2006年1月1日 東京新聞

 こちら特報部

異端の肖像2006 「怒り」なき時代に<1>
シンガーソングファイター 田中哲朗(57)


 「日本人は怒らなくなった」といわれて久しい。企業の不祥事や理不尽なリストラ。国や自治体がもくろむ増税などに、どれくらいの人々が怒っているだろうか。だが、耳をそばだてると、怒りに震える声が聞こえる。それは孤独だったり、内に秘めたり、持ち続けていたり。中には悲しみを超えた重い怒りもある。二〇〇六年最初の異端シリーズは、さまざまな「怒り」の形をお届けする。


 朝八時、東京都八王子市の沖電気八王子事業所の正門前に、ギターを手にした中年男性が現れた。

 ♪出勤の人波は目をそらしながら門の中へと流れ込む

 指先に穴を開けた軍手でギターを抱えて叫ぶ

 生きてくれ生きてくれ人間として

 見えているものから目をそむけないで

   (曲名『日差し』)

 立ち止まって聞いてくれる人はいない。それでもギターの主、田中哲朗(57)は訴え続けている。二十四年前から。

 一九八一年六月二十九日、勤務先の沖電気から解雇された。職場復帰を求め門前の抗議行動を始めたのは翌日。人呼んで「シンガーソングファイター」の誕生だ。

 エンジニアとして八王子事業所で働いていた田中の運命を一変させたのは、七八年に同社が実施した千三百五十人の大量解雇だった。撤回を求める労働組合が会社側の切り崩しの前に急速に力を失う中、被解雇者を支援する社員は次第に孤立させられていく。田中はその渦中にいた。

 翌年初め、職場で始業時間前のラジオ体操が始まる。「体操に参加することで職場が会社に協力していることを示そう」と言う上司の言葉から、それが“踏み絵”であることは明らかだった。フロアに二百人くらいいた社員の中で不参加は田中だけ。「一人ポツンと席に座っていたので、正直な話、最初はドキドキした」と明かす。だが「意志を貫き通したことで自信にもなった」。

 そのころからエンジニアとしての仕事から外され、任されるのは補助的仕事ばかりになっていく。

 大人げない、いじめも多くの職場で始まった。

 ♪私はマンドリンクラブのリーダーだった

 みんなで楽しく合奏していたのに

 課長から言われたとまた一人メンバーがやめていく

   (曲名『いじめ』)

 曲中の「私」とは田中自身のことだ。

 解雇争議の当初は約二千人の従業員のほとんどがビラを受け取った。それが半年の間にひとケタ台に激減した。

 「これだけ大量の人間が、これだけ短期間に、これだけ急激に変わってしまうのか。これと同じ事が社会のレベルで起きたらどうなるのかとがくぜんとした。それが活動の原点にある」

 八〇年六月、労組役員選挙に立候補して会社の姿勢を徹底的に批判した。「ここで立候補したら、ただでは済まされないことは分かっていた。しかし逃げ出せば一生後悔すると思った」

 八一年六月、畑違いの営業職への配転という“最後通告”を突きつけられ拒否。予想通り解雇された。

 妻と子供たちをどう養うかはしっかり考えた。マンションを買ってまだ二年ほどしかたっておらず、多額のローンを抱えていた。子供は四歳、二歳とまだ小さかった。

 「家族の幸せも守れずに、何が社会正義だという思いがあった」。当時手元にあった四十万円の貯金を減らすようなことになったら、マンションを手放す覚悟を決め、トラック運転手になることも考えた。

 解雇五カ月後に開いたギター教室には、少しずつだが生徒が集まってきた。保育士の妻かほる(51)にも定収入があった。

 あるとき、かほるは幼い息子から「お父さんは何をやっているの?」と聞かれた。沖電気の前に立つ父の姿を見せ、「会社の怪獣と戦っているのよ」と教えたという。

 「若気の至りだったかもしれないが、会社をクビになってでも戦うという夫に、『もっと頑張ってほしい』という気持ちをもっていた。彼の選択が間違いだと思ったことはない」と妻は言い切る。

 地方に出掛けるなど物理的に不可能な場合を除き、門前の抗議行動は二十四年間皆勤だ。週末と祝日は自由な時間に来て、祈りをささげる。「世界が平和であるように。私の解雇後死亡した歴代の社長に『あの世から職場の差別やいじめをやめさせてほしい』」と。

 「解雇二十年特別座り込み」と銘打った〇一年六月には、当時自民党政務調査会長だった亀井静香衆院議員も座り込みに参加した。

 ギターを弾き、厳しい抗議の演説や呼びかけを行うが、沖電気の社員から罵声(ばせい)を浴びせられたことなどは皆無だという。

 「私は会社の理不尽な人権侵害に対する怒りから抗議行動をしてきた。しかし会社のだれかを憎んでいるわけではない。それが理解されているのだと思う。理不尽への怒りは人々の苦しみを変えようとし、そうなれば自分も幸せになりうる。憎しみに基づく行動は一時的には力を持つが、やがて自分をも破滅させる。怒りと憎しみは別のものだ」

 労働運動に詳しいルポライターの鎌田慧は、「田中さんは大量解雇が行われた当時はまだ頭角を現してはおらず、その後、会社の労務政策を批判し続けた『遅れてきた青年』。同僚に対する差別に義憤を感じて運動を始め、現代のサラリーマン像を描き出した歌を武器に訴え続けるスタイルは、新しい労働運動の文化をつくった」と話す。

 田中自身が沖電気を相手取って解雇撤回を求めた訴訟は、すでに九五年に最高裁で敗訴が確定している。このほか株主として出席している沖電気の株主総会で強制排除されたことをめぐり、会社と警察を相手に損害賠償を求めるなど数件の訴訟を起こしているがこれまでに勝訴は一件もない。「誇り高き敗訴記録」(本人の弁)を更新しながら、なぜ裁判を続けるのか。

 「今の裁判所は、権力や企業に偏った姿勢をとっている。裁判で私の主張がどのように退けられたかを、記録として後世にのこしておきたい。将来その記録がきっと裁判所をよくするのに役立つ」

 沖電気は〇三年、大分県湯布院町(現由布市)発注の公共事業に絡み、町長らにわいろを贈ったとして社員二人が逮捕されたが、田中は二千ページに及ぶ事件の供述調書を入手し、沖電気をはじめ大手通信機器メーカー数社が談合を行っていた事実を把握。〇四年九月、警視庁に告発状を提出したが、「時効が成立している」と受理されなかった。「警察が企業と癒着し、その裏返しとして労働運動、市民運動に敵対している。マスコミにも資料を送ったが反応がない」と憤る。

 門前の抗議行動は毎朝三十分間。この時期、早朝は氷点下近くにまで冷え込む。ポケットには三つの使い捨てカイロをしのばせ、歌と歌の合間にかじかんだ指先を押し当てる。

 沖電気は否定するが「指名解雇争議・和解交渉の過程で、会社側は和解金で解決しようとしたこともある」と田中は言う。しかしこれだけは受け入れないと最初から決めていた。

 「金銭ではなく、職場に戻るという形で会社に非を認めさせるのが私の役割だ。体力が続く限りここに来る」

 敗訴が確定した今も、その決意は揺らいでいない。

  (敬称略、浅井正智)

 ◆たなか・てつろう 1948年福岡県生まれ。69年沖電気入社。被解雇者の支援をする中で、会社から賃金差別や嫌がらせを受け、81年営業職への配転を拒否したため解雇された。現在、ギター教室を開くほか各地でライブ活動を行う。2005年12月多田謡子反権力人権賞受賞。ホームページのアドレスはhttp://www.okidentt.com


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