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月光仮面物語 投稿者:名古屋の月光仮面    
私は東京都渋谷区で生まれました。 1940年 昭和15年です。
当時の家族は親父とお袋は歯科医師でした。 自宅営業。
同級生で明治38年生まれです。

姉は日本女子医大、 兄は東京大学法学部 姉は宝塚歌劇団
花組、
私は私立高校3年生、  妹が中学3年生でした。

歯医者といえどもお金がなくて私は親から大学にいかせてあげられないといわれておりました。 高校3年になったばかりのときです。 
18歳です。

しかし長女の姉が米国の2世と結婚して米国で生活しておりましたので、 
兄弟呼び寄せで米国の学校に通学したらどうですかと聞いてきました。

高校卒業が3月、  横浜港(メリケン波止場)から
大阪商船三井船舶のアフリカ丸という貨物船のブラジル移民船 乗客550人が乗った船で日本を出ました。
ベッドは鉄パイプを組んで出来た3段式のベッドでした。

13ノットです。  エンジンが焼けますので深夜船が止まるのです。  
ノンストツプで21日間かけてロスの近くのサンペドロ港に入りました。

話は戻りますが、 渡航準備は全て自分でやりました。
旅行会社があまりなく当時は1年間に50人くらいしか出られないようでした。
ドルがなくてひとりあたりの準備が200ドルだったと思います。
2007/07/19(Thu) 00:20:00 [ No.739 ]
Re: 月光仮面物語 投稿者:田中哲朗    

意外にも(失礼)ハイソなお生まれの月光仮面さん。これまた意外にも渡航の目的は、当時まれな海外留学だった。

日本から外国に行く人が50人という意味ですか?船には550人。

> 準備が200ドル。

これは渡航費用ということですか?換金限度額という事ですか?

バイトで準備されたんですね。当時コンビニなんかなかったからバイトと言っても・・・・。

 当時1ドル360円だったでしょうか?当時の物価水準から今のお金にするといくらぐらいの感覚?
21日間の貨物移民船での船旅、快適なんでしょうか?
乗り合わせた人、船員、食事など何かエピソードはありますか?

皆様  

根津さんの停職出勤日記7月18日です。

http://www.okidentt.com/nezu/07teishokushukkin.html

   
2007/07/19(Thu) 09:32:18 [ No.740 ]
Re: 月光仮面物語 投稿者:名古屋の月光仮面    

当時私が18歳のころの日本からの留学生などは50人くらいでした。
したがって旅行者などは会社の出張などが大半を占めておりました。
手続きも外務省などに自分で行きましたし、 パスポート申請も自分でやりました。
外務省も皆さん親切に手取り足とりで教えていただけました。
査証は当時虎ノ門の米国領事館に行きました。
ここでも全て自分での申請でした。
外務省も米国領事館も何度も足を運んでの申請でした。
 
私は200ドルの申請限度額に対して日本円からドルに買えたのは50ドルでした。  お金がなかったのでした。

そうです1ドル360円の時代でした。

海外渡航者が年間50人くらいと覚えておりますが、 ブラジル移民は枠外でした。
50人の数字は学生ビザの数かもしれません。 

なにぶんにも記憶が薄れてきておりますので正確な数字は
お許し下さい。

ラーメンが大好きで確か50円くらいだったと思います。
お寿司も家族は上寿司を取りますが私は並を2つ頼みました。  腹ペコの時代でした。

ビザ申請に私は大変苦労致しました。
その原因が病気です。

小学校1年生の5月に肺炎を起こしてしまいました。
冷やすべき時に暖めてしまったので肺炎になったのです。
入院して手術をいたしましたが輸血で結核菌・梅毒菌を頂いてしまったのです。
当時は輸血も今のような完璧ではなく相当な問題があったようです。 手術も当時の外科の日本を代表される先生でしたが私の体はツベルクリン反応が陽性となったのです。
外科部長がペニシリンを相当に使ったといくことを聞いており、
輸血の2次災害を食い止めてくれたそうです。
当時の外科部長が懸命に治療されたのがよかったと
母が言っておりました。


おかげさまで肺炎・正確にはノウキョウといわれましたが
4ヶ月間の入院生活が終わり。 自宅に帰り自宅養生して
翌年の4月に又1年生として入学いたしました。
学年の最年長者が生まれて小学校時代この歳の問題が
つきまといました。  いい意味も悪い意味でも。

小学校時代はクラスでも1歳年上ですから、 考え方も体も大きくPTAのお母さんがたからはあの子に任せておけば
間違いないという考え方がありまして、 いつも級長とか
学級委員を任命させられておりましたし、 弱いものいじめがあるといつも引っ張りだされてしまいました。
つまり小学校時代から何かと問題があると引き出されるのです。  月光仮面の下地がここから生まれたのではないかといつも思っております。

ガキ大将にならなかったのは母に言われていました
言葉です。  『あなたのおじいさんは明治時代の陸軍中将・立派な方でした、 名前を汚してはいけません。』
つらかったですよ、 悪がきの楽しみが出来なかったのですから。
その変わりはありました、  もてたのですからね!

