沖縄旅行 季語ぬけ俳句集 俳句集
2003年10月31日ジュゴンの家で
名月や マッピーロマーの名護の海
マッピーロマーとは沖縄の言葉で、月明かりで昼間のように明るいことだそうです。ジュゴンの家の晋(しん)さんから教わりました。
月近し ゴーヤチャンプル 名護の海
ヤンキーの車 島唄 名護の海
沖縄の ヤンキー エイサー リーゼント
「ジュゴンの家」のベランダから沖縄料理を頂きながら作りました。
ここでのヤンキーはアメリカ人のことではなく「つっぱり君」のこと。晋さんによると本土ではすたれたリーゼントをまだしているとのこと。エイサーや島唄のつっぱり君はそんなに悪いことが出来ない気がする。
11月2日那覇「オープンスペース」で まよなかしんやさん「ジュゴンの家」とライブをした。
しんやさん、 主催者じゅごんの家の「はねやん」 参加してくれた村議会議員の宮城さん、それに知花昌一さんは私と同い年だと分かった。
沖縄も 花の団塊 頑固者 すぐ怒るくせ すぐ泣きもする
11月3日妻と南部戦跡巡りの観光バスに乗った。
バスガイドは今日はじめて乗務するという新米とサポートのガイド2名だった。
沖縄や 新米ガイドの みそら節
沖縄や 新米ガイドと 自決洞
「上陸」は人がたくさん死んだこと
ひめゆりや 新米ガイド 涙せり
手を合わす 観光客も 涙せり
分かれ唄 うたいて 乙女等 爆死せり
若き兵 見下ろす死体 乙女なり
数百の 乙女の遺影 叫びおり
ひめゆり資料館の入り口に制服を着て校庭に整列した数百人の女学生の写真があった。この乙女等のほとんどが悲惨な死を遂げたと思うと、胸にせまる写真だった。
涙を怒りへ 怒りを力へ 力を愛へ 愛を平和へ
バスガイド 「問題提起」をしておりぬ
シーサーも 個性 自由を 主張せり
戦跡も 珊瑚の海も 覆う基地
清し浜 戦 修羅場に変えにけり
乙女等の 飛び降りし崖 珊瑚礁
慰霊塔 妻はおみやげ 買いおりぬ
11月3日は読谷村にある歌声ペンション「まーみなー」に泊まった。オーナーは会沢芽美さん。メッセージシンガーだった。
私は知花昌一さんを表敬訪問しようとしていたが、夜、知花さんは泡盛を手みやげに来て下さった。私はライブをさせてもらい芽美さんも感動的なライブをしてくれた。知花さんは三線で沖縄の唄を沢山唄ってくれた。
見目もいい めみさん まめに まーみなー
三線の ライブ聞いてる やもりかな
三線の ライブ やもりも 唄いけり
まーみなーにはかわいいやもりがあちこちにいた。 キッキッと小さい声で、時に大きな声で鳴く。
沖縄の やもり 平和を叫びおり
11月4日妻は帰り、私は読谷村の戦跡を自転車でまわった。
思ったより坂が多く、距離もありきつかった。暑かった。約4時間のサイクリングだった。
自転車や 車の楽さ 思い知る
キビ畑 11月の炎天下
沖縄の 地べたに座り コーラ飲む
坂道や 巡礼修行 沖縄で
比べるほどの 苦しさでなし サイクリング
迷いながらチビチリガマに着いた。(ガマは洞窟の意)
階段を下りると、洞内には今も多くの遺骨があり観光客に踏まれるのが遺族には我慢できないから入るなと書かれていた。
三線で叫ぶ 髑髏とガマの像
チビチリガマ 一人髑髏と向かい合う
くやしかったでしょう。苦しかったでしょう。辛い思いをしても平和の為に闘いますから、力を下さい、勇気を下さい、機会を下さい。と祈った。「象のおり」へ向かうため階段を上った。
闘えと ガマが背中に呼びかける
