのであり、シンボルの必要性は認めている。
C 公務員たる者は規則に従わなければならない。だから学校において日の丸君が代に反対したり批判すべきでない。
D 日の丸君が代が現状で「強制」されているとは思えない。罰せられるのは常軌を逸した行動を取った教員だけである。君が代のとき座っているだけで罰せられるのか。
E「強制」に反対するのなら校旗校歌の「強制」にも反対すべきだ。
F 国立のピースリボンの例(意思表示だけで実力行使を伴っていない)も処分を受けて当然である。権力とはそういうものである。
G 子どもたちの歌う自由は保障されなくて良いのか。
H 民主主義は(どの様な場合でも)多数決に従わなければならない。多数決の結果に不満であれば、自分が多数を獲得して決定を覆せばよい。
I 教員は教室においては権力者であり、子どもたちに対して大きな影響力を持っているのであるから、特定のイデオロギーを示す(押しつける)べきではない。
J 日の丸君が代に反対している者は、外国から日本の悪口を言われたら喜ぶような人である。
K 反天皇である人は愛国心を持ち得ない。愛国心はその国の歴史を認めるところから来ており、天皇は日本の歴史そのものである。
@ 国家に権力は必要だが、権力によって人権が抑圧されることがあってはならない。
A 民主主義は、多数決で決めて良いことと、決めるべきではないことがある。思想信条の自由に抵触する事は決めるべきではない。
B 日の丸君が代に反対する事と、その強制に反対することは違う。その違いを理解して欲しい。日の丸君が代の好き嫌いで反対しているのではなく、強制が民主主義に反しているから反対している。「強制」とは、従わないと罰せられるということである。
C 「強制」に反対しているものは全て共産主義者だと思われているが、そうではない。
D 子どもたちが学校の主権者である。社会に出たときに自分たちで考えて決めていくことが出来るよう、学校はその勉強の場である。意識有る教員は思想の対立がある問題を教えるとき、両方の考えを対等に示して子どもたちに考えさせるようにしている。
E 中学生の年齢になれば、日の丸君が代の問題に、意見の対立があるという事ぐらいはある程度は知っている。
全ての情報が示された中で、子どもたちが論議し、子どもたちの論議による決定が尊重されるべきだが、教育委員会、校長は議論をさせることを拒む。
F 意識有る教員は男女の差別とか、障害者を差別するとか、異質なものを排除していく事にも反対だ。人権を尊重するような社会が必要だと教えている。日の丸君が代だけに反対しているのではない。
G 教員組合の原点は戦前の教育を反省し、子どもを再び戦場へ送るなという考えから始まった。そのような信念を持ち発言する教員が校長などから圧力を受け、辞めていったり、黙ってしまう例が多い。
H 日の丸君が代は、指導要領で決められているというが、最初は無かった。変えられて行った。
I職員会議では日の丸君が代を卒業式で使わないと決めたのに、校長だけがそれに反対し、強行する例が多い。
J 国立のピースリボンのように教員が意思表示をしたという理由だけで処分を受ける例がある。
K 職員会議で日の丸君が代に反対の発言をしてもその事では処分は出ていないが、言質を教育委員会がチェックし目を付けられ、昇給を止められるなど差別がある。
L 公務員だから(給料をもらっているのだから)教員は命令に従えと言われるが、給料をもらっているからこそ、責任ある教育を行う意味で強制に反対している。
半世紀前の戦争、それにかかわる日の丸君が代の認識についての議論等がありましたが、割愛させていただきました。
1 私は、日の丸が嫌いだから反対しているのではなく、旗や歌を強制することは民主主義に反すると考えるから反対しています。別の旗でも歌でも強制が有れば反対します。
ただ、それらのシンボルが推進、あるいは「強制」され、それに反対したいと思う人が現れるのは、そのシンボルに何らかの「意味」がある(あるいはあると感じる)からだと思います。
