田中哲朗は四半世紀に亘って解雇撤回闘争を続けている。個人争議として日本の歴史の中で最も長い彼の闘いはドキュメンタリーの対象になっている。
金曜日の朝、西東京の高尾、眠たげで陰鬱なサラリーマンの集団が沖電気の門に流れ込んでいく。
午前8時前、田中哲朗は工場の門の前にバイクを停め、トラメガにつないだマイクスタンドをセットし、ギターを弾きながら歌い始める。
「君と僕との間には、目には見えない壁がある。国境の壁、言葉の壁、歴史とくらしの壁がある。」
日本の有数の電気会社の前。疲れた目の労働者、警備員、小学生やその母親達。誰もカウボーイハットの中年男が英語で歌うことに関心を示さない。
毎朝何年も続く、朝8時から30分間の彼のパフォーマンスは、牛乳配達屋のように風景にとけ込んでいる。
「彼はずっと昔に解雇されたんです。我々に関係ありません。」警備員は迷惑げに答えた。
1981年6月29日、田中は見せしめとしての配転命令を拒否したため解雇された。
13人の日本の総理大臣、アメリカの4人の大統領、少なくとも3人の沖電気の社長が交代した時代を貫いて、彼は自作の歌を毎日歌ってきた。
58才の彼は人生の半分を正義への飽くなき追求に捧げてきた。
「頑固ですから」と彼は言う。
門前行動の終わりに。
彼の好きなクラシック曲「アルハンブラの想い出」、プロ並みの演奏は車の騒音にかき消されがちになる。
続いて静かな祈り。
「私は解雇された後に死んだ3人の社長の冥福を祈っています。」と皮肉を込めず言い、「私は、敵であっても敬意を払います。」と付け加えた。
彼の闘いは1970年代の末沖電気が約10%の労働者を解雇したときに始まった。
彼や少数の労働者のグループはこの解雇に反対した。労働組合は支援しなかった。
結婚し2人の子どもがあった田中は被解雇者を支援した。
その中で、忠誠心を示さない労働者に対する企業の強烈な弾圧に直面した。
脅迫、賃金差別、さらに彼は語る。
「管理職は争議を支援している者とつきあうな、口を利くな、と命令しました。会社は始業時間前のラジオ体操を忠誠心の踏み絵(キリスト教徒にキリストの絵を踏みつけることを命じた)として導入しました。それを拒絶すれば反抗する者と見なされます。私は自分の席に着席していました。」
彼が組合役員選挙に立候補したとき、ほとんどの労働者が彼に対立する運動員として動員されたと言う。
1000人もの労働者が動員された立ち会い演説会。彼がステージに立つと、会場は一瞬静まり、「わずかな私の支援者を残し、労働者は全員その場を立ち去りました。後で私の友人が『みんなの顔は死人のようだった』と話してくれました。」
反抗的な労働者に対する日本企業の常套手段である配転攻撃までは、かっての同僚から無視されながらもわずかな支援者と共に、田中はリストラに対して闘った。
「配転は私が会社を批判したことに対する報復だった。だから拒否した。」と彼は言う。
その日が国立高専を卒業して12年勤めた沖電気での最後の日になった。
翌朝から工場の前に立ち、労働者に「理不尽立ち向かえ」と呼びかける闘いが始まった。
沖電気広報部のぶっきらぼうなコメントは「田中との雇用関係は、彼が配転命令を拒否した時点で完全に無くなっている。1995年3月、最高裁は我々の主張を認めた。これ以外に言うことはない。」
田中は自宅で音楽を教えて生計を立てている。しかし彼の生活のリズムは闘争を中心に成り立っている。
講演の為に海外など旅行しているとき以外、門前闘争を休むことは一日も無い。
「私は闘争を優先して生活してきました。風邪をひいたと思ったら早く寝ます。だから門前には休まずに行けます。」
毎月第3金曜日、彼は東京の沖電気本店に行く。毎月29日、午前10時から午後3時まで、八王子工場の前で座り込みを行う。参議院議員選挙に立候補。大物政治家と議論。12年の裁判闘争は最高裁で敗訴。
沖電気の株主総会ですらも、彼の怒りから逃れうる場所では無い。
田中は株主総会で株主として社長と対決している。
2003年の総会において田中と支援者は討議を3時間以上にも引き延ばし、その年の日本企業の株主総会で最も時間の長い総会の一つとなった。
社長は質問の集中砲火から逃れて立ち去った。
「敵は逃亡せざるを得なかった。」と田中は微笑んで言った。
それ以来沖電気は質問を3分間に制限している。(発言時間は会場に設けられた大きなビデオディスプレイで表示される。)
オーストラリアの記録映画製作者で大学講師のマリー、デロフスキーと夫のマーク、グレゴリーは田中の記録映画を作っている。