この句は後でも思い出すたびになぜか涙がでる。
妻も帰り、オーナーは演奏旅行に行き、沖縄最後の夜は孤独を楽しんだ。
パソコンも無き旅の宿 虫の声
コンビニで 泡盛買いて 旅の宿
泡盛に 酔いて俳句の 出来ざりき
ボールペン 出来ぬ俳句に 腹づつみ
旅の宿 防災無線の 子守歌
早朝、日の出を見ようと外に出た。まだ一面の星空だった。
星空の中 音とずれ 軍用機
星空の中 音とおく 軍用機
11月5日 読谷村のバスターミナルから那覇行きのバスに乗った。バス停の名を記録した。
読谷のバス停の海 珊瑚礁
よのは入り口 宇佐公民館前 高志保 高志保入り口
那覇のバス 運転席の すだれかな
波平 読谷診療所前 都屋 楚部 読谷ニュータウン前
戦跡と 基地の島にも ニュータウン
楚部入り口 古堅小学校入り口 大木
候補者の旗競い合い 基地の島
本土には見られない候補者の横断幕が多く見られた
伊良皆 比謝後原 比謝
乗客の 方言すがし 基地の島
大湾 嘉手名 小釜入り口 西区前 小釜
「練場」は 練習場か 沖縄の
ときおり「なになに練場」の看板を見た。
海浜公園前 砂辺
横文字の店もまばらに 基地の島
この辺まではそれほど数がないと思った。
航空隊入り口
バス停に それらしき名や 基地の島
伊平 桑江 軍病院前
基地の島 鳥はフェンスを 飛び越えり
謝苅入り口 北谷
バス停の 地名読めねど 基地の島
伊佐浜
基地の島 軍用車両 整列し
伊佐 大山
横文字の 看板多し 基地の前
第一大山 眞志喜 大謝名
11月なれどエアコン 那覇のバス
宇地泊 牧港
黒字とは 思えぬ乗客 那覇のバス
港川
那覇のバス 客と親しい 運転手
第二城間 城間 屋富祖
何の店だったか、反対側席のブラインドの隙間からは確認出来なかったが爆弾の模型がぶら下がっていた。MILITARYという文字が読めた。
爆弾の看板もあり 基地の島
爆弾も 売り物なのか 基地の島
宮城 仲西 第一仲西 勢理客 安謝橋 安謝 天久 第一天久 上之屋 泊高橋 若松入り口 農林中金前
県庁北口 那覇バスターミナル
ここまで 1時間15分 おりてモノレールを探した。
美しきひとに道きく 那覇の街
開通間もないモノレールは見晴らしが良く、座っていたが立って景色を見た。
戦闘機 売ってくれそな 基地の島
モノレールから見えた公園に戦闘機が展示してあった
那覇の海 色を区切りし 珊瑚礁
戦闘機 カルガモのごと 飛び立ちぬ
尾翼だけ 見せて巨大な 爆撃機
基地の島 軍より低く 民間機
基地の上空を民間機は飛べない。一番下を民間機 その上が自衛隊 一番上が米軍機と、飛行高度が決められているとのこと。民間機は離陸後、空域を出るまで低空飛行を続ける。
帰りの機内で機長は今日が最後のフライトだというアナウンスが入り、機長は挨拶に回った。
客席からは拍手がおき、写真を撮る者もいた。
私も最初は単純に祝福しようと思ったが、「なぜ機長だけが?」と考えた。
日本航空の方針なのか、あるいは彼は信頼の厚い人でクルーが自発的に言い出したことなのか。
ジャンボ機の機長で終えし40年 抑圧の側 立つことなしや
結局きつい歌を作ってしまった。
平社員 退任式も なかりせば
持参せし 本も読まずに 島の旅
沖縄の砂は帽子に残りけり 我が闘いを 見とどけるがごと
11月8日「建国義勇軍の皆さんへ」を掲示した後、「日の丸ブラウス処分事件」の渡辺厚子さんの集会へ向かう電車で。
ライブの記録