女の子にはもてました。  男の子には親友がおります。
今でも付き合っております。  そのときの友情は
続くものですね?

さてそんなことで中学・高校と進んで大学というときに
私の学校問題が米国となったのです。
英語はまるっきり駄目でした。
本当に英語は出来ませんでした。

私費留学ですから身元保証人が姉ということでI-20 
FORMが許可されました。  米国の高校生としての私費留学許可です。

身体検査に相当てこずりました。  骨髄液の検査には
泣きました。  髄液検査です。
何とか身体検査に合格して留学許可が下りました。

この当時の身体検査は今でも持っております。
小学生1年生で梅毒・結核ですからね。
両親の身体検査報告書も大事に保管しております。
原因が輸血であったということです。
今で言えばHIVの丸々クンと同じ運命であったのです。
私は幸いにも米国の最大にして最新の医療機関のお墨付きが
得られたのですから人生なにが役立つか計り知れません。

歳が一つ上でのいいことも悪いことも。
病気をしてつらい思いが人生に役に立った。

いろいろありましたが高校3月卒業で5月4日メリケン波止場から米国に向かいました。
2007/07/19(Thu) 12:56:08 [ No.741 ]
Re: 月光仮面物語 投稿者:田中哲朗    

 さらに意外、月光仮面さんは病弱な「できすぎ君」だった。
 爺さんが明治の陸軍中将というから半端じゃない。

 留学生が日本全体で年50人しかいない時代に留学された。

 ところで、アメリカに行かれる目標、夢などはどんなものだったのでしょうか?

 日本での生活に良しとされないものがあったのでしょうか。
2007/07/19(Thu) 13:13:55 [ No.742 ]
Re: 月光仮面物語 投稿者:名古屋の月光仮面    

1959年5月4日アフリカ丸に乗るいきさつは、 
日本の大学に行くお金がなかったからです。
家にはテレビもあったし、 冷蔵庫も掃除機も洗濯機もありました。
しかしながら大学に行くお金がなかったのは母親から聞かされておりました。  

家は私が今思えばそんなに貧乏ということはなかったと思いますが、
何故か日本では学校に行くことができないと信じて渡米の準備をしておりました。
確か兄は会社に勤めておりました。
日本の企業ですが、外国と関係のある会社でした。

当時19歳の私は夢とか希望などというものは全くなかったといえます。
ただ周りの学友からは大学試験勉強をしないで渡米手続きに明け暮れている私に
お前はいいなーといわれ続けている毎日でした。

英語も学校で習うだけだし、 周りに外国人は一人もいませんし、 言葉も判らないし、 目標も夢も何もなく時間に
押し流されていく日々でした。

渡航費用は米国から送金されて船会社に振り込まれておりました。 

船会社の説明では3度の食事は費用代金に織り込み済みなのでお金は必要ないということでした。
出国の当日には学友も沢山見送りに来てくれました。

ブラジル移民船ですから他の乗客は皆さん家族での乗船です。
子供でひとりは私だけでした。

ジャーン・ジャジャンーン ドラの音が鳴り響きました。
船の碇が揚がってタグボートで押し出され始めました。。。。。

いよいよ出国です。  お天気は曇りでした。 
2007/07/20(Fri) 13:10:12 [ No.743 ]
Re: 月光仮面物語 投稿者:田中哲朗    

> 何故か日本では学校に行くことができないと信じて渡米の準備をしておりました。

私は国立高専に行きましたが、母子家庭だったのでやはり大学のお金は出してもらえないと考えたからでした。

 中学出たての子供が寮で集団生活出来るか?(当時全寮制だった)と親は心配しましたが、私は平気だった。(夜、消灯後、ホームシックで泣いてる奴もいたが)

 しかし言葉通もじない、情報もないアメリカ留学とは比べようもない。

> 当時19歳の私は夢とか希望などというものは全くなかったといえます。

私も自分が何をすべきなのか、ずーと分かりませんでした。
(はた目にはいろいろやってるように見えたかも知れないが)
沖電気に首を切って頂いて、やっとすることが見つかった次第。感謝!

船の中の様子、人間模様、少しくわしく聞きたいです。
2007/07/20(Fri) 14:33:06 [ No.744 ]

- Joyful Note -
Modified by isso