彼らは田中の書いた「闘いの哲学」を見つけた。「非常に興味深く、非凡だ。」と言う
この哲学は田中のホームページに掲載されている。このホームページは政治的な荒廃や社会の右傾化の危険性を警告している。
((http://www.din.or.jp/~okidentt/eigohome.htm)
その一部を紹介すると
「味方の中に悪を見る、敵の中に善を見る。人は自分たちは善で、相手は悪だと思いたいものである。しかし、100%善の人も100%悪の人も世の中に存在しない。」
マークグレゴリーはオーストラリアからの電話で
「日本の労働組合の多くは弱体化し、企業に癒着している。田中が解雇された理由は企業に対する忠誠心の踏み絵を拒否した為だ」
「彼は自分の解雇を非常に深く考えて、個人の尊厳において会社のたくらみを拒絶した。彼は会社の行いを許すつもりはない。彼はこの闘いの中で彼の人生を確立した。」
と語った。
田中は一人きりなのに自分に正直であり続け、自ら険しい道を選んだ、とグレゴリー氏は信じている。
「こんな事を、こんなに長い間続ける者は変な人じゃないかと思う者もいるでしょう。しかし彼を知れば知るほど全くそうでは無いことが解りますよ。」と彼は言う。
田中はこの何年か英語を勉強し、彼の闘いを海外にも紹介している。何百ページにも及ぶ彼のホームページは、涙ぐましい努力の末の翻訳文と英語の字幕の入ったビデオが見られる。
そのビデオでは彼が株主総会で沖電気の社長と対決し、声を振り絞って抗議する中、警備員から強制排除される様子が、テレビ番組「ロジャーと私」のように見られる。
ホームページには、彼の歌の詞や社会問題が書かれている。その中で憲法改正や学校の卒業式での君が代問題を指摘している。
田中は自分の経験から、権威に対する無批判な従順が、かって大惨事を招いたことのあるこの国の、非常に危険な兆候だと批判している。
いつか日本に徴兵制度が持ち込まれるかも知れない
ちょうど学校に 日の丸君が代が持ち込まれた様に。
いつかあなたの子ども達に徴兵令状がくるかも知れない
あなたが今働いているその会社から、配転命令が出るように。
「『日の丸』は沖電気の『ラジオ体操』です。これらは我々の信念を試しています。形態は単純なものです。しかし意味は企業でも政治の世界でも非常に深いものです。」
4半世紀の闘いを経て彼も老けては来た。しかし彼は全く後悔していないと言う。
「私は怒ってはいますが、憎んではいない。会社もそれを知っています。また、会社は私が闘いに命をかけていることを知っている。だから下手なことはしてこれない。」
彼が会社に要求していることは全く変わっていない。、会社が差別やいじめの労務政策を行った事を認め、謝罪すること。差別のない経営思想を導入すること。彼を職場に復帰させこの経営思想を監視させること。
ある朝沖電気の労働者達が彼のマイクで一緒に「ファイト ザ パワー」を歌うことなどおきないだろう。しかし田中は差別と闘え、とみんなを励ますために歌っており、すでにある意味勝利していると言う。
「私の解雇以来沖電気は差別を受けている人に遠方への配転を命じることが出来なくなっています。『第2の田中』を作ってしまうことが怖いのです。」と彼は言う。
株主総会で株主にもマイクを使わせろという彼の要求を会社が拒否したとき、彼は200m先まで声が届くトラメガを持ち込んだ。次の年、会社は株主用のマイクロホンを用意した。
「私は自分の命が続く限り闘います。10000人以上いた沖電気の従業員は7000人に減ってしまった。私に嫌がらせをした人のほとんどがリストラでいなくなってしまった。彼らも犠牲者であり、気の毒です。同じ事が日本中で起きています。」
沖電気の企業内のいじめの問題が民主主義と平和の問題にまで繋がっている。かれは 日の丸君が代の強制と闘う教員の為に作った歌の中でそれを示唆している。
民主主義の大切さを子ども達に語ろう。
平和への思いを私たちが示そう。
100年前の人権ひどかった。闘った人がいるから今がある。
今日はむなしく思えたとしても、100年後が今よりいいように。
David McNeill is a Japan Focus coordinator and writes about Japan for the London Independent and other publications. He wrote this article for Japan Focus. Posted at Japan Focus on April 12 2006.