私自身は、日の丸君が代の持つ現在も続く歴史的問題を踏まえた上で、国民的な議論が尽くされ、その上で、それでも国民がこれを受け入れるのであれば、それは良いと思います。その場合でも「強制」はゆるされない。しかし、未だにその議論がなされていないと思います。
2、三輪さんは私からの質問に答えられ「民主主義を認めるからには多数決を認めざるを得ない。民主主義は少数派になった人は我慢するしかしようがない。少数派になった者はその瞬間から多数派になるべく運動をやってゆけば良い。 ということであれば、民主主義は99.99%以上多数決で決めていい。」とおっしゃいました。
これは日の丸君が代問題の根底にある問題だと考えますので、討議の中でも時間を費やしました。再度以下の例を示します。
例1 町内会で地域の神社や寺院の祭礼 に対し寄付を求めたり、協力することを、多数決で決議する。
例2 国会で多数を占めた政党の支持宗教団体の宗教をその国の国教とする。国民にその宗教への帰依を強いる。
民主主義は、多数決で決めて良いことと、決めるべきではないことをわきまえることから始まると考えます。少数派の人権が侵されたり、思想信条の自由に抵触することを多数決で決めるべきではないのです。
多数党でも例2のような法律は作ってはならないのです。
誰が多数、権力をとっても少数が抑圧される事のないシステム、コンセンサスを持つ事、民度の高まりが必要だと思います。
そうでなければ、常に多数の側、権力の側に付いてうまく立ち回る者が良い目を見、社会の理不尽を指摘して改善しようとする者は常に虐げられることになりかねません。
残念ながら、日本の(日本だけではない)「民主主義」の現状は、多数を取ったものが良い目を見る状況だと思います。
議員の多くは国家、社会を良くしようとする姿勢を持たず(公約では美味しいことを言ったとしても)、地域や同業など仲間内の利益代表として立候補し、選挙民は社会全体に取って何が良いか、ではなく、自分に取ってどっちが得かという観点で投票しています。その為に、改めるべき社会問題を改善出来ない状況があると思います。
3「日の丸に反対をしている人達は外国から日本の悪口を言われると喜ぶかも知れない、朝日新聞のようなマスコミでも日本人としての意識を持たないことがもてはやされている。」
この誤解は、前回の討論の中である程度解けたのではないかと期待しています。日の丸の強制に反対している人は日本を嫌いな人ではない。私もイチローが活躍すれば嬉しい。中には例外もいるかも知れないが日本の社会を良いものにしようとする気持ちで行動しています。その為に社会の改めるべき悪いところを指摘しています。
また国に対する誇りは「神話」を根拠に持つのではなく、私たちが国民として取る、誇りうる行動によって持つべきだと思います。
4 「反天皇であるかぎりサヨクは愛国心を持ち得ない。愛国心はその国の歴史を認めるところから来ており、天皇は日本の歴史そのものである。」
私はこのように考える人を右翼と定義すると思っていました。
三輪さんが言われる「一人だけ天皇という尊い者を頂いて、その下に他は全部平等を徹底する」という考えも理解は出来ます。現に王室が存在している国がある事も知っています。
しかし、時にそれを悪用する者が現れ「尊い者の意思」として国民を扇動し、民主主義を否定する危険があるので賛成出来ません。私は天皇個人が嫌いなのではなく、「身分の違いの存在」が必要ないと思っています。
愛国心とは領土や天皇を愛する事ではなく、立場や思想やあらゆる「違い」を越え、全ての人を愛し、その為に、自分を犠牲にしてでも行動しようとする心だと思います。
5 日の丸を引き下ろすなどの「実力行使」を伴わない「強制」の例として、北九州で係争中の「こころの裁判」を示します。
1996年提訴 原告十数名の教員(別々の学校)は君が代斉唱時、校長から起立して歌うことを職務命令として命じられ、これに従わなかったとして戒告などの処分を受けています。